第16話 ぶらぶらぶら

「フルネーム……? まりんの?」


 突然、なんだろうか、と思いつつ、「高良……まりん、だが」と答えると、「たから……まりん……ね」と千歳ちゃんは何やら考え込む風に呟いた。


「まりんの名前が……どうかしたのか?」

「んーん」と千歳ちゃんはにこりと微笑み、「ただ、知りたくなっただけ。珍しい名前――だね?」

「まあ、そう……だな?」

「さ、カレールーも選び終わったことだし。そろそろ、ウチに行こうか!」


 カレールーをひょいっと掲げ、レッツゴー! とばかりに千歳ちゃんは軽い身のこなしでくるりと身を翻す。意気揚々とレジへと向かうその背は実に楽しげで。そんなにはしゃいでは転んでしまうぞ――なんてのほほんと言ってついて行きたくなる……が、


「ちょっと待ってくれ、千歳ちゃん」と俺は慌てて、千歳ちゃんの腕を掴んで引き止めた。「俺は手ぶらだ。これではお邪魔できん!」

「え、手ぶら!?」


 ぎょっとして振り返った千歳ちゃんの訝しげな視線は、なぜか俺の胸元へと向かっていた。


「別に……いいんじゃないかな? 確かに、白馬くんはいい胸板していると思うけど、ブラジャーがいるほどでは――」

「そっちの手ブラではないぞ、千歳ちゃん!? 手がぶらぶら、ぶら下がっている――という意味で……つまり、手土産が何も無いということだ!」


 千歳ちゃんは「ぶらぶらぶら……?」としばらく困惑気味に眉を顰めてから、「ああ……!」とようやく合点がいったように声を上げた。


「Empty-handedね。いい、いい。そんなの気にしないで! Mi casaカサ esエス tuトゥ casaカサだよ」

「ミカサ……トゥ……?」

「スペイン語で、私の家はあなたの家、て意味」ぴょんとポニーテールを弾ませながら、千歳ちゃんは俺に体を向け直し、愛くるしく微笑んだ。「これからも気兼ねなく遊びに来て欲しいし、余計な慣習を作るのはやめよ。私、常識とかお作法とか……堅苦しいの苦手なの」

「いや、しかし……カレーも作ってもらうのにだな……」

「カレーは私が君に作りたくて作ったの。純然たる私の自己満よ。白馬くんが気にすることは何も無い。お腹いっぱい食べてくれればいい」


 腰に手をあてがい、ぴしゃりと言って、千歳ちゃんは「そもそもね――」と少しムッとしながら続ける。


「そういう申し訳無さそうな顔されちゃうと、こっちは立つ瀬無いのよね」

「立つ瀬……」


 なかなか難しい言葉を使うな、とぎょっとしつつも、思わず、自分の顔を押さえて俯いていた。


「そんな顔……していたか。すまん、そういうつもりはなかったんだが……」


 また、やってしまったのか――。

 昼に、『困った顔をしている』と千歳ちゃんに余計な心労を与えてしまったばかりだというのに。また、俺は要らん顔芸を……!

 そういえば、まりんもよくぷりぷりと怒っていたな。『また鬼みたいな顔をしている』とか、『なんで、そんな怖い顔でスズメ見るの?』とか……。無自覚だったとは言え、そういう俺の顔芸にも、まりんは嫌気が差していたのかもしれん。

 もっと俺は己の表情筋に責任を持たねば……! 肉体だけでなく、今後は表情筋も鍛えていかないと――と決意を新たにしたときだった。


「慣れてない……んだね。誰かに何かしてもらうこと」


 どこか寂しげに、千歳ちゃんが納得したように呟くのが聞こえた。

 今、なんて――と顔を上げれば、千歳ちゃんは憫笑にも似た、穏やかな笑みを浮かべて、真っ直ぐに俺を見つめていた。


「なんとなく……分かってきた気がする。君のこと」

「え……? 分かってきたって……」

「元気いっぱいで明るく見えて……本当はデリケート、か」


 意味ありげに、そんなことを――まりんが言い残した特徴を――ひとりごち、「こうしよう!」と千歳ちゃんはぱんと両手を合わせて、ぱあっと明るく微笑んだ。


「手土産は今日だけ。次からはノーブラってことで」

「ノーブラ……は今日もなんだが!?」

「それで……」


 千歳ちゃんはきょろきょろと辺りを見回し、「一秒待って!」とレジの方へと駆け出した。

 一秒……!? とそのなんともストイックなタイムリミットに面食らいつつ、言われた通り、その場で待つこと一分ほど……。

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