泡沫の君へ
響華
泡沫の君へ
まぶたを開くと、君がいた。
「……えっと……おはよう?」
その声を、よく知っている。
僕はまだ、自宅のベッドの上にいた。夢だろうか、悪趣味な夢だ。どうせ夢なら遊園地にでも行かせて欲しかった、海でもいい、こんな日常の続きじゃなければ、なんでも。
「……大丈夫? 生きてる? ……って、私が言うのは皮肉っぽいかな」
よく聞いた声、よく見た目の色、よく嗅いだシャンプーの匂い。おもむろに、彼女へと手を伸ばす。もう二度と触れられないと思っていた、死んだはずの彼女の頬へ。
柔らかかった、そして温かい。温もりが、そこにあった。
「ん……や、くすぐったいなぁ……」
彼女は少し目を細めながら、可笑しそうな表情を僕へ向ける。
やめて欲しかった、そんな顔を僕に向けないで欲しかった。だって僕は、きみのいなくなった世界を、灰色の世界を生きようとしていたのだから。
「……ねぇ」
思ってたよりずっと静かで、掠れた声が口から漏れた。
「恨んでないの?」
恨んでないって言うだろう、知ってる。
彼女は少し驚いたような表情を浮かべて、
「恨んでないよ」
思った通り、そういった。
「怒ってもない」
そして、手を僕の頭に乗っけた。
「でも、心配だったから」
来ちゃった。
そんなふうに言って笑うから、僕も釣られて頬を緩ませた。しばらく、そんなふうに頭を撫でられながら……やがて、僕はそろそろ布団から出ようか、なんて言ってみる。
どこか出かけるの? と、布団から出ながら彼女が聞くから、僕は静かに首を振った。
心配だったから、だけで帰ってきた存在が、僕にしか見えないとは限らないし。これからやることを邪魔されたら、もう二度とできない気がした。
「……棚の上、置いてあるから」
彼女に言葉を伝えながら、僕はゆっくりと服を着替える。あの日、彼女が交通事故にあったあの日、自分が着ていた服に。
そして、着替えを終えたあと。優しくて温かい感覚に体が包まれた。後ろから抱きしめられているんだとわかる、少し恥ずかしくなるような状況の中で、
「……ごめんね」
彼女のそんな声が聞こえた。
「謝るのは、僕の方だよ」
見ないまま、僕は言葉を返す。
「……僕は、臆病で……どうしようもないから。行き場の無くなった愛だけじゃ動けなくなって」
君が僕に生きてと望んでしまったんじゃないか、なんて考えてしまった。
零すように、告げる。見えなくてもわかるくらい、彼女は泣きそうな声で言う。
「……普通だったら、私はそう望むべきだったんだよ。愛してる相手なんだから、生きてって」
涙を零してることに気がついて、僕は少しだけ顔を向けながら頬の涙を拭ってあげる。普通の皮膚とは違う感触――幽霊になっても、火傷のあとは消えないらしい。残酷なのは世界か、それとも僕の頭の方か。
「いいんだよ」
彼女の持ってきたものを掴む、両手でしっかり持って、自分の体に向ける。
「僕が選びたかったのは、こっちなんだから」
ごめんね、という声と共に、僕の手に彼女の手が重なる。
「ありがとう」
最後にそういったのはどっちだったか。
手を、押し込んだ。彼女の心臓にも、ちゃんと届いてくれればいいな、なんて。薄れゆく視界の中で、重なる彼女の手を見ながら、僕は静かに思っていた。
泡沫の君へ 響華 @kyoka_norun
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