第4話 幼馴染失格①

 外は小雨になっていた。

 これくらいなら、と傘もささず、スマホの地図を頼りに映画館までの道のりを急いだ。

 どんよりとした空に、生ぬるい空気。辺りにはアスファルトの湿った匂いが漂い、足を踏み出すたび、水たまりがぴしゃりと弾ける。じわじわとズボンの裾と靴が濡れていくのを感じて……やはり、どうしても戻される。蘇ってきてしまう。あの日の感覚――。


 気づけば、走り出していた。

 いつものように……。


 あの日から、ずっとそうだった。

 ふとしたきっかけで――、たとえば、まりんの姿が見えない、とか――、まりんに何かあったと聞くや――、あの日の感覚が蘇ってきた。

 どしゃぶりの雨の中、まりんを探して街を駆けずり回ったあのときの不安と焦燥感。それが何度も何度も生々しく蘇ってきては、追い立てられるようにして俺はいつも走っていた。走らずにはいられなかった。

 まるで悪夢の中にいるようで。唯一、そこから抜け出す方法は……無事なまりんをこの目で確かめることだけで――。


「ここ……か?」


 はたりと足を止める。

 辿り着いたのは、駅前のシネコン――とはだいぶ印象の違うこぢんまりとした映画館だった。

 大通りから狭い路地に折れ、しばらく進んだところ……。アパートに挟まれた、背も低く簡素なコンクリート造りの建物だ。外壁に貼られた映画のポスターが無ければ、とてもじゃないが映画館とは気づけなかっただろう。

 こういう映画館もあるのか、なんて呆気に取られてしばらく見上げる。

 いつのまにか、雨も止んでいた。

 ひとまず、外壁に背を預けるようにしてもたれかかって、すうっと深く息を吸う。


 うずうずと……急かしてくるものがあった――。


 この中にまりんがいると思うと……今にも中に入り込んで、その無事を確かめたい、という衝動に駆られる。

 無事だろうか? と何度も何度も頭の中でしつこく繰り返す声がする。


 千歳ちゃんの……いや、予想通りだ。


 今、なんとか踏み止まれているのは――堪えようと思えるのは――千歳ちゃんから聞いたからに他ならない。今までいかにまりんが我慢をしてきたか……。俺が心配するから、と映画館に行くのをずっと控えていたこと……。それを聞いたから、中に入るのをだけ。

 もし、それを知らなかったら――、今までの俺だったら――、まりんが俺無しで映画館に行くなんて、耐えられなかっただろう。真木さんたちと映画館に行く、なんてまりんに告げられたら、きっと俺は止めていた。どれほど、『大丈夫だってば!』とまりんにぷりぷりとされても……そんな危険な場所にまりんだけで(友達が一緒だとしても)行かせるわけにはいかん! とこっそりと付いていったやもしれん。


 だから、幼馴染をクビになったのだ――と言われたら納得もできていただろうが……と分厚い雲が覆う暗い空を振り仰ぎ、ふと思った。


 熱苦しい、と言われたのは……そういう意味で。俺が不安がるせいで、まりんはいろんな我慢をしなくてはいけなくて。それが苦しかったのだ。だから、もうまりんは俺と一緒にはいたくなくなったのだ。――そう言われていたら、まだ納得できた気がする。

 でも、ボウリング場で千歳ちゃんは言っていた。俺をクビにしたのも……俺を守るためだ、と。八年前、俺は俺自身を殺して……まりんはそれに気づいたから俺をクビにしたのだ、と。

 

 ぐっと眉根を寄せ、視線を落とす。


 俺を守るために幼馴染をクビにした、て……どういうことなんだろう? 俺が俺を殺した、て……どういう意味だ? なんで、まりんはそんなふうに思うようになった? 俺が笑わなくなったから……なのか? そんなの……俺も自覚していなかった。気づいてもいなかった。いつからだ? いつから、まりんは気づいて……悩んでいたんだ?

 分からない。何も……分かっていなかったんだ。

 身長体重、血液型、安静時の体温と心拍数、その他、諸々――まりんの全てを俺は把握しているつもりだったのに。発作の兆候となるような、まりんの些細な変化も見逃さない自信があったのに。

 俺はまりんの幼馴染で。誰よりもまりんの傍にいたはずなのに。

 もしかしたら、俺は……『ただの同中』よりも、まりんのことを分かっていなかったのかもしれない――そう胸の中でひとりごち、拳を握りしめた。

 そのときだった。


「ハクちゃん……!」


 その声にハッと我に返る。

 弾かれたように振り返れば――。


「びしょびしょ……!?」


 建物の入り口からひょっこりと出てきたのは……ほんわかと柔らかな雰囲気を纏った小柄な少女。彼女が現れるや、たちまち、雨上がりの重たい空気もぱあっと弾け飛んでしまうよう。

 まりんだ――。

 そのショートヘアは見慣れぬものの……紛うことなく、まりんだった。

 俺と同じく、まだ制服姿のまま。短くなった髪をふわりと弾ませながら、「雨……降ってたの?」と足元の水たまりを避けながら、こちらへ向かってくる。

 ああ、そんなに子ウサギのようにぴょんぴょんしてはこけてしまうぞ!? とハラハラとしつつも……その健康無事な姿に、ようやく鼓動が穏やかになっていくのを感じた。

 しかし、なぜ? と疑問もよぎる。

 なぜ、まりんがここにいる? まだ、映画は終わっていないはずだが……。 


「傘は!?」


 俺の前で立ち止まるなり、開口一番、まりんはそう訊ねてきた。


「は……傘……?」

「ハクちゃんなら、折り畳み傘、二本は常備してるでしょう?」

「ああ……」と背負ったリュックのほうをちらりと見やる。「入ってはいるが……小雨だったから要らんと思って」

「要らんって……」


 もどかしそうにまりんは顔をしかめ、


「こんなに濡れて説得力無いよ! もお……風邪引いちゃうからね!?」

「いや、大丈夫だぞ、まりん。俺は風邪は引かん」

「分かんないでしょ! こんなことしてたら、いつか引いちゃうよ!」


 ぷりぷりしながら言って、まりんは自分の鞄の中をごそごそと探り出した。そして、「はい、これ!」と取り出したのは、可愛らしいイラストが描かれたタオルで。


「拭いて!」

「拭いてって……」


 一目で分かった。そのタオルは、某メーカーの……まりんの大好きなコモリミサトデザインのもの。安心のふんわり柔らかオーガニック素材。俺がいつも、まりん用に、と持ち歩いていたものと同じ。――今も鞄に入っているそれとお揃い……。


を持っているからいいぞ。まりんのを汚すのは悪い。自分のを使う」

 

 すると、まりんはなぜかかあっと顔を赤らめ、「え、あ……いいの!」とあたふたとしながら、タオルを俺の胸に押し付けてきた。


「ハクちゃ……国矢くんが使っても汚れないから!」

「どういう理論だ? 汚れるぞ」

「とにかく、早く拭いて!」

「あ、ああ……」


 こんなに物を押し付けて来るまりんも珍しい……。

 よっぽど、俺は濡れているのだろうか。そんな感じもしないのだが。

 とりあえず、このままでは話も進みそうにも無い。まりんを落ち着かせるためにも、言われた通り、タオルを受け取り、わしゃわしゃと頭を拭いていると、

 

「やっぱり、ハクちゃんは……」


 ふと、まりんがひとりごちるように呟くのが聞こえた。

 ん……? と手を止めて見やれば、まりんがふっと微笑むところだった。親しみのこもった眼差しで俺を見上げながら、力無く、切なげに……。


「やっぱり……んだね」

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