第24話 ハクちゃん⑥

 外はどしゃぶりだった。

 すっかり暗くなって、街灯の灯る路地にはざあざあと冷たい雨が滝のように降り注いでいた。走るたび、服はべっとり身体に張り付いて、それがどんどんと重くなっていくのが分かった。

 髪から滴り落ちる水滴が邪魔で前もよく見えなくて。ぐっしょり濡れた靴はまるでスポンジみたいで。いつもならあっという間に駆け抜ける道も、途方もなく長く感じた。


 万が一にも発作でも起こしていたら――。

 もし、誘拐でもされていたらどうするの!?

 最後にまりんを見たのは君だから――。


 おばちゃんとおじちゃんの言葉が何度も何度も脳裏に木霊していた。

 不安でたまらなくて。怖くて仕方なくて。無我夢中で走り続けた。

 走らずにはいられなかったんだ。

 じっとしていたら……何かにぺちゃんこに潰されてしまいそうな。そんな感覚があった。

 だから、あてもなくマンションの周りを走り回った。まりんが範囲を。

 学校にも行ってみた。

 桃園グラウンドにも――その場所をまりんは知りもしないことを分かっていながら――行ってみた。

 でも、結局、まりんはどこにも見当たらなくて……気づけば、公園の前に戻ってきていた。


 最後にまりんを見たのは、そこだったから……。


 ざあざあと降りしきる雨の中、初めて足を止めた。

 足を止め、茫然と佇みながら――思い出していた。

 赤く焼けた陽の中、途方にくれたようにぽつんと佇むまりんの影。ハクちゃん、行かないで――と縋るように言った頼りない声。


 自分のせいだと思った。


 行かないで、て言われたのに。幼馴染になる、て――ずっと一緒にいる、て約束したのに。まりんを置き去りにして見捨てるような真似をした。たった一瞬でも、まりんと幼馴染なんかじゃなければよかったのに――なんて願ってしまった。


 気づけば、神様――と祈っている自分がいた。


 のかもしれない、と思い始めていたから。

 ごめんなさい――とずぶ濡れになりながら、瞼を閉じて祈った。あれは嘘だから……もう二度と、そんなことを願ったりしないから……まりんを返してください、と。

 もう、それくらいしかできることも思いつかなかった。

 固く瞼を閉じて、何度も無心で祈った。――だから、気づけたのだと思う。


 ふと、聞こえた気がした。


 かすかだったけど。雨音の中、ケホン、と咳き込む声がわずかに聞こえた。

 ハッと目を開き、弾かれたように公園を振り返った。

 まさか――と思った。

 きっと、植え付けられていたんだ。どこかに出かけたみたい、とか……誘拐でもされていたら、とか……そういうことばかり聞いていたから。まりんはてっきり、どこかに行ってしまったのだ、と思い込んでいた。だから、思いもしなかった。まりんがあのまま、今の今まで……公園に――こんなすぐ近くに――いたなんて。ありえないことだと思った。理由が思いつかなかった。別れたのは雨も降る前で。歩いて五分ほどの距離で。帰れない、なんてことはなかったはずだから。

 

 半信半疑ながらも公園に足を踏み入れ、雨が滴る視界の中、目を凝らして見回し、ハッと息を呑む。

 ベンチの裏。大きな木の下に横たわる影を見つけた。

 

 今でもはっきり覚えている。


 雨に濡れ、ぐったりとしたその体。

 轟く雨音の中、かろうじて聞こえた浅い呼吸。

 触れたその手の冷たさ。

 俺に気づくや、虚ろな目で俺を見つめ、『やっぱり……来てくれた』と朦朧としながら浮かべたその力無い笑み。


 瞼を閉じれば、まるでそこにあるかのように……ありありと思い出せる。毎晩のように生々しく夢に見る。あのとき感じた感覚と共に……蘇ってくる。何度も何度も、あのときにタイムスリップでもするかのように。

 

 まだスマホも持っていなかったし、公衆電話も駅前にあるものしか知らなかった。もともと人通りの少ない狭い路地で、雨の中、誰かが通りがかるとも思えなくて。

 まりんを背負って、何度もこけそうになりながらもマンションへ向かった。


 親を呼びに行った方が早かったのかもしれないけど。

 、まりんを置き去りにするなんて、俺にはもうできなかったから――。 


 背中に感じた体温は氷みたいに冷たくて。その身体は俺よりもずっと華奢で軽くて。それなのに、重くのしかかってくるものを感じた。――あのときは言葉にできなかったその感覚は……あのとき、すぐ背中に感じていたものは……きっと、『死』というものの存在だったんだと思う。


 結局、マンションに着く前に、俺を探して出てきていた母親に出くわした。

 そこからは……あまり覚えていない。

 ただ、どたばたと慌ただしい中、おばちゃんたちに『ありがとう』と何度も言われ、その間、ずっと足元を見つめていたのを覚えている。


   *   *   *


 それから数日、まりんは学校を休んだ。

 高熱とひどい発作が出ていたらしく、入院することになったが、幸い、大事には至らず、すぐに退院。無事だと聞いてホッとしつつも……いつ、がバレるのだろうか、と俺は気が気じゃなかった。


