五章

第1話 幼馴染たるもの①

 中学に上がり、『エロい』だなんだのと、いかがわしい話が周りから聞こえてくるようになった頃だった――。


 放課後はいつものように、四階にある音楽室へ。

 扉の窓からこっそり覗くと、ちょうど全体練習の時間だった。

 指揮者の位置から、何やら指示を出している様子の部長。それを、各々、楽器を手に真剣な表情で聞く吹奏楽部の面々。文化部とはいえ、筋トレなどをするらしく、皆、ジャージ姿だ。そんな中、ダサいはずの紺色のジャージも愛らしく着こなす少女が一人。

 ふわふわとウェーブがかった、柔らかそうな長い黒髪。窓から差し込む夕陽に溶けてしまうのではないか、という雪のような白い肌。遠くからでも分かる、ぱっちりとした大きな瞳は、瞬きするたびにキラリキラリと輝いて見えた。

 そんな彼女がフルートを膝に置き、ちょこんと座る様は、まるでエデンの園でユニコーンを待つ妖精(そんなものがいるかは置いといて)のごとく。『この世の可愛さをすべて、そこに置いてきた』と神様が誇らしげにいう声が天から聞こえてくるようであった。


 言うまでも無く、まりん(中一)である。


 そんなまりんのフルートの音色を今か今かと待っていると、ふと、まりんがこちらをちらりと見てハッとするのが分かった。たちまち、ぷうっと食いしん坊なハムスターよろしく、ほっぺを膨らませ、


 ――もう! また来ちゃったの!? 練習は聞いちゃダメ、て言ったでしょ!

 ――照れ屋さんめ。


 視線だけでそんな会話をし、やがて、部長がさっと手を挙げると、まりんは慌てた様子で視線を部長に戻してフルートを構えた。

 すっと一斉に息を吸う音が、扉の向こうから聞こえてくるようだった。

 たちまち、音楽室からは何層にも重なる管楽器と軽快な打楽器の音色が溢れ出し、あっという間に廊下は幻想的な雰囲気に包まれた。

 正直、合奏が始まってしまうと、どれがフルートの音なのか、俺には分からなかったが……。それでも、まりんが何度も息継ぎをして、フルートを奏でる様を見ているだけで満足できた。

 しばらく聞き惚れてから、俺は踵を返して、階段へと向かう。

 あとは部活が終わるまで、図書室で勉強を――と思ったのだが、


「あ、国矢くん……!」


 ちょうど、階段を一段降りようかというとき、眼下の踊り場にばっと現れた人影があった。

 まだ着慣れない様子のセーラー服はだぼっとして重たそうだった。二つに結った長い黒髪に、縁なし眼鏡。素朴な印象のその子には見覚えがあった。


「よかった」と彼女は息も絶え絶え呟いて、少し戸惑い気味に苦笑した。「本当に吹部のとこに居るんだ……」

「俺に何か用か、駿河するがさん?」


 階段を降りながら訊ねると、彼女――駿河結奈ゆなさんはぎょっとして、


「な……なんで、私の名前……!?」

「知ってるぞ。まりんと同じクラス、一年三組、出席番号十二番、駿河結奈さんだろう?」


 踊り場に降り立ち、さらりと言った俺に、駿河さんは眼鏡の奥で目をまん丸にして、さあっと顔色を失くした。


「え……まさか……高良さんのクラスメイト、全員把握してるの? 『歩く出席簿』って、こういうこと……」

「歩く……なんだって?」

「な……なんでもない!」あわあわと両手を張って、駿河さんは気を取り直すように咳払い。「それより、国矢くんに話があって……!」

「ああ。なんだ?」

「実は……ね、うちのクラスの教室に男子が数人、残ってて……」


 何やら言いにくそうに駿河さんは視線を逸らし、もごもごと歯切れ悪く切り出した。

 よく聞こえなくて、俺はそっと歩み寄って耳を傾けた。


「教室の隅で……見て、騒いでるの……」

「何をだ? 虫か?」

「あの……ほら……」とさらに駿河さんは口ごもりながら、ぽそっと言った。「エッチな本……」


 エッチな本……。


「ああ……」と、つい、納得したような声を漏らして、俺は天井を振り仰いでいた。「もうそういう時期か……」

「ちょっと……春が来た――みたいなノリで言わないでくれる!?」

「春が来たようなものだろう」

「ええ……!?」

「俺たちも中一だからな。いろいろと開花する時期だ。エロ本くらい、読むのも仕方ない。生物としてのさがだ。女の子が甘いものを無性に食べたくなるような感覚だと思ってくれればいい」

「なるほど……って、そうじゃなくて!」

「もう放課後で、授業中というわけでもない」


 まりんがその場にいるわけでもないのだし――と心の中にで付け加えつつ、


「悪いが、『許してやってくれ』としか言えん。他を当たってくれ」


 渋面浮かべて「すまん」と頭を下げ、俺は駿河さんの横を通り過ぎ、三階への階段を降り始めた。


「ちょっと待ってよ、国矢くん!」

「まあ、確かに……教室でそんなものを読むのはどうかと思うが、俺は所詮他クラスの人間だ。俺が口出す問題ではないだろう。俺ではなく、学級委員か担任に相談したほうが……」

「高良さんが関係してても……!?」


 階段に響き渡ったその名に、ぴたりと足が止まった。


 まりん……? なぜ、まりんが……?


 ぞわっと黒い煙のようなものが胸の奥に立ち込めていくようだった。

 ごくりと生唾を飲み込み、俺はゆっくりと振り返り、


「まりんがどうした?」


 踊り場に佇む駿河さんを見上げて訊ねた。

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