【番外編】幼馴染のバレンタイン(中学一年)

 まりんの朝は遅い。

 ダイニングテーブルで本を読む俺の前に、「ふわあ……」と春の音色のようなのどかな欠伸を漏らしながら現れたのは、もう十時を回った頃だった。淡い水色の寝間着姿で、柔らかなウェーブがかった髪はところどころぴょんぴょんと跳ね、野ウサギも羨むやんちゃっぷり。


「おはよう、まりん」

「ん〜……おはよう、ハクちゃん」


 俺の前を横切りながらまりんはぼんやり応え、まっすぐリビングへ向かおうとして、ピタリと足を止める。


「って、なんでいるの、ハクちゃん!?」

「そんなに急に振り返っては筋違えるぞ」

「ま……ママは!? パパは!?」


 きょろきょろと辺りを見回すまりん。

 しかし、リビングとダイニングがひとつなぎになった部屋はしんと静まり返って、他には誰もいない。


「おばちゃんたちはさっき、出かけていった。――二人きりだぞ」

「ふたっ……」


 まりんは何やら言い淀んで、視線を逸らした。白くふっくらとした頰がほんのりと色づく。今朝は血色も良さそうで何よりだ。


「も……もお……ハクちゃんは、ほんと……突然現れるんだから!」急にあたふたとしだすと、まりんは思い出したように髪を撫で出す。「前にアポなしで来ちゃダメ、て言ったでしょう!? 女の子にはいろいろあるんだよ!?」

「だから、行かなかっただろう、まりんの部屋には」

「玄関って知ってる!?」

「ああ、もちろん。ちゃんと敷居は跨いだぞ」

「跨ぐ前にアポ取るんだよ!」


 もお――と今朝も早よからぷりぷりして、まりんは「着替えてくる!」と唇を尖らせ回れ右。ぱたぱたと来た道を戻って行った。


   *   *   *


「それで……今朝はどうしたの?」


 俺特性の朝食ミックスまりんスムージー(フローズンベリーにスーパーフードの呼び声高いケール、それに臭み取りとして小さく切り分けたリンゴとココナッツウォーターを入れてミキサーでウィーンしたもの)をストローでチューッと飲んでから、まりんは小首を傾げて訊いて来た。

 つい十五分ほど前までは無邪気にはしゃいでいた髪はすっかり大人しくなって、今はキラキラと艶めく、なだらかな清流の如き黒髪に。寝間着姿も天使も羨む愛くるしさだったが、ダボッとしたパーカーワンピースもまりんのほんわかとした雰囲気によく似合って、向かいに座って見ているだけで『ああ、いい休日だなぁ』という気分になってくる。


「――よくぞ、訊いてくれたな、まりん」


 もったいぶるように少し溜めてから答え、俺はおもむろに立ち上がった。


「もうそれを訊くしかない状況だよ」


 ぷりぷり言いながら、まりんは再び、ストローをはむっと咥えてチューッと吸う。それを爺やの如く温かく見守りながら、


「今日はバレンタインだろう?」

「バレ……!?」


 ――まりんが盛大に咽せた。


「大丈夫か、まりん!? 誤嚥ごえんか!?」

「な……なんで? なんでハクちゃんが……バレンタイン……!?」

「俺は聖バレンチノ司教ではないぞ?」

「知ってるよ! そういう意味じゃなくて……」とまりんはかあっと顔を赤くしながら、困惑と期待が混ざり合ったような眼差しで見上げて来た。「なんで、ハクちゃんが……バレンタインでウチに……? 『義理チョコ』だって……賞味期限ギリギリに他人に渡すチョコだって……去年までそう思ってて……何も分かってなかったはずじゃ……」


 そう。二月十四日。この日になると、学校ではコソコソと教師の目を盗んで陰でチョコを渡し合う――というさながら麻薬の取引の如き怪しげな光景がそこかしこで見受けられ、『ギリチョコだから!』という女子の声をよく耳にしていた。

 ああ、なるほど。この日は、賞味期限ギリギリになったチョコを他人に渡していい日なのか、といつからか思うようになっていたのだが……。


 それは、去年のことだった。


 毎年の如く、放課後、わざわざウチに来て、もじもじとしながらチョコを渡してくれたまりんが『あのね。これ……ギリじゃないんだよ』と言うものだから、『知ってるぞ。毎年そうだもんな』と答え、その場で懇切丁寧に賞味期限の読み方を説明したら、まりんはいつもの比じゃないほどにぷりっぷりに怒ってしまった。