 まりんが行方不明になったのは自分のせいで。行かないで、という声も無視し、体調の悪いまりんを――具合が悪いことを知っていながら――俺が置き去りにした。それを


 体調が良くなれば、まりんは親にきっと言うだろう、と思った。あの日の真実を……まりんは明かすに違いない。

 それがいつ、自分の親にまで伝わるのだろうか、とずっと怯えて過ごした。


 でも、何日経っても、何も言われることはなく。顔を見に来てやってほしい――とあの事件以来初めて招かれたまりんの家でも、責められることはなかった。おばちゃんにも、そして、まりんにも……。

 なぜかは未だに分からない。

 でも、まりんは誰にも言わなかった。あの日の真実を誰にも打ち明けず、俺を責めることもせず、見舞いに来た俺に、ただ『いいんだよ』と言った。陽光が満ちる部屋の中、窓際のベッドで上体を起こし、『まりん、分かってるから』とどこか切なげに微笑み、


『だから――これからも、まりんの友達で……いてくれる?』


 それは『お願い』というには弱々しい、今にも泣き出しそうな声だった。

 俺は『うん』と力強く頷き、『ずっと……まりんの傍にいるよ』と誓った。


 そして、その二日後――まりんが行方不明になってから一週間ほど経った頃、


「あ、ハクちゃん!」


 放課後になり、ランドセルを背負って教室を出ようとしたときだった。

 背後から呼び止める声がして、はたりと足を止めて振り返れば、


「今から、皆でグラウンドでサッカーするんだけどさ……」とほくほくとした笑みで歩み寄ってきたのは、福ちゃんだった。「ハクちゃんもやろうよ」


 皆、て――とちらりと福ちゃんの後ろを見やれば、やはり尾上くんたちがいた。ラグビーをしたときのメンバー。いつもの面子だった。

 その日からまりんも学校に復帰して、日常が戻ってきた……ように思えた。

 でも――。


「いい。やらない……」

「やらないって……サッカーだよ?」


 ぎょっとしたのは福ちゃんだけでなく、後ろに控えていた尾上くんたちもだった。


「ハクちゃん、来ないの?」

「なんで……?」

「サッカーなのに?」


 福ちゃんの背後で尾上くんたちが顔を見合わせ、困惑気味にざわついていた。


「ハクちゃん、サッカー好きじゃん。どうしたの?」と福ちゃんは不思議そうに訊いてきた。「キーパー嫌ならやらなくていいよ」

「ううん……いい。帰る」

 

 さっと視線を逸らして、逃げるように身を翻した。

 そのときだった。


「あ、また高良さんだ!」


 はっと思い至ったように尾上くんが言うのが聞こえて、


「今日からまた学校来てるもんな。また呼び出されたんだ」

「あ〜、そういうことか。さすが『白馬の王子さま』だね!」

「お姫様のお迎えで忙しいんだ」


 わいわいと……またいつものように揶揄う声が背後で響いていた。 

 たちまち、ぐわっと胸の奥から熱がこみあげてくる――わけでもなく。

 不思議と何とも思わなかった。何の感情も湧いてこなかった。あれほど厭だった『白馬の王子さま』に何も感じることは無く、まるで他人事みたいに思えて……そんなことよりも――と急かしてくるものがあった。

 振り返りもせず、俺はそのまま廊下に出た。


 下校時刻となった廊下は騒がしくて、ランドセルを背負った同級生が慌ただしく行き交っていた。その中を無言で突き進み、隣のクラスに足を踏み入れた。

 まだ教室には何人か残っていて、真ん中の席には、まだ座ったまま、帰り支度をしている背中があった。

 

「まりん――」


 歩み寄って声をかけると、その小さな背中はぎくりとして、


「え……わ……ハクちゃん!?」


 振り返るなり、まりんはぎょっとしてあたふたと慌てだした。


「あれ……なんで……? どうしたの? ここ、まりんの教室で……勝手に入ったら怒られちゃうよ」

「具合、どう?」


 ぼそっと訊くと、まりんはハッとしてから……ふわりと微笑んだ。


「大丈夫。元気だよ」

「そっか……」


 いつから力んでいたのか、ようやく、ふっと肩の力が抜けた。

 よかった――と心底思った。


 まりんが無事でよかった。


「わざわざ、確認しに来てくれたんだ? ごめんね」とぎこちなく笑って、まりんは立ち上がった。「まりん、まっすぐお家に帰るから。心配しないで、ハクちゃん。また明日――」

「一緒に帰ろう、まりん」

「え……」


 ランドセルを背負おうとしていたまりんの動きがぴたりと止まる。

 ぱっちりとした眼をさらに大きく見開いて俺を見つめ、


「いい……の? でも、ハクちゃん、皆と……遊んで帰るんじゃ……」


 ぽかんとしながらそう訊いてきたまりんに、俺は首を横に振った。


「いいんだ。まりんと一緒に帰りたい」


 すると、まりんの顔にぱあっと光が満ちた。嬉々として無邪気に微笑むまりんは、確かに元気いっぱいで。その無事な姿に心が安らぐのを感じて。それだけでいい、と思えた。

 まりんが無事なら、それでいい――それ以外は、もうどうでもいい、と思い始めていた。


*過去編、これにて終了です。

 思ったよりも長くなってしまいました。


 真ん中部分でのお見舞いエピソードは2章14話『楔』に繋がっております。


 ここまで読了してくださった方、ありがとうございます。

 次話から6章となります。まだ少しシリアス続きますが、7章あたりからちゃんとコメディしますので。

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