第43話 犬神
「あん?」
鳴宮のマンションの前に真っ黒に汚れた犬が一匹うずくまっていた。
「でけえな」
鳴宮はゴミ袋をゴミ捨て場に放り込んでから、犬の側を通り過ぎようとした。
(グルルルル)
と犬が唸ったが、痩せてあばら骨が見えているので迫力もない。
行き過ぎようとする鳴宮を追って立ち上がろうとするが、やせ細った足がもつれてうまく身体を起こすこともできない。
おまけに喧嘩にでも負けたのか片眼に傷がついて潰れている。
「食いもんなんて持ってねえよ」
と鳴宮が言ったが、犬はやはり唸っている。
「汚ねえ犬だな。お前、こんな人通りの多い場所にいたらすぐに保健所が来るぞ」
痩せてぼろぼろだが優に大型犬の大きさで、鳴宮でも背中に乗れそうな程だった。
無視して行き過ぎようとした鳴宮に犬は牙を剝いて飛びかかるような動作をした。
「うわ!!」
と鳴宮が叫んだ瞬間、(待てや!)としわがれた声がした。
「おぬし……もしや犬神か?」
と鳴宮の背中からふわっと現れた青女房が言った。
(やはり、青女房か……よかった)
と犬神が言った。
「え、もしかしてこの犬も妖ってやつか?」
「そうや……でもこいつは裏切り者じゃからなぁ。わしらとはもう関係ない」
青女房は素っ気なくそう言ってから、鳴宮の背中に引っ込んだ。
(待て、待ってくれ! 青女房! 俺の話を聞いてくれ! 頼む!)
よぼよぼの真っ黒に汚れた巨大な犬が鳴宮の前にぺたんと座って頭を垂れた。
「え、ちょっと、話を聞いてくれって言ってるけど?」
「知らん! 犬神はあにさんを裏切ったやつや。そんな奴の話なんか聞きとうないし、わしがあにさんに顔向けが出来ん!」
「そ、そうなのか?」
鳴宮は痩せこけた犬を見下ろした。
(すまん、それについては言い訳のしようもない……あにさんの元を離れて十年、俺の身体ももう駄目だ。でもどうしても最後にやらねばならない事があって恥を忍んで戻ってきた。あにさんの所へ行きたいがどうしても見つけられず、仲間の妖気も追えないくらいに俺は使い物にならない身体だ。ようやく青女房を見つけたんだ、頼む、どうかあにさんの所へ連れて行ってもらえないか)
「お前の都合なんぞ知るか! 鳴宮、行くで!」
促されて鳴宮は歩き出した。振り返ると同じ位置で犬神はうなだれている。
「今日はあにさんの所へ行ったらあかんで。跡をつけてこられるかもしれんしな」
と青女房は手厳しい。
鳴宮はそのまま歩き続けてから一軒の喫茶店に入った。
これはいつもの行動だ。遅い昼飯を食べてから、闇屋の所へ顔を出す。
「その犬神が裏切ったっていうのはどういう理由でだよ」
隅の方の席に座り、携帯電話を耳に当ててから鳴宮が言った。
青女房の声は鳴宮以外には聞こえないので、電話で話をしているようなふりをしてないとただの独り言が長い変な男に思われるからだ。
「……もう十年になる。犬神が異国に渡ってからなぁ」
「異国?」
「そうや……犬神はあにさんを裏切って依頼人を殺したんや」
「あー、それは確かに駄目だな。それは兄さんも許さないだろうな」
鳴宮は心の中でセーフと思った。
ちょっと犬神に同情して、闇屋の所へ連れて行くくらいいいじゃん、と思っていたからだ。
実は犬好きな鳴宮だった。
しかし闇屋の眷属でありながら、依頼人を殺すとなどは許されない事だ。
「元々のターゲットになるはずだったおなごに惚れたかどうかは分からんけど、可哀想に思ってしもうたんやろ」
「ターゲットが?」
「そうや、依頼人は金持ちの資産家の娘やった。老いぼれた資産家の介護に安い金で雇った異国の若い娘がおったんやけどな、資産家がその娘と結婚する言い出してな」
「なるほど、金にがめつい身内よりも心込めて介護してくれた優しい娘か」
「そうやろうな。しかしな、結婚なんかされたら財産が半分その娘に行くらしいな。その娘を殺すようにって資産家の娘はあにさんの所へ来た」
「へえ」
「鳴宮、お前、代彫りって知ってるか?」
「代彫り?」
「そうや、普通は依頼人の肌に兄さんは刺青を刺す。でもな、代彫り人を用意出来るなら代彫り人の背中に刺青を施すという手もあるんや」
「え、でも復讐は依頼人の憎いっていう思いが届いた時に成功するんだろ。そんな人頼みでうまくいくわけ?」
「そりゃ、どっちも必死や。依頼人は成功してもらわんと困るから、どんな卑怯な手を使っても代彫り人を用意する。そんなんするのはたいていが大金持ちで金なんか売るほどあるって奴らや。金に物を言わせて代彫り人にしたい奴を追い詰める。代彫り人は決死の覚悟で背中に刺青を背負うってわけや」
「ふーん」
「資産家の娘は代彫り人を連れて来た。よりによってそのターゲットの異国の娘本人をな」
「え! 本人?」
「そうや。これが上手くいったら結婚には賛成してやるし、故郷で貧乏してる家族も日本へ呼んで一緒に暮らす事も出来る、と吹き込んだ。異国の娘に嫌だと言えるわけもない。連れてきた娘はほんまに若くて、子供みたいやった。言葉もカタコトでこちらの言う半分も分からんかったんやないか」
「それで?」
「もちろん失敗や。その娘の背中に入った犬神がえろう同情してしもうてな。どうしてもその娘を殺せんかった。犬神は元々ほんまに犬やったからなぁ。人間が好きなんや。そやからなあ。娘に非のある依頼ならまた別やった。娘には何の問題もなかった。老人の世話も嫌がらず、故郷にいる家族に仕送りするために必死で頑張ってた。人間好きの犬神には例えあにさんの命でもその娘は殺せんかったんや」
「そうか……可哀想に」
「誰がや?」
「え?」
「誰が可哀想なんや?」
「んー。犬神かな。兄さんに選ばれなかったらよかった話だろ? 青女房か鬼子母神の姐さんがさくっとやってやったらよかったのにな」
「まあな……なんやわしや鬼子母神には何の情もないように言うやないか」
「でも兄さんの命令ならやれるだろ?」
「ああ、絶対殺す。わしらはあにさんに追放されたら即消滅やからな。犬神は元々が強いし力がある妖やから十年はもったみたいやけどな。でももう限界やろう。ぼろぼろになって崩れていくだけや」
「消滅か……何だかやり残した事があるって言ってたぜ?」
「知らん! 知らん! わしには関係ない! あにさんを怒らせる事だけは出来ん!」
「そっか。じゃ、しょうがないな。あのまま俺のマンションの前で死ぬんだろうか? いや、あんな大きくて汚い犬、もう保健所が捕まえに来てるかもな」
と鳴宮は言ったが、青女房はそれに対して返事はしなかった。
鳴宮は携帯電話をテーブルの上に置いて、運ばれてきたランチセットを食べ始めた。
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