四章

第1話 幼馴染の部屋

「さ、上がって上がって〜」


 ぴょんぴょんと、まるでスキップでもせん軽い足取りで、千歳ちゃんはマンションの部屋の扉を上げ、玄関へと入っていく。

 ――駅から学校のほうへと戻って、徒歩十五分ほど。学校のすぐ裏にあるマンションだった。

 六階立てのマンションで、千歳ちゃんの部屋はその最上階。エントランスにはしっかりとオートロックの扉があり、暗証番号を入れて開ける仕組みだった。本物なのか、張りぼてなのか……までは定かではないが、エントランスには監視カメラもあって、部屋の扉の鍵にはピッキングが困難なディンプルキーを採用。セキュリティの点では幼馴染おれも満足の物件だ。

 一人暮らしと聞いて、不安もあったが……まあ、この物件ならば――と実際に見に来て、多少なりとも安心はできた。最上階だし、ベランダから侵入、といったことも難しいだろう。

 ひとまず、胸を撫で下ろし、


「お邪魔します!」


 軽く会釈し、玄関に足を踏み入れる。

 靴を脱いで、部屋に上がれば、そこは――ダイニングもかねているのか――広々としたスペースになっていて、その端に冷蔵庫とキッチンがあった。キッチンのコンロには、大きな圧力鍋が乗せられていて、ほわんとほのかに肉肉しい香りが吸う息に混じって鼻腔をくすぐってくる。

 そういえば、あとはカレールーを入れるだけだ、と言っていたな……なんて思い出していると、


「はーくまくん! 何突っ立ってるの? こっちこっち」 


 キッチンのスペースを抜けたところにある扉。おそらく居室につながっているのだろう、その扉の向こうから千歳ちゃんが手招きしていた。


「おお……すまん」

 

 手土産もといお菓子の入った袋を片手に、千歳ちゃんの後を追うように、俺もキッチンを通り過ぎてその奥の部屋へと向かう。

 ここが千歳ちゃんの部屋か――と足を踏み入れた瞬間、


「千歳ちゃん……っ!」


 全身の神経という神経がぴりっと一瞬にして研ぎ澄まされるような感覚があった。野性的本能というか、脊髄反射というか。すぐさま、お菓子の入った袋を放り投げ、「へ?」とぽかんとする千歳ちゃんの腕を引き、すぐ側の壁にその身体を押し当てていた。


「きゃっ……!? え、なに……」

「ここは危険だ!」


 壁に両手をついて千歳ちゃんを挟み込み、そのか細い体をこの身で隠すように覆う。

 俺の陰にすっぽりとおさまった千歳ちゃんは、呆気に取られたように目を瞬かせながら、


「危険って……私の部屋なのに?」

「そうだ。もうここは千歳ちゃんの部屋であって、千歳ちゃんの部屋ではない」と声を潜めて言って、ちらりと部屋に振り返る。「明らかに……空き巣が入った痕跡がある。まだどこかに潜んでいるかもしれない」


 そう――部屋は荒れに荒れていた。物がそこら中に溢れて、秩序のカケラもない。カオスといっていい、この荒れ模様。誰かが家探やさがしした跡に他ならない。


「中のものには触らないように。指紋が残っているかもしれない」


 千歳ちゃんに視線を戻し、じっと真剣な眼差しで見つめて言う。


「千歳ちゃんはひとまず、部屋を出て警察に電話するんだ。俺は、まだ犯人がどこかに潜んでいないか、部屋の中を隈なく確認してから――」

「ダメよ」


 まだ呆然としながらも……千歳ちゃんはぼんやりとそう言った。

 ん……? ダメ、て……?


「そんなことしちゃ……ダメ」と千歳ちゃんは表情を強張らせ、鋭い眼差しで俺を見つめてきた。「本当にまだ犯人がいたら危ない。そういう場合は、君も一緒に部屋を出るの。どれだけ君が鍛えていようが、相手が凶器を持っていたら生身の君に勝ち目は無い。銃なら一発。ナイフなら一突き。それで君は終わり」


 そっと千歳ちゃんの手が俺の胸元に――心臓のあたりに触れる。 


「自己犠牲なんて自己満足よ。それで、誰かを守れたとしても、誰も幸せにはできない。こういうときは、『一緒に逃げよう』って言うの。分かった?」

「一緒に……逃げよう?」

「そう。――そう言って欲しい、て思うよ」


 千歳ちゃんは目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。

 それはまるで、聖女みたいな――神々しく、包み込まれるような笑みで。つい、空き巣のことも忘れて、見惚れてしまった。

 そうして――壁際に千歳ちゃんを閉じ込めるようにして佇んで――しばらく見つめ合ってから、千歳ちゃんは「それに……ね」と声を落として切り出した。


「空き巣なんて入ってないから……部屋の中を隈なく確認しちゃダメ」

「へ……?」

「『へ』じゃないの!」


 ぴしゃりと叱りつけるように言い、千歳ちゃんは俺の胸元に置いた手を今度は俺の頰に当て、むぎゅっと抓ってきた。


「にゃ……にゃにをするんだ、千歳ちゃん!?」

「これでも、片付けたんだから! ちょっとは察してくれないかな!?」


 珍しく、顔を真っ赤にして子供みたいにムキになったように言う千歳ちゃん。

 片付けた? 察する? はて……と、俺はぱちくりと目を瞬かせてから、ハッとする。


「そういうことか! 元から千歳ちゃんの部屋は、この有様だった、と!? 千歳ちゃんはお片付けが苦手なんだな!?」

「はぐううう……!」


 何やら得体の知れない叫びを上げ、千歳ちゃんは顔を両手で覆って身悶えした。


「ど……どうした、千歳ちゃん!? 大丈夫か?」

「察して、て言ったのに〜……」

「ん? なんだ?」

「もう……なんでもない」


 どことなく諦めたようにぽつりと言い、千歳ちゃんは顔から手を離し、「それにしても……」と俺を上目遣いで見つめてきた。


「急に壁ドンなんて……びっくりしちゃったな」

「かべドン……? 誰だ?」

「誰、て白馬くんでしょ」

「俺……?」

 

 俺が……かべドン? 新たなあだ名か?


「私なんて、幼馴染成り立ての超初心者なのに。白馬くんったら、容赦無いんだから」ほわ〜っと恍惚としたため息を漏らし、千歳ちゃんは両頬をおさえながらくねくねと身をよじらせる。「そんなペースじゃ、身がもたないよ〜」

「身が!? 大丈夫か!?」

「大丈夫も何も。ごっつぁんです、て感じだよ」

「どういう……感じだ?」

 

 困惑する俺に、千歳ちゃんはフフッと笑い、


「ずっとこうしていたい――なんて気持ちもあるけど。そろそろ、いいかな?」


 小首を傾げて言われ、「ああ……そうだな」と俺は壁から手を離し、千歳ちゃんから身を引く。

 空き巣が荒らしたわけでないなら、何も警戒することは無いだろう。今の所は……だが。

 千歳ちゃんは満足げに微笑み、するりと俺の懐から抜け出すと、荒れた――いや、物が置かれた部屋を背に、「改めまして……」と腰に手をあてがい、にこりと微笑んだ。


「いらっしゃい、白馬くん。ちょっと散らかってる……けど、ここが今日から君の幼馴染の部屋よ」

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