第2話 幼馴染とは②
「ごめんね、おかあさん」とまりんは申し訳なさそうな笑みを浮かべて、おばちゃんを見上げた。「ちょっと、マンションの中、探検してみたくて」
「探検って……何かあったらどうするの? まだ、ご近所さんに知り合いもいないんだから。今日は引っ越しで、体も疲れてるでしょう。ちゃんと休まないと――」
まくし立てるようにそこまで言って、ふいに、まりんのお母さんはちらりと俺を見て、「あら」と不思議そうに目を瞬かせた。
「こんばんは。ご近所の子……かしら?」
「あ、ぼくは――」と思い出したように名乗ろうとした俺の声を、「はくまくんだよ!」とまりんが遮った。
「お隣さんなの!」
弾けんばかりの笑顔でそう言ってすぐ、まりんはハッと思い出したように表情を曇らせた。ちらりと躊躇うように俺を見てから、「あのね、おかあさん……」とおずおずと切り出す。
「今から、はくまくん、公園行くんだって。まりんも……行っていいかな?」
ただ、それだけの問い。ウチなら日常茶飯事というか……もはや、当たり前すぎて、いちいち聞いたら『もういいから、行ってきなさいよ』と親に鬱陶しがられるような――俺にとっては、そんな何気ない問いだった。それなのに、まりんのおばちゃんの表情はがらりと変わり、「公園……って、どこの公園?」と問う声はまるで責めるようなそれになっていた。
「近く……だって」
「近く、てどこ?」
「それは、分からないけど」
「まだ周りがどんな環境かも分からないのよ? 何が発作を起こすか分からないんだから。ちゃんとよく調べてからにしないと」
「うん……でも……」
「でも、じゃないのよ。これから気温も下がるんだから。何かあったら、どうするの? お母さんもお父さんも、まだ片付けがあって一緒に行けないのよ?」
暗雲でも忍び寄ってくるような。徐々に重くなっていく空気に、まだ幼かった俺の肺は今にも押しつぶされそうだった。針のむしろにいるような……という気分を、おそらく、そのとき、初めて俺は経験した。
まりんのおばちゃんはすごく怖いし。正直、逃げ出したいくらいだった。
でも……。
「ちょっとだけ……公園見て、すぐ帰るから……」
しゅんとして俯き、弱々しくおばちゃんにそう懇願するまりんを見ていたら――『じゃあ、お隣さんだね!』って弾けんばかりの笑顔を向けてくれたその子の哀しむ姿に――助けなきゃ、て本能みたいに思ったんだ。
「大丈夫だよ!」と気づけば、おばちゃんにそう力強く言い放っていた。「ぼくがちゃんと一緒に居るから!」
え、とまりんもおばちゃんも、息を合わせたように目を丸くして俺に振り返った。
なんで、『公園に行きたい』と言っただけで、まりんのおばちゃんが血相変えて、まりんを責め立てるように問い質し始めたのか。『ほっさ』という言葉が何を意味するのか。なぜ、まりんが『公園』と聞いて、あんなにもはしゃいで見せたのか。――その全てを、そのときの俺は微塵も分かっていなかった。
ただ……何かしてあげたかった。
「一緒に居るって……ねぇ」とおばちゃんはひどく困ったような表情を浮かべ、「まりんと遊んでくれるのは、嬉しいんだけど……まりんは――まりんの体はね、とても敏感なの。お外にはまりんの身体と合わない悪者さんが、たくさんいてね……そういう悪者さんに会うと、まりんの身体はびっくりして、具合が悪くなっちゃうの。だから……ね」
何やら言葉を濁し、どうしましょう、とでも言いたげに視線を泳がせるまりんのおばちゃん。そのとき、まるで、そのSOSを察知したかのようなタイミングで、おばちゃんの背後でドアが開いた。
「まりんはいたのか?」
開いた扉からひょいっと顔を覗かせてきたのは、当時は三十代前半くらい、さっぱりとした短髪の、人の良さそうな顔立ちをした眼鏡のおじさん――まりんのお父さんだった。
「お父さん!」と、まりんとおばちゃんの声が重なり、我先に、と言わんばかりにおばちゃんが身を翻しておじちゃんに詰め寄った。
「どうかしたのか?」
訝しげにおじちゃんがおばちゃんに訊き、こそこそと二人は玄関前で話し始めた。――といっても、おばちゃんが一方的におじちゃんにヒソヒソ声で捲し立てている感じだったが。
