第10話 小袖の手 9
翌々日、巧が出張に出かけて不在の夜、好子は一人でテーブルに向かってぼんやりとしていた。父親が死んで以来、何にも力がはいらない好子だった。
家事をし、仕事に行き、弟の世話をして、それだけでも忙しいのだが、以前よりは活力が沸かない。
父親の死が好子に覆い被さっていた。行方不明ならば一生そうあってほしかった。目の前に立って頼ってこられれば追い返したところできっと後悔するのは分かっていた。
だがまだ弟がいる。巧の結婚までは気が抜けない。お金も貯めなければならないし、両親がそろっていない事で不利になるような事はさせたくない。自分はもう結婚など縁がないだろうが、巧にはよい結婚をして欲しい。もう好子には巧しかいないのだから。
「がんばらなくっちゃね、さて、もう寝ようか。明日は巧が帰ってくるから、久しぶりに何か手の込んだお料理でもしようかな。え?」
音もなく絨毯の上を歩くような手が好子の目に入った。
人差し指と中指と薬指で素早く目の前に走り出てきたのは着物をまとった手だった。
「え……何? いや!」
好子は手元のクッションを防御のように前にして部屋の隅に身を寄せた。
小袖の両手はテーブルの上にぴょんと飛び乗る。
(おまえを殺す……覚悟なされ)
と小袖の両手から声が響いた。
「わ、私を殺す?」
(そう……おまえを殺す)
「何故? 何故殺されなければならないの?!」
クッションをぎゅっと抱きしめて好子は手に問いかけた。
「わ、私、何も悪い事なんか……お金? お金がほしいの?」
(おまえは間違った……親とも弟とも……)
「お父さんと巧?」
小袖の両手はすこしづつ好子ににじり寄っていく。
狭い部屋の中で身動きもとれない好子はじりじりと後退していくだけだ。
外に飛び出して助けを求めるという手段も思い浮かばないようだ。
小袖の両手が好子の膝に這い上がり、腹、胸、そして首まで上ってきた。
好子は恐ろしさのあまり固まったままで身動きも出来ない。
好子の首に小袖の両手が触れた時、ヒヤリとしたので好子は首をすくめた。
(おまえの父親はまだ生と死を彷徨っている……ずっと、未来永劫にな……じゃが、おまえはすぐに死なせてあげよう……あまりに哀れな……)
「どうして、どうして?」
と切れ切れのか細い声で好子が言い、それはすぐに泣き声に変わっていった。
小袖の両手が好子の首にかかり、細い好子の首を絞めた。
細い白い小袖の両手はみかけよりもずっと強力で、好子がぐえええという苦しげな声をだした。だがそれもすぐに途絶えた。小袖の両手が好子の身体から離れると、べろんとまっかな舌を出したまま白目をむいた好子がごろんと床に倒れた。
「小袖の手、戻ったか」
と闇屋が顔を上げて言い、その部屋にいた者達もそれぞれに、
(おかえりやで)
(ごくろうはんやな)
と労いの言葉をかけた。
小袖の手は挨拶するようにひらひらと手を振ってから、黙って闇屋の背中に戻って行った。
「ずいぶんと疲れた様子ですね」
横のソファで午後のお茶タイムをしていた鳴宮が首をかしげながら言った。
その足下には小鬼達がきゃっきゃと遊んでいる。
たまに投げてくれるクッキーなどに群がって奪い合っている、
「二人やからな、女の細腕ではちときつかったか」
と闇屋も言って笑った。
青女房が鳴宮から離れ、闇屋の背中に回って何やら声がけをしている。
「実の親……あの父親はともかく、育ててくれた姉まで手にかけてしまうなんてねぇ」
と鳴宮が呟いた。
「二人でかばい合って生きてきたんや、あっさり父親を許した姉に対して裏切られたっちゅう気が起きてもしょうがないやろ」
と闇屋が言った。
「そうか、それもそうですね。うん、確かに、そう思えばそうだ」
(そやけど、この先、あの弟が幸せになれるかどうかは、分かりまへんなぁ)
