第13話 向かうべき人③
な……なんだって……!?
当てつけ? 仕返し? なんのことだ? 狂犬? 俺が……? まりんに噛み付いた……!?
「お……落ち着け、真木さん」と俺は両手を挙げて見せ、「狂犬病は人が発症すれば、ほぼ百パーセント死亡する病気だ。脳炎障害から、最終的には呼吸停止で死亡する。今、生きている時点で、まず感染している可能性は無い。まりんに噛み付いた覚えもない。おそらく、真木さんは悪い夢か何かを見たのだろう」
「は……」
真木さんは呆気にとられた様子でぽかんとしてしまった。胸ぐらを掴む手は緩み、憤怒に染まっていた表情も気の抜けたそれへと変わっている。ホッとした……といった感じでもなく、困惑気味だ。よっぽどリアルな悪夢を見たんだろうか。
「安心しろ、真木さん」
俺は真木さんの両肩をがっしりと掴み、力強く真っ向から見つめる。
「俺は今朝もすこぶる健康だ!」
「そ……そんなこと訊いてない!」
なぜか、真木さんはかあっと顔を赤らめ、俺の手を払い除けるようにして後ろに飛び退いた。
「ああ、もう……ほんっと熱すぎだわ、君!」苛立たしげに吐き捨て、真木さんは上気した顔を歪めて視線を逸らした。「なるほど。まりんが参るのも分かる……」
「まりんがどうしたんだ!?」
「な……なんでもない!」
慌てたように俺の問いを一蹴し、真木さんはきっと俺を睨みつけてきた。
「それより、どういうことだよ!? 今朝のあれは!?」
「あれ……とは!?」
「いや、さすがに訊かなくても分かろうよ、そこは」とふいに、落ち着いた声が割り入ってきて、「写真……見たんだね、真木さん?」
ハッとして振り返ると、本庄が深刻そうな顔つきで真木さんを見ていた。
「写真……」ぽつりと口の中で繰り返し、思い出す。「そうか。今朝の写真……!」
そういえば、ちょうど、今、本庄にその話をされていたんだった。千歳ちゃんとの写真はすぐに一年の間に出回る、と。いつか、他の同中の目にも入るから、早くまりんに話しておけ、と……そんな話をされていたところで――。
なるほど、と頭の中でキラリと閃光でも煌めいたようだった。
本庄の言わんとしていたことは、これか。本庄はこうなることを危惧していたのか。真木さんはまりんの親友で、俺とも(まりんを通して)交流もあった。そんな真木さんが、いきなり俺と千歳ちゃんが抱き合っている写真なんて見たら、そりゃあ度肝を抜かれるだろう。親友の元幼馴染が、急に見知らぬ人の幼馴染になっていたら驚くよな。困惑するに決まっている。狂犬病による錯乱症状を疑っても仕方ない……のかもしれない。
全ては写真が原因か、と納得しかけた――のだが、
「写真って……?」
怪訝そうに聞き返す真木さんの声がして、「え」と俺は本庄と声を合わせて振り返った。
「写真って、なんのこと?」
「なんのこと、て……見てないの?」と本庄が戸惑いもあらわに訊ねる。「じゃあ、真木さんこそ、『今朝のあれ』ってなんのこと?」
「全部――に決まってるでしょ」真木さんは腕を組み、疑ぐるように目を眇めて答えた。「『千歳ちゃんは、俺の大事な幼馴染だ』云々、全部! なんだったのよ、あの茶番は!? まりん、会長のこと『見たこともない』って言ってた。国矢くんの幼馴染はまりんで……そのまりんが知らない人と国矢くんが幼馴染だ、なんてあり得ないでしょ!」
う……と答えに詰まった。なんという名推理だ。あり得ないよね――と、つい、言ってしまいそうになる。
的を射すぎていて、言い逃れなどできようはずもなく。まさに断崖絶壁に追い詰められた犯人のような心地。ぐっと口を引き結び――もはや、自白するように――黙秘するしかない俺に、真木さんはさらに表情を険しくし、
「『カノジョ』ならまだしも、なんで『幼馴染』!? 意味、分かんねぇよ。どういうつもりなんだよ? ちょうど、廊下、通りがかったときで、全部、聞いちゃって……まりんは――!」
苦しげにそこまで言って、真木さんは急に言葉を切った。後ろめたそうな表情で、逃げるように視線を逸らす。
その瞬間、虫の知らせ、というやつだろうか、ざわっと胸の奥で何かが蠢くような……嫌な胸騒ぎを覚えた。
そういえば――とふいに違和感に気付く。
『まりんがいない』。
真木さんはまりんと同じクラスのはず。昨日、クラス分け表を確認したとき、その名がまりんのクラスにあるのをしっかりと確認済みだ。親友である真木さんが同じクラスに居てくれれば安心だ、とホッとして、粋な計らいをしてくれた天に感謝したものだ。
しかし、まりんの姿がそこにないのだ。
体育は三クラスずつ合同で、うちのクラス(八組)は、六組と七組と一緒。だからこそ、真木さんもジャージ姿で運動場に向かっていたわけで。当然、まりんだってジャージ姿で、ここに――真木さんの隣にいるはずだ。
「まりんはどこだ、真木さん?」
訊ねると、「あ、それは……」と真木さんは苦笑しながら、おずおずと視線をこちらに戻し、
「――なんで、一緒にいないんだ?」
目が合うなり、さあっと真木さんの顔から色味が引いた。怒りも困惑さえも消えたそこには、怯えるような表情がにわかに滲み、
「おい、国矢!」
突然、ぐいっと肩を掴まれた。
「顔、怖いから!」
「顔……?」
え、と振り返ると、本庄が少し緊張したような強張った笑みを浮かべていた。
「真木さん、怖がってるじゃん。落ち着けって。ちょっと着替えが遅れてるだけだろ。ね、真木さん?」
「ああ、まあ……」
視線を泳がせ、そう曖昧に答える真木さんは明らかに不自然で。
じわりと手に汗が滲む。心臓が激しく内側から殴りつけてくるようだった。燃えるような焦燥感と、凍えそうな不安に襲われて……身体が熱いのか寒いのかも分からなくなってくる。まるで、全身があのときに戻ったように……。
――まりんちゃんがまだ学校から帰っていないんですって。あんた、一緒に帰ってきたんじゃないの!?
母の声が脳裏によぎり、ぐっと喉が締め付けられる。
激しく打ち付ける雨の中、ヒューヒューと僅かに聞こえた喘鳴が、まだ鼓膜の奥に残っている感じがして――。
気づけば、「真木さん――」と真木さんに詰め寄り、
「まりんはどこだ!?」
懇願するように、そう訊ねていた。
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