第5話 それとも

 思いの外、走ってしまった。

 汗だくだ。

 スマホも置いて、親が起きる前から走りに出かけるのはいつものことで。朝、俺の姿が無くとも、ウチの親は驚くことはない……が、さすがに今朝は走りすぎてしまった。そろそろ、学校に遅刻するんじゃないか、とハラハラしだしていてもおかしくはない。

 ちょうど、まりん宅の扉の前を通り過ぎようというとき、ちらりと腕時計を確認する。

 もうすぐ六時半。そろそろ、まりんも起きる頃合いだ――。

 朝が苦手なまりんだが、どうやら、あのエンジェルヘアー(俺命名)の手入れには時間がかかるようで。学校の日は一生懸命、早く起きるのだ。

 俺もさっさとシャワーを浴びて、用意をせねば。まりんは嫌がるだろうが……やはり、同じ電車には乗りたい。別に口を利いてもらえなくてもいい。せめて、その無事だけでも確認したい。そうでなければ、俺が生きた心地がしなくて――。

 ふうっと深く息を吐き、ガチャリとウチの扉の鍵を開けた。


「ただいま」


 扉を開けながら言って、中に入る。

 上がり框に座り、ランニングシューズの靴ひもを解いていると、トトトと軽快な足音が近づいてくるのが背後から聞こえて、


「おはよ、白馬くん!」

「ああ。おはよう」


 腰を上げ、靴を脱ごうとして――ハッとする。

 え……? 今の声……?

 ぎょっとして振り返ると、


「お風呂にする? ご飯にする? そ・れ・と・も……」

「ち……千歳ちゃん!?」


 その場にひっくり返らん勢いで驚愕の声を上げる俺に、「あ、もう!」とそこにいた制服姿の少女――千歳ちゃんはムッとして腰に手をあてがった。


「一番いいとこ、取っちゃダメ!」

「あ、いや……すまん」


 って、咄嗟に謝ってしまったが……そういう場合ではないような!?


「また今度、やり直しね」と落胆した様子でため息吐いてから、千歳ちゃんは改めて俺を見つめ、


「朝からジョギング、お疲れ様。――でも、スマホくらいは持っていこうね。何かあったらどうするの?」


 艶やかな長い黒髪をそっと耳にかけ、ふっと微笑むその様に……ああ、やっぱり千歳ちゃんだ――と再確認する。

 かっちりとしたブレザーの制服に身を包み、すらりと佇む立ち姿は、高潔なオーラが漂い、気品に満ちて――凛とした一輪の白百合を思わせる。まさに、『高嶺の花』とでも言うべき存在感。そんな彼女が、平々凡々としたウチの廊下に立っている光景は、どこか現実味が無くて、違和感さえ覚えるほどで……なぜ、彼女がこんなところにいるのだろうか、とぼんやり考えてしまう――て、本当になんでだ!? なぜ、千歳ちゃんがこんな朝早くにウチにいる!?


「どうしてここにいるんだ、千歳ちゃん!?」

「どうしてって……昨日、白馬くんの様子おかしかったし、体調悪い、て帰っちゃったから」

「帰っちゃった……から?」

「あのあとも、結局写真も送ってくれないまま、何の連絡も無かったでしょう。心配で、朝、早起きして電話したの。白馬くん、五時には起きてる、て昨日話してたし。でも、全然出ないから……気になっちゃって」

「ああ……そうだったのか」


 電話をくれたときには、俺はもうジョギングに出かけていたのだろう。悪いことをした。


「だから、学校始まる前に様子見に行こう〜と思って……思い切って、来ちゃった」

「そうか、来ちゃったか」


 なるほど、納得だ。

 昨日、千歳ちゃんの住所を教えてもらったときに、ウチのも教えておいたからな。


「わざわざ、すまないな、千歳ちゃん。心配させてしまって……」

「何言ってるの」と千歳ちゃんはどこか寂しそうに微笑み、「謝ることじゃない。――白馬くんが元気そうで良かった」

「……そう、か」

「うん。そうだよ」


 目を細め、穏やかに俺を見つめる千歳ちゃん。


 なんだろう――不思議だ。


 千歳ちゃんと一緒にいると、時間がゆっくりと流れるような感じがする。どこか、知らない場所にでもいるみたいな気分になって……忘れてはいけないことまで、忘れそうになる。


「あ、そうだ、白馬くん」


 急に千歳ちゃんはハッとして、神妙な面持ちになり、


「ちなみに、まりんちゃん家ってどこ? もちろん、近所なのよね?」


 ん……? まりんの……家?

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