第21話 ハクちゃん③

 それは、まだ梅雨明け前の七月の上旬だった。

 

「あ、ハクちゃん!」


 授業も全部終わって、さあ帰ろう、とランドセルを背負っていたとき、そんな溌剌とした声に呼び止められた。

 振り返ると、「待って、待って!」と同じクラスの『福ちゃん』こと福田くんが駆け寄ってきて、


「今から、桃園ももぞのグラウンドでさ、皆でラグビーするんだけど。ハクちゃんもおいでよ」

「ラグビー……? なにそれ?」

「知らない」と福ちゃんはニカッと笑った。「尾上おのくえくんの叔父ちゃんが、教えてくれるんだって。男のスポーツらしいよ」

「男のスポーツ……?」

「すげぇんだよ。尾上くんの叔父ちゃん。テレビ出たことあるんだって」

「え、テレビ……!? ゆうめい人なの!?」

「お花畑行ったんだって」

「お花畑……?」


 今思えば、花園ラグビー場のことだったのだろうが――そのときは、分かるはずもなかった。

 ただ、テレビに出ていたなんかすごい人が、なんかすごいスポーツを教えてくれる、とそれだけが分かれば、小学生にとっては十分だった。


「どーすんの〜? ハクちゃんも来んの?」


 教室の後ろから、そんなじれったそうな声がした。ハッとして福ちゃんの背後を見やれば、そこにはランドセルを背負ってたむろする四人組が。その中の一人――一際背の高い尾上くんがウズウズとした様子でこちらを見ていた。


「行くなら、早く行こーよ。叔父さん、待ってるからさ」

「あ……うん。行く!」


 イチハちゃんたちは学区が違っていたようで、小学校も別々で、あれから……疎遠になってからは顔を見ることもなくなっていたが、小学校に上がれば、他の友達もできて、休み時間や放課後には、ドッジボールやらサッカーやら……それまでの鬱憤を晴らすように体を動かしまくっていた。


 そうして、段々と思い出していた頃だったんだ。そういう楽しさ。まりん以外の友達と遊ぶこと――。


「尾上くんの叔父ちゃん、テレビ出たの?」


 ウキウキとして訊くと、尾上くんは得意げにふふんと鼻を鳴らした。


「大学ん時にね。すげぇデカイよ。怪人みたい!」

「えー!」

「おお……」

「やっぱ、テレビ出る人は違うんだね……」


 怪人みたいだ、という尾上くんの叔父さんにそれぞれ思いを馳せながら、六人で固まって教室を出た。

 そのときだった。


「あ、国矢くん!」


 聞き慣れない甲高い声が廊下に響き渡った。

 ――厭な予感がした。

 たちまち、胸の奥にずしりと何か重たいものが沈んでいくような。鬱屈としたものを覚えた。

 振り返る気にならなくて。押し黙って立ち止まっていると、皆がどこか責めるような眼差しで俺を見てきた。


「……ハクちゃん、女子が呼んでる」


 痺れを切らしたように尾上くんが口を開き、面倒そうなその声に急かされるようにして「うん、分かってる……」と観念したように振り返れば、やっぱり、そこには――。


「まりんちゃん、体調悪いんだって。国矢くん、おうちまで送って行ってあげて」


 ツインテールの女子だった。もう顔も朧げで思い出せない。ただ、その使命感に満ちたようなハキハキとした声はよく覚えている。

 その隣には、確かに、熱っぽく赤らんだ顔のまりんが。


 またか――と思った。


「なーんだ……」


 すぐに、あーあ、と落胆する声がすぐ隣からして、


「ハクちゃん、もう来れないんだね」


 嫌味っぽい尾上くんのその言葉に、ぎくりとした。


 小学校に上がってから、まりんとは別のクラスになったが、それでも……まりんが頼るのは俺だった。

 まりんは体質のことを友達に知られるのを嫌がって、まりんの親も学校側もそれを尊重する形で秘密にしていた。だから……実質、俺にしか頼れない状況になっていた。何かあればまりんはすぐに俺の名前を出して、こうしてまりんのクラスの女子に呼び出されることもしょっちゅうで。周りもすっかりそれに慣れ、そういうものだ、という『常識』になっていた。


「ハクちゃんは、高良さんの『王子さま』だもんな〜」

「ああ、そう、そう! 名前の通りだよな。『白馬の王子さま』」


 おもしろがるようにケタケタ笑う声が辺りに響いて、かあっと鳩尾の奥が焼けるように熱くなった。


「そんなんじゃ――」


 言い返そうとしたとき、「国矢くん!」とぴしゃりと叱るような声が飛んできた。


「ちゃんとおうちまでついててあげるんだよ」と名前も忘れたその子は言って、ずいっとまりんを俺のほうへと押し出してきた。「――国矢くんはまりんちゃんの幼馴染でしょ!」


 その言葉に、ぐさりと胸を貫かれたようだった。

 何も言えなくなる――。

 『幼馴染』になる、と……ずっと一緒にいる、と俺はまりんと約束したから。約束を破ってはいけない――それは、その頃、守るべき最低限の世界のルールだったから。

 押し黙って立ち尽くす俺を尻目に、「行こーぜ」と尾上くんが苛立たしげに言って、福ちゃんたちを引き連れて去っていった。


 いつものように――。


 皆、知っていたんだ。『幼馴染なんだから』と言われたら、俺が何も言い返せないことを……。まりんの友達も、俺の友達も……。


 今、思えばおかしなことだろう。小学二年で『幼馴染』も何もない。それなのに、皆、俺たちを『幼馴染』だと

 きっと、まりんが周りに言っていたのだと思う。あの日の約束――俺はまりんの『幼馴染』で、『ずっと一緒にいる』トクベツな友達なのだ、と。

 だから、周りも半ば面白がって――きっと『幼馴染』の意味もよく知らずに――やたらと『幼馴染』という言葉を口にした。何かあれば『幼馴染だから』と言って、俺のところにまりんを連れて来るのが、女子の間ではまるで正義の行いのような……そんな風潮さえあった。


 そういう状況を、段々と鬱陶しく思い始めていた。

 まりんを――とそう感じるようになっていたんだ。

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