第22話 ハクちゃん④

「ハクちゃん……」


 もう日が暮れようとしていた。辺りは橙色に染まり始め、足元にぐんと伸びる自分の影を延々と踏むようにして歩き続けていた。そうして学校から黙々と家路を辿り、しばらくしてから。背後から頼りなげな声がした。


「ちょっと……早い」


 息も切れ切れに言う声にハッとして立ち止まり、


「あ、ごめん。まりん」と慌てて振り返った。「ぼうっとしてた。大丈夫?」

「うん……」


 頷くまりんの顔に、いつものほんわかとした笑みはなかった。

 おぼつかない足取りでとぼとぼと歩いて来るその表情は沈んでいて、「つらい?」と訊ねると、まりんは俯いたまま首を横に振った。


「あと少しでウチだから……。もうちょっと歩ける?」


 ちょうど、イチハちゃんたちとよく遊んだ……あの公園の前に差し掛かったときだった。角を曲がれば、ウチのマンションが見える。そこからまっすぐ歩いて、当時の足で五分ほど。大した距離じゃない――はずだった。

 まりんが横に並ぶなり、再び、歩き始めると、


「何……しようとしてたの?」


 ぽつりと訊かれ、「え」と振り返った。


「何って……?」

「尾上くんたちと……どこか行こうとしてたの?」

「ああ、うん……皆で桃園グラウンド行って、ラグビーしよう、て話になって……行くとこだった」

「皆で……ラグビー?」


 はたりとしてまりんは顔を上げ、どこか不安げな――翳りのある瞳で見つめてきた。

 ひゅっと背筋が冷えるような不穏な何かを感じた。

 たまらず、俺は視線を逸らし、


「尾上くんの叔父ちゃんが教えてくれるんだ、て」となぜかは分からないけど、誤魔化すようにハハッと笑って続けていた。「すげぇんだよ。尾上くんの叔父ちゃん、テレビにも出たことがある怪人なんだって――」


 ズカズカと……無意識のうちに足早に歩き始めていた。

 そのときだった。


「行かなくてよかったね、ハクちゃん」


 ひやりと冷たい風でも吹き抜けたようだった。

 は――? とぴたりと全身が凍りついたように固まった。


「ラグビーって……危ないスポーツなんだ、てママが言ってた。パパも昔、やっててよく怪我してた、て。だから、パパも辞めたんだ、て……」


 まるで、必死に説得するように。どこか緊張したようなたどたどしい口調でそう言い募る声が背後から聞こえて――、


「だから……ハクちゃん、行かなくて正解だったね」


 その瞬間、自分の中で、何かがグシャリと押し潰されるような感覚があった。

 途端に息苦しくなって、ぎゅっと力強く拳を握りしめていた。


 『正解』って、なんなんだろう――そう呟く無機質な声が聞こえた気がした。


 正しいことをしている、という自覚はあった。

 まりんは体が弱くて……そのことを知っている友達は自分だけで。だから、自分がまりんを助けるのは当然のことで。まりんに頼られることは嬉しかったし、まりんのママおばちゃんに『いつもありがとう』と言われるのは誇らしかった。ウチの母親も『まりんちゃんを助けてあげて偉いわね』と褒めてくれたから。だから、これは『正解』なのだ、とは分かってた。


 でも、何かがしっくりと来なかった。


 いくら『正解』だと分かっていても、納得できない自分がいて。モヤモヤとした気持ちが……ずっと胸の奥に溜まっていて。正しいから――の一言ではもう抑えきれない気持ちがあって。


 怒りとか、苛立ちとか……そういうのとはまた違う。もっと複雑で、入り組んだ感情。その頃の自分には言葉にできない憤り。今、思えば、理不尽――に近いもの。


 なんで、僕だけ――と、ふと、思ってしまった。


 いや、きっと……思っていたんだと思う。心のどこか……昏く深い、無意識の底で。


 ――なーんだ。ハクちゃん、もう来れないんだね。

 ――ハクちゃんは、高良さんの『王子さま』だもんな〜。


 いつからか、そうやって揶揄われることも『日常』になって。そんな言葉を聞くたび、厭なものが胸の奥で渦巻くのを感じて。それは消えることなく、そこでずっと燻っていて……。

 別に、『王子さま』とか……そんなものにはなりたくなかった。多少、怪我したって、どれほど汚れたって、花畑で怪人みたいなおじちゃんとラグビーをしてみたかった。皆みたいに……。

 それなのに、なんで、僕だけ――。


 ――国矢くんはまりんちゃんの幼馴染でしょ!