 てっきり、まりんは賞味期限を読み間違えて、俺に毎年、ギリギリではないギリチョコを渡してしまっているのか、おっちょこちょいさんめ……などと思っていたら、どうやら俺のバレンタインの認識が――チョコなだけに――甘かったようだ。

 バレンタインって、そういう日じゃないんだよ! とまりんに叱られ、俺は小六の俺なりにバレンタインを一から見直した。歴史を調べ、両親に訊き、『ああ、昔、私が賞味期限ギリギリのをあげちゃったから……』と母親の懺悔を聞き、『あまり、深く考えなくていいんだぞ、白馬。バレンタインなんて競争じゃあないからな?』となぜか父親に慰められ……とりあえず、『日本では、チョコレート会社の暗躍も絡んで、女性が大切な男性に日頃の感謝の気持ちを込めてチョコ菓子を渡す日になった』と理解した。


「去年までの俺ではないぞ、まりん」


 腕を組み、自信満々に言い放つと、


「そ……そうなの!? あ……でも、そうだよね。今年は、こうして……わざわざ出向いてくれたんだもんね」


 ふふ、と笑って、「ちょっと待ってて」と立ち上がろうとしたまりんを、「いや、座っててくれ!」と制し、ぽかんとするまりんを置いて俺はキッチンへと引っ込んだ。そして冷蔵庫へ向かい、約一分後――、


「というわけで、チョコレートケーキだ」


 昨夜焼いたチョコスポンジに、今朝、チョコクリームでデコレーションを施した、聖バレンチノ司教もおそらくご満足いただけるだろう、チョコレートたっぷりのチョコレートケーキをまりんの目の前にどんと置いた。

 まりんは唖然としていた。唖然として、チョコレートケーキを見つめていた。

 そして、しばらく経ってから、


「どういうわけ!?」


 ガタンと音を立てて立ち上がり、まりんは声を裏返して叫んだ。


「なんで、作って来ちゃってるの!? 唐突さが三分間クッキングの比じゃないよ!」

「なんでって……まりんが『もう中学生なんだし、バレンタインの本命チョコはそろそろ手作りケーキとかを渡してみたいけど、小麦粉は食べれないから味見できない。どうしよう?』と悩んでいるというのを小耳に挟んでな」

「どうやって……!? 小耳ってレベルじゃないよ! もはや地獄耳だよ!」

「それならば俺が――と思い、先月からいくつか試し焼きして、味見もした上で、たどり着いたレシピがこれだ」


 デコレーションも練習した。デザインはネットのものの見よう見まねで、オリジナリティには欠けるが。なかなかな出来だと自負している。これならば、自信を持って送り出せる――。


「さあ、まりん。心置きなく受け取って……『本命』に渡してくれ!」

「渡せないよ! いろんな意味で!」

「なぜだ!?」

「ハクちゃんが作ってどうするの!? 手作りチョコって……手作りならいい、てわけじゃないんだよ!」

「当然だ! 味は保証する」

「味の問題じゃないの! ハクちゃんが作ったんなら、おいしいのは食べなくても分かるよ! そういうことじゃなくて……」


 ふいにしゅんと勢いをしぼませると、まりんは俯き、


「そもそも……『本命』の意味、ハクちゃん、分かってるの?」

「本命の意味って……」ときょとんとしながら答える。「『一番好きな人』ということ、だろう?」


 すると、まりんは何やらもじもじとして、「それが誰か……分かってるの?」とぽつりと言った。

 まりんの……一番好きな人。

 分からん――と眉根を寄せる。なぜ、わざわざそんなことを訊く? そんな……ことを?


