第40話 覚(サトリ)9

「おはようございます」

 二日後、仕事に出ようとマンションを出ると掃き掃除をしている管理人に会った。

「おはよう、良い天気だねぇ(いつも挨拶して可愛らしいな、佐々木さんは。それに比べて……)」

 裕子は会釈をして足早にその場を去った。

「何だったのかしら?」

(思ってる事が知りたいんだろう?)

 と囁く様な声がする。

「え、今の。管理人さんの心の声なの?」

(そうだよ。目が合えば気持ちが伝わってくる)

「目が合った人だけ?」

(そう、知りたくない相手は無視すればいい)

「分かったわ。頑張る。あ、覚君、朝ご飯食べずに来ちゃったけど、大丈夫? お腹すかない? 私、今日食欲が無くて……」

 と言う裕子に覚は背中で首をかしげた。

(大丈夫)

「お昼には何が食べたい?」

(そんなのんきな事言ってていいの?)

「うん……」

 駅に着き電車に乗り込み。なるべく人の目は見ないようにしてみたが、それでも幾人かの人間の目線が視界に入る。

{あー、マジ死にたい}

{支払いが……}

{どうして私が怒られなきゃなんないの? みんな死ねばいいのに} 

{今日はどうやっていじめてやろっかな}

{仕事行きたくねえな}


 そんな負の感情が流れ込んでくる。

「これ、ここにいる人の本心って事?」

(そうだよ。通りすがりの人間でさえ悪意しか聞こえないだろ? どんなにいい人間でも悪意は持ってる。本心だけで人間の善悪を図るのはどうかと思うよ)

「覚君、ずいぶんと大人っぽい事を言うのね?」

(クスクスクス)

 と覚は笑った。

(僕、もう三百年は生きてるけど? まあ一族の中じゃ子供だけど)



 裕子は決意を持って会社のビルに入って行った。

 制服に着替え、自分の部署へと入っていく。

「おはようございます」

 と挨拶をして自分の机に荷物を置く。

 ぽんっと背中を叩かれて、裕子は振り返った。 

 誰も彼もの気持ちが知りたいわけではない。

「どうしたの? 裕子ちゃん」

 わざと目を覗きこんでくる視線がある。

「あ、ちょっと」

 と裕子は下を向いた。知りたいのは青島の心だけだったからだ。

 だが、

「何よ、その態度ぉ。感じ悪ー」

 と言われて、つい顔を上げてしまった。

 当然、流れ込んでくる、相手、沙也佳の心。

「どうかしたの?(何、この子朝から暗い、有給とって二日も休んでたくせに。まあ、そのおかげで青島君とゆっくり遊べたけどね)」

「沙也佳……先輩」

「ん? 何よ。青島君と何かあったの? お昼、相談に乗ろっか?(マジで鈍すぎでしょ、この子。ほんっと頭緩い)」

「本当に……」

「どうしたっての? 顔色悪いよ? (ホント面白い、この子いじめるのって)」

 呆然としている裕子へ覚が、

(ここからが本番だよ。この女に自分の事を嫌いか聞いてみれば?)

 と囁いた。

「沙也佳先輩、私の事、嫌いなんですか?」

 ぶわっっと目の前が歪んで一瞬、立ちくらみがした。

 沙也佳は驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。

「(嫌いなわけないでしょう? あんたはあたしの大事な後輩だもん!)当たり前じゃん! あたし、あんたの事嫌い。良い子ちゃんだし、何かいつも健気ぶってて嫌い。必死で我慢して涙ためてる感じがするからウザーイ。だからさー、あんたと青島君がつきあいだしたって聞いてさ、邪魔してやろうと思って青島君にちょっかいかけたの。青島君だって、すぐ乗ってくる軽い男だし。でも、青島君、セックスも下手くそだし、貧乏だし。くちゃくちゃ音を立てて食べるし。最低限のしつけもされてなさそうだし。あんなのとよく結婚する気になったわね。あんた。あとさー、あんたをいじめてたのもあたし。女子の間で噂流したり、書類隠したり、伝言も途中で止めたり、課長にあんたが使えないってちくったのはあたしでーす。あー面白かったぁ」

 沙也佳は大きな声で一気にしゃべってから、あっと言う顔になった。

 フロア中の社員が沙也佳を見ている。

「(え、何で? 今のは……)裕子は表面上はお嬢さんぶってて大人しいから。まあ、あたしのストレス解消にはもってこいな人?」

「酷い……何アレ?」

 と声がして、沙也佳は振り返った。

「(ち、違う)だって、あたし、この子嫌いなんだもん。だから彼氏も寝取ってやったんだぁ!」

 言いたい言葉が出てこなくなり、沙也佳は慌てた。しゃべればしゃべるほど、酷い言葉が出てくる。だがそれは沙也佳の本心だった。 


 涙目の裕子は立ち竦んでいて、沙也佳は赤くなったり青くなったりしている。

「西山さん、佐々木さん、何か問題がありそうだね?」 

 課長が厳しい声で二人に声をかけた。

「(ち、違うんです、課長!)うるせえハゲ!」

 課長の顔はみるみる真っ赤になり、沙也佳は「いやああ」と叫んだ。


 そこへ青島が慌てたふうに走り込んできた。

「あの、何か?」

「何かじゃないよ、青島君。どうなってるんだ? 君は佐々木君と婚約したとか言ってなかったか? 西山君とも関係があるのかね?」

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