第17話 いいんだよ③

 保健室は再びしんと静まり返り、校庭から聞こえる楽しげな声だけが響く中、俺とまりんはただ見つめ合った。

 言葉が全く出てこなかった。

 何を言えばいいのか、分からない。どうしたらいいのか、分からない。

 だ、と思った。また、あの気まずさだ――。

 肺が押しつぶされそうな重い空気が立ち込めて、息を吸うのすら億劫になる。目の前にいるのは、まりんなのに。愛らしく可憐で、この世の『可愛さ』を集結させたような――その姿はまりんに違いないのに。八年前のあの日、絶対に守り通すと誓った幼馴染なのに。まるで、他人といるような居心地の悪さに襲われる。今朝、マンションの外廊下で味わったような……。


 やっぱり違う、と頭の片隅でぽつりと呟く声がした気がした。

 まりんは幼馴染だ。口でなんと言おうと、誰になんと言われようと、それは変わらない。でも……それでも、何かが違う。何かが変わった。

 何が変わったんだ――と考えようとすれば、自然と頭に浮かんでくるのは、千歳ちゃんで……。


「分かってるよ――」


 ふいに、まりんが静かに囁いた。

 ハッと我に返れば、千歳ちゃんの笑顔は脳裏から消え、代わりにまりんの笑みが飛び込んできた。「また来るね」って無邪気に浮かべた千歳ちゃんのそれとは正反対で。目の前にあったのは、力無くも穏やかで……どこか翳のある危うい笑みだった。


「ダメだよ。もう『他はどうでもいい』なんて言っちゃ……」まりんはやんわりと諭すように言って、「国矢くんには他に大事な幼馴染がいるんだから」

「へ……」


 思わず、惚けた声が漏れる。

 『大事な幼馴染』――まりんの口から出たその言葉に、面食らった。

 もちろん、誰のことを言っているのかは分かってる。はっきりとそう口にしたのも覚えている。それは俺が吐いた嘘だ。ほんの三十分前に、俺は皆の前で千歳ちゃんを『大事な幼馴染だ』と嘘吐いた。

 でも、なんでだ? なんで、その嘘をまりんが口にする? さも、信じきっているかのように――、まるで、それが真実みたいに――? この学校の誰よりも、それが嘘だと分かっているのはまりんのはずだ。まりんの他に、俺に『大事な幼馴染』はいないなんて、まりんはお見通しのはずなのに。


「なんで、まりんがそれを……」

「今朝、廊下で偶然、聞いちゃったの」慌てたように言って、まりんはばつが悪そうに視線を落とした。「新聞部の先輩と、千早先輩のことで言い合い……してたでしょ。あのとき、ちょうど、柑奈ちゃんと廊下を通りがかって、そのまま、最後まで聞いてたの。千早先輩が教室に入っていくのも廊下から見てた」

「ああ……」


 そういえば、真木さんもそんなことを言ってたな……と納得しかけて、ハッとする。


「って、そういうことを聞きたいんじゃなくてだな! なんで、その嘘を――」


 問いかけようとしたときだった。まりんはすかさず、「ごめんね!」と俺の言葉を遮り、


「今朝のこと……ごめんなさい!」と、ベッドの上に座ったまま、ちょこりと頭を下げた。「私、千早先輩が国矢くんの幼馴染だ、て知らなくて……千早先輩のこと、たくさん、ひどいこと言っちゃった。普通じゃない、とか、めちゃくちゃだ、とか……千早先輩のこと全然知らないのに、噂を鵜呑みにして……」

「え……」


 ぽかんとして、俺はパチクリと目を瞬かせた。もはや、それしかできなかった。

 全くもって、状況についていけていなかった。

 なんだ、これは……? この状況はなんなんだ?

 どうなっている? まりんはいったい、何を言っているんだ? 『知らない』って、そりゃそうだろう。千歳ちゃんが幼馴染だというのは嘘なんだ。まりんはそれが嘘だと『知っている』はずだろう。真木さんだって嘘だって気づいてたんだぞ。ありえない、とはっきり言い切った。それが当然の反応じゃないのか? が、俺にいるはずがない。中学の卒業式まで――俺が幼馴染をクビになるまで――大げさじゃなく、俺とまりんは片時も離れたことはなかったんだ。まりんが『知らない』時点で、千歳ちゃんは俺の幼馴染じゃない――それをまりんだって分かっていないはずがない。

 それなのに、信じきっている? それとも、信じているフリなのか? だとしても……だ! なんで、そんなことをする?

 分からない。さっぱり、分からない。幼馴染をクビになったときから……ではあるが。まりんの行動が全く読めん!

 ただ茫然とまりんを見つめることしかできなくて……そうして固まっていると、


「厭だよね」ぎゅっと布団を握り締めながら、弱々しく、独り言みたいにまりんは言った。「大事な人のこと……何も知らない人に悪く言われるの、厭だよね」

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