「当たり前だろう。昔から、まりんの『本命』は一人だけだ」

「へ……」と惚けた声を漏らして、まりんは顔を上げた。「分かってる……の?」

「ああ。なんだ……もしかして、そんなことを心配していたのか?」

「そんなことって……でも……」

「そういえば」とちらりとチョコレートケーキを見遣って、「肝心なものを忘れていたな。まりんが不安になるのも無理はない!」

「え……ええ……?」


 困惑気味におどおどとするまりんを残し、俺は再びキッチンへと戻り、冷蔵庫を開け、約三十秒後――、


「さあ、どっちがいい?」

「どっち、て……」


 また、まりんは唖然としていた。唖然として見ていた。ケーキの横に並ばせた二つのチョコプレートを。

 ホワイトチョコで作ったプレートだ。一方には、黒のチョコペンで『お父さんへ』、もう一方には『パパへ』と書いてある。


「好きな方をまりんが乗せてくれ」

「――純然たる『父の日』だよ!」


 もお、とまりんは憤然たる声を響かせると、俺をきっと睨み付け、


「ハクちゃん……」と低い声で言って、びしっと玄関のほうを指差した。「――退場です」

「ええ……もう、か!?」

「もうだよ!」


 なんてことだ……!? こんなに早く退場を食らうとは。自己新記録を更新してしまう!

 なぜだ? 何がダメだったんだ?

 

「どんな反則を犯したのか、せめて教えてくれ、まりん!」

「言わないよ!」

「デコレーションか? デコレーションが気に入らなかったのか? それとも『お父上へ』が良かったか!?」

「デコレーションもプレートも完璧だったよ! 立派なパティシエだよ! 感謝の言葉しかないよ!」

「それじゃあ、なぜ、退場なんだ!?」


 わあわあと喚きつつ、まりんに背中を押され、追い出されるように玄関まで辿り着くと、


「ちょっと……待ってて。ちゃんと靴、履いてるんだよ!?」


 よほど怒っているのか、顔を真っ赤にしてぴしゃりと言って、まりんは踵を返して廊下を戻って行った。

 

 そして、ほんの数分ほど経ってから。


 言われた通り、靴を履いて待っていた俺の前に、まりんが両手を後ろに隠すようにして現れ、


「はい……これ。どーぞ」


 下を向きながらおずおずと差し出して来たのは、可愛らしいピンクのリボンが巻かれた高級そうな箱で。中身は見えないが、おそらくチョコレートだろう、と察しがついた。そして……きっと、今年も賞味期限はギリギリではないのだろう。


「毎年、悪いな、まりん。こんな高そうなチョコを……」


 バレンタインを調べている内に、ホワイトデーなるものの存在を知った。どうやら、バレンタインにチョコレートをもらった男子は、キャンディやクッキー等のお返しをしなければならなかったようだ。そんなこととはつゆ知らず……俺はまりんに貰いっぱなしで、何もせずにのほほんと春を迎えてしまっていた。去年はそれこそ、『ギリギリ』で返せたものの。いったい、何年分のお返しが残っているのやら。


「今年のホワイトデーは期待してくれ。これまでの分も凝ったお返しを……」


 言いながら、箱を受け取ろうとしたときだった。


「本当は、まりんも手作り……したかったんだけど……まりんが作ると、チョコレート、いつも爆発しちゃって、跡形もなくなっちゃうから……今年もそこのチョコで……」

「爆発するのか……」


 それは、本当にチョコレートなのか? カカオではなく、火薬を仕込んではいまいか、まりん?


「でもね、ハクちゃん!」と急に息巻き、まりんはばっと顔を上げた。「それ、義理じゃないんだよ。手作りじゃないけど……特別なんだよ」


 まるで訴えかけるような。か細くも、その声は切実な響きを含んでいた。

 まっすぐに俺を見つめるその瞳はキラキラと輝き、いつもどこか心許無く揺れて見える。まるで澄み渡った水面のよう。あまりに清らかで、そこに映り込むことに躊躇いを覚えるほど……。

 出会ったときからずっと変わらない。

 

 見つめられるたび、守らなくては――と思う。


「分かってるぞ、まりん」


 覚悟を新たにするように顔を引き締め、箱を受け取る。そして、もう一方の手を、まりんの頭にぽんと優しく置き、


「幼馴染だもんな」と噛みしめるように言う。「――幼馴染チョコというやつか」


 すると、まりんはハッとして、何か言いたげな……もどかしそうな表情を浮かべ、「うん……」と視線を落とし、


「そう……だね」


 口許にぎこちない笑みを浮かべつつ、力無くそう呟いた。


*だいぶ、遅れましたが。バレンタイン用ということで。初詣編からさらに一年遡って、中一のときの二人のお話でした。


 チョコレートケーキは、まりんパパが「え? え、これ、まりんと……白馬くんからなの? なんで? 白馬くんの手作り? なんで? え、なんで……?」と言いながら、まりんママとおいしくいただきました。


 次話は【捏造編】です。

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