 まるで俺の疑問に応えるように、脳裏をよぎったのはそんな責めるような声で。


「あ……そうだ。ねえ、ハクちゃん!」


 いつもの……親しげに呼ぶその声を、初めて、鬱陶しく感じてしまった。


 漠然と。唐突に。そのとき、思ってしまったんだ。――ああ、まりんと幼馴染なんかじゃなければよかったのに、と。


「昨日ね、ママがおいしい米粉クッキー作ってくれて……」

「あのさ、まりん――もう一人で帰れるよね?」


 気づいたときには、振り返ってそんなことを言い放っていた。

 心臓が焼けるように熱くなっていくのを感じた。

 夕陽が照らすまりんの顔が、見たこともないほどに強張るのが分かった。


「一人でって……?」

「おウチ、すぐそこだし……もう大丈夫だよね?」

「え……なんで……? いつもみたいに、まりんの部屋で一緒にお菓子……」

「僕……やっぱ、尾上くんたちと……ラグビーしたい」


 視線を逸らして、ぼそりと言った。

 まりんがはっと息を呑む気配がして……焦燥感がぐわっとこみ上げてきた。何を言われるんだろう? と急に怖くなって、「また明日ね!」と俺は逃げるように踵を返して走り出していた。

 辺りに、慌ただしく走る俺の足音が木霊する中、


「待って――」


 頼りない、そんな声がした。


「ハクちゃん、行かないで」


 今でもまだ、その声は鼓膜にこびりついて離れない。一瞬、ちらりと振り返って見たその光景――赤々と焼ける路地に、陽炎のようにぼんやり浮かぶ小さい影――とともに。


 初めてだった。まりんと出会って初めて、まりんを置いて行った。まりんを置いて、自分一人で楽しもうとした。

 とてつもなく悪いことをしてしまった、と思った。後ろめたさと罪悪感でいっぱいだった。でも、取り返しのつかないことをした――なんて思ってもいなかったんだ。


 それから、俺は桃園グラウンドまで突っ走って、尾上くんたちに合流した。

 聞いていた通りの怪人じみた強靭な肉体を持つ尾上くんの叔父さんにラグビーを教わり(といっても、もちろん、ボールの投げ方やパスの仕方くらいだが)、すっかり夢中になって、帰りも興奮冷めやらず、福ちゃんたちとエアラグビーをしながら家路に着いた。

 そして、家に着いてからしばらくして……一気にどんよりと暗くなった外から、激しく雨が打ち付ける音が聞こえてくるようになった。

 窓の外で降り注ぐ雨がまるで滝みたいに見えて、ちょっとワクワクしたのを覚えている。

 そんなとき、母親が青白い顔でリビングに飛び込んできて、のんびりテレビを見ていた俺に訊いてきたんだ。


「まりんちゃんがまだ学校から帰っていないんですって。あんた、一緒に帰ってきたんじゃないの!?」

 

 刹那、さあっと全身から血の気が引くのを感じた。

 あ……と、ふいに思い出したのは、夕方に見た光景で。いや、だって――と言いかけた言葉は声にもならなかった。

 言えるはずもなかった。『いや、だって……友達と遊びたかったから、途中で置いて行った』なんて……。


「まりんちゃんのおばちゃんが心配して、クラスの子に電話したのよ。そしたら、保健委員の子が『国矢くんに任せた』て言ってるらしいの。体調が悪いみたいだから、お家までちゃんと送って行ってね、てあんたに伝えた、て……」


 黙り込む俺にしびれを切らしたように母親はそう言い募り、じっと俺の目を覗き込むようにして再び訊ねてきた。


「ちゃんと……一緒に帰って来たのよね?」


 どうしよう――と思った。

 怖くてたまらなくて。俯くようにして、俺は「うん……」と頷いてしまった。


 ――その日、まりんは行方不明になった。

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