第21話 桂男
「きゃー」
と目の前の女が急に大きな声で叫んだので、佐伯敏夫は驚いてその女のほうをまじまじと見た。
他の乗客も皆が一斉に見た。
女は派手な身なりをしていた。
茶髪を豪華に盛り上げて、胸元の空いた薄い生地のワンピースを着ている。
女はすぐに佐伯の方を指さして、
「痴漢よ!」
と叫んだ。
「ええ?」
と言う声とあとはざわめきが周囲に広がって、佐伯の周囲が少し空いた。
満員電車の中、時間的にぎゅうぎゅう詰めというほどでもないがそれでも隙間はほぼない。隣人とは肩が触れあうほどの状態ではあった。
「ち、違う!」
と佐伯は叫んだが、女は佐伯を指さしてずっと痴漢よ、痴漢!と叫び続けた。
「違う! 痴漢なんかしていない!!」
と佐伯はかすれた声で言い続けた。
「あたしのお尻をなで回したじゃん!! この痴漢野郎!」
と女は佐伯に指を突きつけて言い、そしてその近くの乗客から肩を掴まれた。
「違う、違う。私は痴漢なんかやってない! 誤解だ! 信じてくれ! 違うんだ! 何かの間違いだ!」
電車がホームに止まった瞬間に数人の手によって引きずり下ろされた。
「違う……私はやっていない!」
そう言い続けるが誰も耳をかしてくれず、やがて駅員が走って来た。
「ここじゃ何だから、ね? ちょっと向こうで話を聞きますから」
と駅員が佐伯の腕を掴んだ。
「違うんです! 私はやってない!」
そう言うのが精一杯だった。
しかし駅員二人に両側から挟まれて佐伯は強制的に歩き出した。
自分を見つめる無数の目が怖かった。
中にはにやにやしている者もいる。
だが疑いは晴れると信じていた。
自分はやってないのだから。
説明すれば分かってもらえると思っていた。
だがこれで佐伯の人生は終わったも同然だった。
一般人が痴漢容疑者などを逮捕する事を私人逮捕という。この時点で私人逮捕に気づかず、事務所などへ連行されてしまうと現行犯逮捕に同意したと見なされるからだ。
その後はもちろん何日も拘留され、家族、知人、会社へも話が届いてしまう。
無罪を勝ち取る為の裁判は貯金を食いつぶしながら何年も続くだろうし、会社も解雇される。
それでも家族が無罪を信じててくれればなんとかやり直しも出来るかもしれない。
妻は佐伯の無罪を信じたような事を言ったが娘が結婚を控えていた。
やがて妻と娘は家を出て、離婚届けが送られてきた。
一度広がった噂はそう簡単には消え去らない。
全てを失った佐伯は生きる希望を無くした。
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