一章
第1話 同中の朝
――待って。ハクちゃん、行かないで。
その声が、ずっと鼓膜にこびりついている気がする。それは、舌足らずな感じが残る、頼りない声だった。
ハッと目を覚ませば、ドクンドクンと激しく波打つ鼓動が胸の内から叩きつけてくるようだった。身体の中が焼けるように熱い。ベッドの上で仰向けになっているだけなのに、ぜえぜえ、と呼吸が荒くなって、寝汗というには尋常でない汗がびっしょりと背中を濡らしているのを感じた。
閉めたカーテンの隙間からは朝日が漏れ入り、暗がりにうっすらと光の筋を浮かび上がらせている。まだ、両親は起きてきていないのだろう、物音一つせず、しんと静まり返った部屋の中、ちゅんちゅんと呑気に鳴く鳥の声が聞こえてきていた。
何も変わらない。安穏とした、いつもの朝だ。
それなのに――。
ぐっと拳を握り締めれば、まるで氷のように冷たかったあの肌の感触がそこに残っている気がして。
その瞬間、ぞくりと戦慄のようなものが背筋を駆け抜け、がばっと俺は飛び起きていた。
* * *
「なんでいるの、ハクちゃん!?」
マンションの扉がガチャリと開き、そこから出てきたのは、紺のブレザーに、緑のチェック柄のスカートを着た天使――ならぬ、まりんだった。
燦々と注ぎ込む朝日の中、その姿はキラキラと輝くよう。
直線的な印象のかっちりとした制服を清く正しく着こなすその姿は、品行方正そのもの。しかし、ふわふわと無邪気に揺れるウェーブがかった黒髪と、首元の緑のリボンがそこに愛らしさを添えている。
真面目そうな中にも、遊び心とも言える可憐さが垣間見え、もはや死角なし。まりんが現れただけで、辺りが春の甘い香りに包まれる気がする。
相変わらずだ。相変わらずのまりんがそこにいる。
「よかった」と噛みしめるように呟き、じーんと熱くなる目頭を押さえた。「元気そうで……」
「どういう感想!?」
呆れ返ったまりんの声がマンションの外廊下に響き渡った。
「いったい、いつからここで待ってたの!?」
「ほんの二十分程度だ。全然、待ってないから気にするな」
「ものすごく待ってるよ!」
もお、と頰を膨らませ、まりんは腰に手を当てがった。
「高校は一緒に行かない、てちゃんと言ったでしょ!?」
「いや、しかしだな……今日から電車通学なんだぞ。朝の混み合う電車にまりんを一人で乗せるわけにはいかない。何があるか分からないだろ」
「大丈夫だよ」
さらりと髪をなびかせ、俺の前で身を翻して外廊下を歩き出すまりん。そのあとを「待て、まりん!」と慌てて追う俺にまりんは顔だけ振り返ると、ビシッと指差してきて、
「着いてきちゃダメなんだよ。もう幼馴染じゃないんだから! ただの同中はお家から一緒に登校したりしないの!」
「そ……そんな……」
まさか……一緒に登校もできないなんて。『ただの同中』はそんなにも遠い存在なのか。
中学の卒業式の日、まりんから『幼馴染失格』宣言をされ、その帰りもバラバラに帰ることになった。写真一枚、一緒に撮ることも叶わず……まりんの親もうちの親も困惑の徹底ぶり。春休みの二週間も、どんなに連絡をしようとそっけない返事しかなく、三時のおやつにまりんの大好物のチョコチップメロンパンを持参して家に行っても、『ただの同中はチョコチップメロンパンを持ってきたりしないんだよ!』と叱られて家に上げてもくれなかった。
それでも、心のどこかで希望を捨てきれていなかった。
まりんを失うことになるなんて……そんなこと信じたくもなかった。
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