第16話 いいんだよ②

 あ……顔、近づけすぎた――。

 ほんの少しでも動いたら、うっかり額が触れてしてしまいそうで……。


「すまん!」咄嗟に身を引き、まりんの頰からぱっと手を離す。「頭突きをしてしまうところだったな!」

「頭突き!?」


 まりんはぎょっとして、呆れたような、驚愕したような……なんとも言えない表情で俺を見てきた。


「気になったの……そこなの?」

「まあ、ぱっと見だが、目に気になるものは見当たらなかったからな。ゴミらしきものも無かったし、睫毛が中に入り込んでいる様子もなかった。少し目を休めて、まだ違和感があるようだったら、一緒に眼科に行こう」

「そういうことじゃないよ!」


 もお――と、まりんはぷりっぷりに頰を膨らませ、俺をきっとねめつけてきた。


「国矢くん、なんで、ここにいるの!?」

「なんでって……どうしたんだ、いきなり?」

「いきなりなのは、国矢くんでしょ! 今、授業中だよ!? 昨日の腹痛、仮病だったんだよね!? 体調、悪そうでもないし……なんで、こんなところにいるの!?」


 責め立てられるように問い質され、俺はきょとんとしてしまった。

 なぜ、そんなことを訊くんだ? 今更、分かりきったことだろう。


「なんでって――まりんがここにいるからだ」

 

 はっきりとそう答えた瞬間、涙が残る瞳をキラリと輝かせ、まりんは目を見開いた。膨れっ面だったのが、ふにゃりと気の抜けたそれへと変わり、「そんな……」とおろおろと視線を泳がせ、


「そんな……まりんをエベレストみたいに言わないでよ!」

「エベレスト!?」

「なんで……なんで……」と譫言のように繰り返し、まりんは思いつめた表情を浮かべて俯いた。「ちゃんと気をつけて来たのに。誰にも見られてないはずなのに。なんで、気付いたの? なんで、まりんがここにいる、て分かっちゃったの!?」

「ああ、それは……」思い出したように言って、俺はベッドに腰を下ろす。「真木さんに聞いた。『胸が苦しい』と言って、まりんは保健室に行った、と」


 ハッとしてまりんは顔を上げ、「柑奈ちゃんに……」とか細い声で呟いた。呆気に取られたようにぽかんとした――かと思いきや、たちまち、ぶわっとその顔を真っ赤に染め、


「国矢くんには絶対に言わないで、て言ったのに〜!」

「俺には絶対に言わないで、て言ったのか!? 名指しか!? なぜだ!?」

「国矢くんは知らなくていいことだからだよ!」

「なんでだ!? 俺は医師免許はないが、まりんの身体のことなら、その辺の闇医者よりよく分かっているぞ!」

「その辺の闇医者と張り合っちゃだめなの!」両手をぎゅっと握り締め、まりんは力一杯、泣き叫ぶように声を張り上げ、「もう放っといて、て何回言えば、分かってくれるの!? なんで、大好きな体育、サボってまで来ちゃうの!? ハクちゃんとまりんは、もう幼馴染じゃないんだから――」

「幼馴染だ!」


 あ――と気づいたときには、腹の底から出したその声は、わん、と保健室に響き渡っていた。

 まりんは驚いたように目を丸くして、固まった。まるで、豆鉄砲を食らった鳩のような。ぽかんとしたその顔は、いつも以上に幼く見えた。

 そんなまりんを真っ直ぐに見つめ、「幼馴染なんだ」と、もう一度、俺は噛みしめるように言う。

 口では、クビだ、とか言っても、やっぱり『幼馴染』は『幼馴染』――本庄が言っていた通り、まりんもそう思ってくれているのかは分からない。今現在、若干、まりんは違うんじゃないか? という気もしているが……。

 ただ、一つ、確かなことは……どれほど、関係ない、と言われようと、たとえ『ただの同中だ』と呼ばれようと、俺はまりんを放っとけないんだ。まりんに何かあったと聞けば、走り出さずにはいられない。まりんが傍にいないと不安でたまらない。それを、今日、痛いほど味わったから……。


「まりんは俺の幼馴染だ。まりんがなんと言おうと、それは変わらない。変えられないんだ。だから、授業をサボってでも、まりんに何かあれば俺はどこへでも行く。まりんが無事ならそれでいい。他はどうでも――!」


 胸の奥でどんどんと熱くなるものを感じていた。焦り……にも似た、激しく燃え滾るようなそれに突き動かれるように、夢中で言葉を紡いでいた、そのときだった。

 ぶつりと言葉が途切れた。

 まりんが無事なら、他はどうでもいい――俺にとって、もはや真理の如く当たり前だったその一言が、詰まった。


 初めて、それが言えなかった。


 言おうとした瞬間、脳裏に、「また来るね」って教室を去っていった千歳ちゃんの笑顔がよぎった。

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