と闇屋の背中から鳴宮の元へ戻った青女房が言った。
「どうしてだ?」
という鳴宮の問いに、青女房はため息を漏らして、
(あの姉さんは弟の周囲から離れられんみたいやでぇ……弟が自分と父親を殺したのを知ってか知らずか、魂になった今も弟に執着してるみたいや、と)
と答えた。
「そうか、この先も弟にしがみついていくか」
(へえ、あにさん、小袖はんが力足らずですんませんて言うてます)
「二人続いて殺った後やしな。姉の魂ごと粉砕してしまうには不憫か……小袖。かまへんで、気にすんな。弟にだけしがみついてるならかまへんやろ。様子みよか」
青女房がほっとしたような顔をした。
島崎好子という一人の人間を抹殺するのには成功したが、その魂がこの世に残ってしまった。それは小袖の手の不手際というよりも好子の執着心が強かったという話だが、力のある強力な図柄ならば魂ごと粉砕してしまうだろう。実際に小袖の手の島崎に対する仕掛けは惨いものだ。島崎は今も惨殺と生を交互に繰り返しているのだ。小袖の手が示唆した通りに永久に。
小袖の手が好子の魂を見逃したのは同情したという以外になかった。
それを闇屋がどう取るかで小袖の手の処遇が決まる。
きっちり仕事を出来ないと追い出される。
その先は消滅しかない。
闇屋が機嫌良く、様子見を承諾したので部屋中の妖がほっと胸をなで下ろした。
「金霊に莫大な生体エネルギーを支払いつつも、姉にも憑かれご苦労なこっちゃ。それでもまだ五十年は生きるようやから、運の強い男やな。もしかしたら、もう一回くらい来るかもしれんなぁ」
と闇屋がけっけっけと笑った。
「おい、ワイシャツがもうないぞ」
と言う巧に妻の留美が不思議そうな顔で、
「え? 知らないわ。五枚はあったじゃない」
と答えた。
「だから、全部汚れて洗濯かごの中だよ。どうして洗濯してないんだ?」
「ワイシャツは家で洗濯じゃなくて、クリーニングにしてって言ったじゃない」
「だったらどうしてクリーニングに持ってってないんだ?」
「はあ? あなたのシャツでしょう? 仕事の帰りにでも持って行けばいいじゃない」
「は? そんなのは嫁の仕事だろう?」
「嫁の仕事って何よ。あなたから一円だって余計なお金はもらってないのに、どうしてあたしが? 生活費も何もかも折半でお互い働いてるのに、どうしてあたしだけが無償で嫁の仕事とやらをやらなくちゃならないわけ?」
「結婚したんだから女が家の事をやるのが当たり前だろ。それを掃除も食事も全部外注じゃないか。洗濯くらいしてくれよ」
「女が家の事をやるのが当たり前なら、あなたが外で稼いでくるのも当たり前。私が専業主婦になったら、あなたは一人で今の稼ぎを維持できるの? それに洗濯くらいっていうなら、あなたが洗濯くらいしたらどうなの? あなたのシャツなんだから」
そう言われて巧はぐっと詰まってしまった。
半年前に結婚した娘は同じ会社で知り合った子で、活発でてきぱきとした明るい子だ。
美人で仕事もきちんと出来る子なので、ライバルもたくさんいた。
アタックにアタックを重ねてゲットした留美は恋人には最高の女の子だった。
趣味も合うし、センスもいい。なんと言っても連れて歩くのに綺麗な娘は自慢になる。 結婚後も仕事を続ける、生活費は折半、財布も別、という、はっきりした娘だったのがまたいい。そして子供は持たないという価値観が何よりも巧と合う。
留美はすばらしくおしゃれでスタイルも良く、自分の身体の美しさを維持する事に熱心だった。そのほかにも趣味がたくさんあり、友達も大勢いる。
巧との生活を楽しみながらも、自分の楽しみもしっかり追求するという娘だった。
「何だよそれ……姉ちゃんだったら」
