第26話 幼馴染専用

「す……すみません、会長!」


 ずさっとその場にスライディングする勢いで、俺は土下座していた。


「わあ、生土下座!?」


 驚愕したような、感激したような。会長の悲鳴が降ってきて、


「ど……どうしたの、いきなり!? なんで土下座!?」と、あたふたとするその声がすぐ傍から聞こえた。「おもてをあげよ……て言うんだっけ、こういうとき? えっと……とにかく、起きて!」

「いや……しかし……泣かせるようなことを言ってしまって……申し訳なく……!」

「泣くって……」ハッとしたような間があってから、会長はため息吐いて、「ああ……ごめん。違うの。これ……嬉し泣き」

 

 嬉し泣き……?

 おずおずと顔を上げれば、会長の顔がすぐそこにあった。煌々と輝く陽の光を背にしゃがみこみ、穏やかな眼差しで俺を見下ろすその様は、神々しいほど高貴で。艶やかな長い黒髪も相まって、まるで戦国時代の姫君でも前にしているような気分になった。


「初めて……だったから」まだ涙の残る瞳をキラキラと輝かせながら、会長はふわりと微笑んだ。「厭じゃないか……なんて、気にしてもらったの」


 ありがとう――と会長は掠れた声で言って、細めた目から溢れ落ちた涙を拭った。

 そこに、今まで見てきた会長の姿は――自信に満ち、凛として逞しい会長の姿は無かった。「びっくりしたよね。ごめんね」と頰を染めて恥ずかしそうに笑うその姿は、今にも崩れ落ちてしまいそうな脆さを漂わせ、柔で繊細で、そして……安堵しているように見えた。

 なんとなく……だが。これが、会長の……千早先輩の『素』なのかもしれない、と漠然と思った。


「あ……そうだ」


 ふいに思い出し、俺はブレザーのポケットからハンカチを取り出し、「これ、良かったら」と両手で高々と掲げるようにして献上した。


「ハンカチ? いいの? ありが……」


 申し訳なさそうに苦笑し、そのハンカチに視線を落とすや、会長は「ほわ!?」と甲高い声を上げた。


「な……なに、このハンカチ!? か……かわいい!」


 当然ですとも――と心の中でほくそ笑む。


「日本を代表する世界的デザイナー、コモリミサトデザイン、お肌に優しいオーガニックコットン素材のハンカチです! しっかり、丁寧にアイロンもかけてあります」

「へえ……」感心と驚きの混ざったような声を漏らし、会長はハンカチを手にとって、まじまじと見つめた。「ハクマくん、コモリミサト好きなんだ?」

「あ、いや、俺では無く……」


 言いかけ、口ごもった。

 ずきり、と胸を突き刺すような痛みが走る。


「まりん――幼馴染が好きで……」言いながら、言い知れない気まずさに襲われ、俯いていた。「それは……幼馴染専用のハンカチでして……」

「幼馴染専用……? 幼馴染のために、いつも持ち歩いてる、てこと?」

「昔から、体が弱くて……よく病気とか、怪我が多かったんで……。いつの間にか、幼馴染用にいろいろ持ち歩くようになってて……」

「そうだったんだ」朗らかに微笑む様が目に浮かぶような、そんな柔らかな声色で会長は相槌打って、「じゃあ、クリーニングに出して返すね」

「いや、いいですよ!? クリーニングなんて……」


 ばっと慌てて顔を上げ、気づいたときには――、


「どうせ、もう必要ないんで!」


 そう、はっきりと口に出してしまっていた。

 その瞬間、あ……と俺も会長も言葉を失くして、辺りがしんと静まり返った。

 思わぬ決定打だった。

 自分で発したその言葉が……これまでの誰のどんな言葉よりも、重く胸に響いて、粉々に心を打ち砕いてきた。

 ああ、そっか――と呟く声が空っぽになった胸の中で虚しく響いた。

 もう必要ないんだ。まりんのために俺が持ち歩いていたもの。まりんのために俺が抱えてきたもの。そういうのも、きっとまりんは厭で……俺は嫌われたんだから。 

 諦めたような、自嘲のような。そんな笑みが溢れて、


「もし、良かったら……もらってください」なんて俺は会長に力無く切り出していた。「新品なんで。捨てるのも、もったいないですし……」


 会長は「え」と戸惑うように目を瞬かせ、俺からハンカチへと視線を移した。当然……と言えば、当然なのかもしれないが、「ありがとう!」とすぐに返ってくるわけでもなく。何やら考え込むように神妙な面持ちで黙り込んでから、会長は「じゃあ……」と静かに口を開き、


「もらってもいいかな?」と俺を見つめてきた。「ハクマくんのこと」

「はい、もちろん――って、俺のこと……?」


 ハッとして訊き返すと、会長は胸の前でハンカチをぎゅっと握り締めながら、クスリと悪戯っぽく笑った。


「ハクマくん、私の幼馴染にならない?」

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