第14話 楔

 インターホンを押し、名乗るとすぐに慌ただしい足音が響いて来て、ガチャリと目の前の扉が開いた。


「白馬くん、いらっしゃい!」


 出て来たのは、まりんのママおばちゃんだった。

 八年前――小二の梅雨の終わりかけ。まりんが行方不明になったあの日から、まだ数日というとき。おばちゃんの痩せた頬は心なしかこけて見え、満面の笑みには疲れが伺えた。

 

「さ、入って、入って」

「あの……これ。お母さんが持って行け、て……」


 玄関に通されるなり、そう言って、みかんゼリーを二つおずおずと手渡した。まりんちゃんといえばチョコチップメロンパンだけど、お見舞いには、やっぱりゼリーかしら――と母が熟考の末に選んだものだった。


「あら、ありがとう」とおばちゃんは受け取って、いつも通り、俺にスリッパを出してくれた。「おやつの時間に出すわね。どうぞ、上がって。まりん、白馬くんに会えるのずっと楽しみにしてたのよ」


 ちょうど、スリッパに足を通したときだった。おばちゃんの言葉に、、俺はぴたりと動きを止めた。

 本当に――? と心の中でぽつりと呟く声がした。本当に、まりんは俺に会いたがっているのだろうか――?

 まりんは知っている。あの日のこと、全部……俺が何をしたのか、まりんだけは本当のことを知っている。

 暗闇の中に落ちていくような……足がズブズブと泥沼にはまっていくような……そんな感覚がして、身が竦んだ。

 帰りたい、と思った。やっぱり来るべきじゃなかった、と後悔した。

 行方不明になったあの日から、しばらくまりんは学校を休んだ。そうして四、五日ほど経った頃、ようやく体調も良くなってきたらしく、おばちゃんから「日曜日に、顔を見に来てやってほしい」とうちの親に連絡があった。「どうする?」と聞かれることもなく、その日のうちに、お見舞いのお菓子を選びに連れて行かれた。

 行きたくない――なんて、言えなかった。

 すっかり怖気付いて、その場から逃げ出したくなって、スリッパをそうっと脱ごうとした――そのとき、傍らで、ふいにおばちゃんがしゃがみこみ、


「白馬くん」そっと俺の肩に手を置き――きっと、まりんに聞こえないように――声を潜めて続けた。「本当に、ありがとう。この前……まりんを見つけてくれて……」


 ぞっと背筋が凍りついた。心の中を覗き込まれているような、そんな漠然とした恐怖に襲われて、俺は振り返ることもできずに俯いた。


「よく、あの雨の中、見つけてくれたわね。白馬くんが、まりんを見つけてくれてなかったら、どうなっていたか……」


 感極まったように声を詰まらしながらおばちゃんは続け、そして――、


「白馬くんは、まりんの命の恩人よ」


 そっと隣から力強くそう囁かれた瞬間、胸に激しい痛みが走った。

 まりんのイノチ――初めて耳にしたその単語が、楔となって胸に打ち込まれたようだった。


 そのとき、幼心に思い知ったんだ。自分がしでかしたことの重み。あのとき、俺が何をしたのか。いったい、置き去りにしたのか。


 ゆっくりと顔を上げれば、まりんの部屋まで真っ直ぐに伸びる廊下があった。『まりん』と可愛い丸文字のプレートが掲げられた扉を見つめ、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 今、あの扉の向こうで、まりんはどんな顔して俺を待っているんだろう? 俺の顔を見たら、なんて言うんだろう? 『ハクちゃんはまりんをわけじゃないんだよ!』て、目の前で、おばちゃんにバラされるんじゃないだろうか? ――そんなことをぐるぐると頭の中で考えながら、おばちゃんの後ろを歩いた。

 怖かった。ただただ、怖くてたまらなかった。生きた心地がしなくて、何度も何度も通ったほんの数メートルの廊下が、途方もなく長く感じた。

 でも――、


「ハクちゃん、来てくれたんだ!」


 扉を開けるなり、いつも通りのまりんの声が飛んできたんだ。

 窓から燦々と注ぎ込む陽の中、まりんはベッドで上体を起こし、憂さなんて一瞬にして弾き飛ばしてしまうような眩い笑顔を浮かべ、俺を迎えてくれた。まるで、何事も無かったように……。

 ぐっと胸に迫るものがあった。

 最後にまりんを見たのは、数日前のあの日だったから。雨に濡れて冷たくなって、聞き慣れない音を鳴らして呼吸を繰り返すまりんの姿が最後だったから。

 よかった――と心の底から思って、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。同時に、湧き上がってくるがあって、


「まりん、ごめ……」

「いいの、ハクちゃん」


 おばちゃんが部屋を去ってすぐ、思わず、言いかけた俺の言葉を――しかし、まりんは遮った。

 ハッと目を見開き、見つめた先で、まりんは柔らかく波打つ長い髪をふわりと揺らし、「いいんだよ」とどこか切なげに微笑んだ。


「まりん、分かってるから。だから――これからも、まりんの友達で……いてくれる?」

 

 それは、必死に泣くのを堪えているような声で……。

 楔が、さらに深く、心臓の近くに食い込むのを感じた――気がした。

 俺は震える手をぎゅっと握りしめ、「うん」と力強く頷いた。


「ずっと……まりんの傍にいるよ」


※一部、加筆しました。内容に変更はありません。(2021年6月30日)

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