「はいはい。お姉さんならお父さんとあなたの世話をしながら仕事にも行って、さらにあなたの出張の用意もクリーニングも全部やってくれたんですってね。その話は百回くらい聞きました。っていうか、どれだけお姉さんに依存してたのよ。お姉さんがあなたを甘やかしたのはお姉さんの勝手だけど、ここは私達の家で私達の生活なんだから、私達のルールで生活してちょうだい。夫婦の間に上下関係なんかないわよ? あなたがやってる事を私もやってる。あなたもそうしてちょうだい」
留美にきっぱりと言い込められて、巧はぐうの音も出ない。
確かに留美の言うことは正論だろうが、腑に落ちないのも事実だ。
姉の好子が巧の世話を一生懸命しすぎたせいで、巧は自分では何もしない男になってしまっていた。並んだ食事を食べるだけ、沸いてる風呂に入るだけ。洗濯物はしばらく待てばたたんだ状態で巧のタンスに入っている。
巧の身についているのは節約だけだった。
だから留美が風呂を沸かし直して入る、とか、エアコンを使う、という事に非常にイライラとしたものがある。だが巧はそれを我慢していた。留美の育った環境ではそうだっただろうからだ。それなのに留美は巧の世話を拒否したばかりか、姉の悪口まで言う。
だが巧はこれ以上の喧嘩は避けたかった。
以前にも同じような事で同じように喧嘩をしたのだ。
その時には「こうまで合わないんじゃ考え直したほうがいいかもしれないわね。私達、根本的な価値観が合わなそうだもの」と留美が言い放った事がある。
それは離婚を示唆する言葉だった。
出来れば離婚は避けたい。家事をしない以外では最高点の女性だからだ。
「分かったよ。今日の仕事に行く途中でクリーニングに持って行ってくる」
「そう、解決してよかったわ」
と留美がにこやかに笑った。
だが巧はその日、仕事に出る時に汚れたワイシャツを持って出るのを忘れてしまった。
今日も昨日のワイシャツで仕事に行ったのに、また明日も同じシャツを着なければならない、そう思うとうんざりだった。
「ただいま」
疲れ果てて戻った巧の鼻にぷーんと匂うニンニクを炒めたような香ばしい匂い。
珍しく留美が飯を作ったのか? とキッチンの方へ行くと、テーブルには豪華とは言えないが夕食にはぴったりのおかずが並んでいた。かすかに飯の炊けた匂いもする。
「うまそう」
肉を炒めた物や味噌汁、だし巻き卵、ポテトサラダなど、巧の大好物ばかりだった。
行儀が悪いと思いながらも、巧はだし巻き卵を一つつまんだ。
「!」
懐かしい姉の作っただし巻き卵焼きの味がした。
「美味い……姉ちゃんの卵焼きの味だ。どうして留美がこの味を……」
キッチンのテーブルには留美の字で「今日は外でご飯食べるから、適当にしてね」と書いたメモがあった。適当にといってもこれだけの支度をしてくれればありがたい。
巧は急いでスーツを脱いで、風呂場にむかった。
山盛りあった汚れ物の洗濯もない。
風呂場の棚には洗濯済みの綺麗にたたまれたタオルがふんわりと並んでおり、カゴの中にはきちんと巧の下着と着替えが並んでいた。
浴室を覗けばすでに湯は張られていて、いつでも入れるようになっている。
巧は上機嫌で風呂に入り、満足しながらあたたかい夕食を食べた。
「なんだよ、やればできるじゃん」
夕食後にビールを飲みながらソファでうたた寝してしまった巧の身体にそっと毛布をかけてやる小さな手があった。
その手は愛しそうに巧の頭をなでた後、キッチンのシンクのところに現れ、巧が食べてそのままにした食器をカチャカチャと洗い始めた。
深夜に戻った留美はキッチンの様子や洗面所の様子を見て、
「あら、あの人、洗濯したのかしら? ご飯も自分で炊いて食べたのね。なんだ、やれば出来るじゃない」
と言って笑った。
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