第41話 覚(サトリ)10
裕子は涙が出てきて、すぐには動けなかったし、何も言えなかった。
(ほら、本命が来たよ)
「え……」
裕子の顔が勝手に動く。誰かに身体が支配されているように、視線が勝手に動く。
裕子の目は青島を見た。もう一度、立ちくらみがして、空間が揺れた。
「(違うんです、課長、これは何かの間違いで誤解なんです)遊びだよ、遊び、別に沙也佳さんを好きってわけでもないんだ。むしろ簡単に股を開く女だなって思ってるよ。そりゃ裕子を抱く方が気持ちいいに決まってるさ。裕子は肌も綺麗だしさ、ぴちぴちだもんな。でも裕子にばらすって言うから仕方なくさ。もう三十五だぜ、沙也佳さん。頑張ってても痛いよなー。まあ裕子と違っていろいろ男を楽しませてくれる技はすげえんだけどさ。下品なんだぜ沙也佳さんって。あっはっはは。まあでも、裕子の事も何か親が気に入ってるから結婚決めたけど、本当は結婚なんかしたくねえよ。面倒くさいしさー。子供も嫌いだしさー。どうして俺が働いた金で嫁と子供を養わなくちゃいけないわけ? 俺が稼いだ金は俺だけのもんじゃね? 結婚とかマジうざい。死ねばいいのに。本当に嫌。適当に女の子と遊ぶんで充分楽しいのになー。裕子の事もさー嫌いってんじゃないけど、別に好きでもない。ぶっちゃけどうでもいい。結婚結婚って必死なとこも引くよなー。本当は俺、猫だって嫌いなんだよなー。だから蹴り飛ばして腹を踏んでやった。柔らかくていい感触だったな。猫の腹を踏みつぶすのってさ。死んだんじゃないか? はっはっは」
言ってしまってから、青島も真っ青になった。
それでもまだ必死で言い訳をしようとする。
「(いや、その、違うんです)ホントマジで何もかも面倒くさい。会社も仕事も。上司も同僚も馬鹿ばっかでさー」
「上司とも同僚とも上手くやっていけず、仕事がつらいなら退職すると言う手もあるんだがね」
と課長に言われて、
「(そんなつもりはありません!)上等だよ! 辞めてやるよ! こんな会社!」
と青島の口がそう叫んだ。
泣いて固まっている裕子は皆の同情を一身に浴び、
「今日の所は帰って落ち着きなさい」
と言う課長の言葉にただ肯いて帰宅した。
帰宅してベッドに崩れ落ちた裕子は静かに泣き出した。
レオがにゃーんと言って、彼女を慰めるように寄り添った。
仕事を終えた覚は今はもう裕子の背中から離れている。
後は静かに姿を消せばいいだけだ。
それでも覚は裕子の側で黙って座っていた。
何時間かそうしているうちに裕子は泣き疲れて眠ってしまった。
裕子が起き出して、覚を責める言葉を叫ぶ前に覚は姿を消す事も可能だった。
今までそういう事は何度も経験してきた。
人間は覚のような不思議な力をありがたがり、そして恐れる。
用が済んだら消えろと、塩や水をかけられた事も何度もある。
傷ついた故に覚を責めなければどうしようもない気持ちがあるのだろう。
闇屋の所へ戻ればいいのだ、そうすれば覚を責める裕子を見なくてすむ。
犬だろうが猫だろうが妖だろうが責められれば傷つく。
分かってないのは人間だけだ。
傲慢で横柄な人間だけだ。
猫のレオでさえ傷ついた主人に寄り添う気持ちがあるのに。
そう思いながらも覚はなかなかその場から消えなかった。
今度こそ、この人だけは、という人間に期待してしまう自分がいた。
「あ、え、眠っちゃった……ごめんね、覚君」
レオがにゃーんと裕子の腕に頭をこすりつけた。
「レオもお腹すいたわよね? ごめんね」
裕子はベッドから降りて大きく伸びをした。
「あーあ、覚君もお腹すいたよね? 何食べたい?!」
「あ、でも、もう帰らないと……」
「え? 帰るの? そんなぁ、こんな日に失恋した女子をひとりぼっちにするぅ? ピザでも取ろうか! 今日はいっぱい食べようよ! あとさー、ケーキとか買いに行かない?いっぱい甘い物食べたい気分!!」
「裕子さん……」
裕子はぺたんと床に座って、
「ね、お願い、今日だけでもつきあってよ」
と言った。
「怒ってないの……僕の事……やっぱり知りたくなかったよね?」
人間に近い感情を持つ覚はさみしそうに言って俯いた。。
だが裕子は首を振った。
「ううん。感謝してる。本当にありがとう」
「え?」
覚が顔を上げると裕子は笑っていた。
「だって、考えてもみてよ。あんな、あんな男と結婚なんかしたら、私の人生何なのって感じじゃない?」
少し自虐的に言う裕子に覚は困ったような顔をした。
「あれだけがあの男の本音じゃ……」
と言いかける覚を遮って、
「分かってるよ。良いところもあるの知ってる。二年つきあったもん。楽しい思い出もいっぱいあるよ。でも、でもね。きっとこうなる運命だったんだよ。覚くんと出会えたのも全部。きっとレオがうちに来てくれた時にそういう運命が決まったんだよ。だから、それでいい。今日やけ食いにつきあってくれたら、明日から元気になるから!」
泣き笑いの表情で、それでも晴れ晴れとした顔で裕子はそう言った。
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