第13話 目々連 3
「ふざけんな!」
どかっという音とともに蹴り倒された吉田みやこは泣き顔で、
「ご、ごめんね、ごめんね。丈二くん」
と言った。
「うるせえよ!」
謝る事すら許さずに斉藤丈二は倒れたみやこをさらに蹴った。
下品で知性のかけらも持ち合わせていないような斉藤は、高校を三日で中退した後、ヤクザ者の使いっ走りをして生計を立てているような男だった。十年もそんな生活をしていてもヤクザの杯も貰えてはいない。自分では夜の街ではちょっとした顔だと思い込んでいたが誰もが内心ではバカにしていた。
いつも道ばたできゃんきゃんと吠えているだけの男だった。
「俺の言うことがきけねえのなら、いつでも出てってかまわないんだぜ! おら、今すぐ出て行け!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
みやこは床の上で小さく縮こまり、涙をぽろぽろ流しながらただ斉藤に許しを請うだけだった。そんなみやこの姿に満足したのか、それとも酔いが回って殴る蹴るの動作も疲れしまったのか、斉藤はぺっと唾を吐きかけてから部屋を出て行った。
ひっくり返されたローテーブルと散乱した卵焼きと魚肉ソーセージの残骸をみやこは泣きながら拾い上げた。
斉藤の暴力はいつもの事だった。
機嫌が悪ければみやこを殴り、機嫌が悪くなくてもみやこを蹴る。
言葉通りに気に入らなければ出て行けば良いだけの話だが、みやこには行く場所がなかった。中学を卒業してから家出を繰り返し、誰か頼れる人がいればいつまでもそこにいて、都合が悪くなればまだ次の宿主を探す。
そんな生活をして四年、みやこは十九才だった。
斉藤が好きだというわけでもなく、ただ、誰かの側にいたいというだけの話だ。
家には帰れない。親は母親だけで今時の毒親という奴だった。
むしろ斉藤よりも質が悪い。みやこが小学生の時から不特定多数の相手を連れ込み、なかにはみやこを目当てに来ていた男もいる。
母親はみやこの食事も身の回りの世話も気が向いた時にしかしなかった。
お風呂もたまにしか入れず、朝起きた服で学校へ行き帰ってそのまま丸くなって眠る。
給食をガツガツと必死で食べる姿にクラスメートは引き、いじめが始まる。
容姿はよく発育もいいので、中学生になると男子にからかわれるのが死ぬほどつらかった。女の先生も頼りにはならずむしろ厳しくされ、汚い物でも見るような目で見られた。
それはいつでも酔っ払って誰に対しても口汚くしゃべる母親のせいだった。
母親のせいでみやこは誰からも嫌われていた。みやこ自身もうまくそれを回避できるような社交性も話術も持っていなかった。
ようやく中学を出ると逃げるように家を出た。
家で母親に叩かれるか愚痴を聞くかよりは繁華街の隅っこで座っているほうがましだったからだ。声をかけてきて泊めてくれるような仲間も出来て、それはうさんくさい人種だったがそれでもみやこには家にいるよりはずいぶんとましだったのだ。
みやこにとってはこの世の中はどこへ行ってもつらい事しかなかった。
そうやって知り合った斉藤はろくでもない男だが寝床を提供してくれた。
働いた金はほとんど搾取されているしちょっとした事ですぐに怒鳴るが、それでも母親よりはましだと思っていた、
着の身着のままでみやこは部屋のすみに寝転がった。
明日はバイトの早番で、早く行かなければならない。
顔を殴られないだけ今日はましだった。顔が腫れているとバイトにも差し障る。
一緒に暮らしているとは言っても、生活費をもらえるわけでもなく、用事だけ言いつけられだけだ。
風呂もトイレもない。弁当のカスや空き瓶でいっぱいの部屋はハエが飛び、ネズミやゴキブリの巣窟になっている。
ただ屋根の下で眠れるというだけの部屋でみやこは斉藤と一緒に暮らしていた。
「あれついてきちゃったのー?」
笛を持った小鬼が目々連の末っ子に気がついた。
末っ子目玉はもじもじと柱の陰に隠れながらも小鬼達を見ている。
「え、だれ?」
「知らない」
「銀鬼様が連れてきた子じゃない?」
「そうなの?」
小鬼達は顔を見合わせた。
みやこの悲しみに惹かれてやってきたが、濃い悲しみは食料にはなっても格別ごちそうというほどのものでもない。
これくらいの悲しい情念はどこにでも溢れているからだ。
小鬼達はここでいったん食事しようか、それとももう少し探そうかと屋根裏で相談しているところだった。
「ついてきちゃ駄目だよー」
とバチを背負った小鬼が末っ子目玉に言った。
「帰りなよー」
「あにさんに怒られるよー」
「どうする? もう少し美味しい物を探しに行こうかー」
「そうだねー」
今日はいつもよりも出が遅かったので、小鬼達も焦っていた、
明け方までには帰らなければならないのに、まだ、さほどごちそうにありついていない。
焦った気持ちと空腹で小鬼達の頭から末っ子目玉の事はすぐに消し飛んだ。
元々、そうそう知能が高いほうでなく、自分の欲望にしか興味が無い。
「じゃあ、行こうか-」
みやこの悲しみにはそれほど食指が動かず、小鬼達はアパートの屋根裏を出発した。
初めて人間界に来た目々連の末っ子目玉は小鬼達の素早い動きについて行けず、屋根裏に取り残されてしまった。
「ピュー、ピュー」
と叫んで飛び跳ねてみても、どこからも助けの手は来ない。
心細さと怖さで目玉から涙がぽろぽろと流れ出た。
目々連の実体は大小多数の目玉であるが、それはどこかに貼り付く事で生命を維持する。
壁でも天井でも、人間の肌や犬や猫の身体でも。
地上何千メートル上空を飛ぶ飛行機の機体でも。
だがそれは目々連という一グループで初めて可能だ。
はぐれてしまった末っ子目玉には何かへ貼り付くという能力がまだ低かった。
いつもは一族の目玉に庇護されて生気を保っているのだ。
このまま何にも貼り付けず、時を過ごしたら目玉が崩れて溶けてしまうのは明白だった。
末っ子目玉も大人目玉から厳しく言いつけられているので、自分の運命は分かっている。
はぐれた場合の対処法は決して気づかれないように人間に貼り付くこと。
犬や猫は妖の気配に敏感なのですぐばれる。
一部例外もいるが、人間は妖が見えないし、気配も察知出来ない。
それでもなるべく人間が自分でも注意を払わない身体の箇所に貼り付くこと。
気配はめいっぱい隠して、助けが来るまでじっと待つこと。
落ち着きを取り戻した末っ子目玉は天井裏から下を覗いた。
薄暗い部屋でみやこが眠っている。
身体をぎゅっと丸めて、悲しそうな寝顔だった。
末っ子目玉はするりするりと、天井の隙間からゆっくりと部屋の中に入って行った。
部屋の中に犬や猫がいたならば即座に撤退だ。
様子を見ながら末っ子目玉はぽとんとみやこの布団の上に落ちた。
ぐるりとみやこの周囲を回ってから、眠っているみやこに近づく。
末っ子目玉はみやこの髪の毛の中に潜り込んだ。
頭のてっぺん辺りからおでこの上の方くらいに身体を伸ばして、頑張って貼り付く。
気づかれずに貼り付く事が出来て少し安心した。
人間の髪の毛の中は暖かくて、居心地がよかった。
そして疲れ果てた末っ子目玉はそのまま眠り込んでしまった。
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