しばらくそうして、やがておばちゃんの声がぴたりと止むと、おじちゃんは「なるほど」と唸るように言って、ため息吐いた。神妙な面持ちで腕組みし、俺に一瞥をくれ、
「いいじゃないか」とおばちゃんにあっさりと言い放った。「さっそく、お友達が誘ってくれたんだ。まりんも行きたがってるんだろ。行かせてやれよ」
「行かせてやれ……て、そんな簡単に言わないでよ。何かあったらどうするの!?」
「まだ、そんなことを言ってるのか? 『空気が綺麗なところなら、まりんも外で遊べるから』ってお前が言うから、こっちに引っ越してきたんだぞ。また、家の中に閉じ込めてたら何も変わらないじゃないか。引っ越した意味が無いだろ。俺はこれから通勤一時間だぞ」
「それでも……都会よりは、少しはマシ、てだけで……」
「そもそも、発作だってずっと出てないじゃないか。お前が気にしすぎてるだけなんだ」
「発作は、薬を飲んでるから安定してるだけよ!」
「薬が効いてる、てことだろ。――なんのための薬だと思ってるんだ」
ぴしゃりと言って、おじちゃんはおばちゃんの返事も待たず、ペタペタとサンダルを鳴らして、こちらに歩み寄ってきた。まりん……ではなく、俺のほうへ。
夫婦喧嘩を見せつけられた直後ということもあって。
「ええと……」俺と目線を合わせるようにしゃがみこみ、おじちゃんは柔らかな笑みを浮かべた。「お名前、聞いてもいいかな?」
「は……はくま……」
「はくまくんか」
いい名前だね、とおじちゃんは頷いて、俺の両肩に手を置いた。
「――まりんのこと、頼んだよ、はくまくん」
え……と目を見開き、息を呑んだ。
脅すようでもなく、かといって、冗談っぽくもなく。軽く言いつつも、眼鏡の奥で俺を見つめる目は真剣で。ぽん、と肩に置かれているだけのはずのその手は、ずしりと重く感じた。
たった一言――。
おじちゃんの、そのたった一言に、身体が痺れて、心が震えた。
たまらなく誇らしくなって、何かが大きく変わっていくような……そんな予感がしたんだ。
一気に目の前がぱあっと明るくなって、急に世界が鮮やかに色づいたように思えた。興奮と不安が混ざり合ったような……得体の知れない高揚感がこみ上げてきて、ぶるっと身震いした。その感覚を、今、振り返るなら……武者震い――というやつだったのかもしれない。
ふいに視線を隣に向ければ、そこにはまりんがいた。
零れ落ちてくる夕陽の中、ふんわりと嬉しそうに微笑むまりん。柔らかな色に包まれた世界で、その姿は幻想的で神々しくも、陽炎のように朧げで儚く見えて……ぐっと胸に迫るものがあった。
例えば――の話だ。
神様というものが存在するとして、人が産まれながらに何か宿命を負っているのだとしたら。
俺の宿命は『彼女の傍に居ること』だろう、と思った。
きっと、生まれる前、まだ魂だけだった俺に神様が直々に『まりんを守れ』とでも張り紙を貼って、地上に送り出したに違いない。
――まりんを頼む、とおじちゃんに言われたとき、俺はそんなことを思ったんだ。
*まりんの体質に関しまして。モデルにしているものはありますが、あくまで架空のものということで進めさせていただきたいと思っています。ご了承くださいませ。
*以下、宣伝です。
本作で、あまりに主人公が報われず(一章半ばくらいでしたでしょうか)、禁断症状のようなものが出まして……もう一つ、作品を書き始めました。
『片想い中の幼馴染が寝てたから、本音を言ったら……寝たふりだった!?』(https://kakuyomu.jp/works/16816452219650512374)
現在、三作品を投稿しており、こちらの更新頻度が落ちております。申し訳ありません……。書く気がなくなったわけではありませんので! お待ちいただいている間、他作品もお読みいただければ、光栄至極です。
いつも、応援、レビュー、本当にありがとうございます! 励みになっております。
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