第9話  小袖の手 8

病院近くのカフェで待ち合わせた後、島崎は未亡人を洒落たレストランへ誘った。

 今日は財布に五万円持っており少し高めの食事が出来るので、島崎は上機嫌だった。

 未亡人の手前、島崎は会社を経営していると言っていた。

 後継ぎの息子も社会に出たところで、優しい娘に世話をされて優雅に暮らしている風に装っていた。島崎自身、人にそう伝えているとそれが本当の事のように思える。

 事実は女房、子供を捨てて女と逃げ、さらにその女にも逃げられた。金に困り、知り合いのところを転々として嫌がられ嫌われ、縁切りされたのも少なくない。息子や娘にも迷惑がられている。

 だが少し見栄をはって嘘の身の上話を他人にしている時だけは違った。

 自分は社会的に成功していて、息子や娘にも慕われているし、会社には頼りになる部下が大勢いて、自分の指示を待っている。それが本当だったらいいのにと思うような事を島崎は事実のように語ってみせる才能だけはあった。

 食事は順調に進み、デザート、コーヒーになったところで、島崎は首に違和感を覚えた。何かが首筋に触れている。

 右肩をすくめるように動かすと、それはさっと消えた。

 夕べの蜘蛛のような感触を思い出して島崎の肌がざわっとなった。

 細く長い動く物が威嚇するように島崎の首筋をトントンと叩く。

蜘蛛だとしたら格段に大きく太いやつに違いない。

 人前で叫び出すことだけは我慢できた。

 大きな身振りで首筋を払いのける。島崎の手にはそいつは触らなかったが、たたたっと走るような気配がした。

「ちょ、ちょっと失礼します」

 島崎は未亡人にことわって席を立った。

 洗面所に駆け込み鏡に姿を写すが、何もいない。

 背中や足の裏側も丹念に叩くが蜘蛛の姿はない。

 あれだけの大きな蜘蛛なら衣服の下に入り込むのは不可能だ。

 ジャケットのポケットにでも潜んでいたのが、今日の外出でついてきたのかもしれない。

 島崎は蜘蛛が嫌いだったので全身に汗をかいていた。

「落ち着け、今日は大事な日なんだ。あの未亡人を……」

 鏡を見ながら呟く島崎の目の前に、ふわりと布が広がった。

「?」

 それは上品な藤色の着物の袖口のようだった。

 袖口から見えているのは、

「な、何だこりゃあ!」

 ほっそりとした女の両手首だった。

「……な」

 島崎の身体は固まって目の前の小袖の手を凝視している。

(親ならば息子や娘の幸せを考えるのが一番だろうに……おまえは……せめて子供達に迷惑をかけずにいようとも思わないのか……己の欲ばかり……)

 と小袖の手が言った。

「え……え……」

(おまえが心を入れ替えてあの姉弟の前に戻ったのなら、あの二人は喜んでおまえの面倒をみただろうに……おまえが姉を疫病神に弟を鬼に変えんだえ……)

 そのほっそりとした手は白く美しかった。

 島崎の目には袖口とその両手しか見えなかったが、視える者が視れば着物姿の女がうっすらと視えているはずだった。その女の顔は悲しげで、これから自分が成す島崎への制裁を悲しがっているようにも感じられた。

「こ、子供が親に孝行するのは当たり前の事だ!」

 と島崎は叫んだ。

(そうさ……大事に慈しんで育ててくれた親にはな……もう何を言っても遅い……闇屋のひと刺しはもう動いてる) 

「ぐはっ」

 と島崎が血を吐いた。そして鏡に映った自分が驚愕の表情を浮かべているのを見た。

 鏡の中の自分は血を吐いて、そして何より、背中から腹を突き破って血に染まった手が突き出しているのだ。

 島崎の全身を激痛が走り。急激に体内から温度が奪われた。

 破られた腹から血まみれの両手が自分の内臓をぎゅうっと握って引っ張り出すのを島崎は鏡越しに見ていた。

 視線だけを下に移すと確かに腹から大量の血が流れ出て、島崎の内臓をつかんだ手が見える。

「う、嘘だ……やめてくれ……助けて……くれ」

 激痛と急激な貧血で島崎の足が崩れた。立っておられず床に転がり込みながら、その手は自分の内臓を腹の中に戻そうとかすかに動いた。

 血だまりの中に倒れ込んだ島崎の目には小袖の両手が心臓をつかみだし、体内に引っ張り出したのが写った。

(これがおまえの心の臓さ……)

 と言うと、袖の両手は島崎の心臓を握りつぶした。

「ぐっ……」

 かすかに叫んで、島崎の全てが終わった。

 

「島崎さん? どうかされました?」

 声をかけられて、島崎ははっと我に返った。

「え……」

「お顔の色が優れませんけど、お加減でもお悪いの?」

 目の前の未亡人が言った。

 島崎は自分の腹のあたりを見た。見た目にも触ってみても、どこにも傷はない。

「夢?」

「どうかなさいまして?」

「いいえ、すみません」

 愛想笑いをしてみたが、どうにも先ほどの内臓をかき回される感触を思い出して、気持ちが悪くなった。

「ちょっとすみません」

 ハンカチを手に席を立つ。震える足でなんとか洗面所までたどり着く。

 鏡を見て自分の姿がどうにもなっていないのを確認して、ほっと息をついた。

 次の瞬間、

「ぐはっ」

 と島崎が血を吐いた。そして鏡に映った自分が驚愕の表情を浮かべているのを見た。

 島崎の腹を突き破った手が内臓を握りしめている。

「そ、そんな……まさか……」

 倒れ込んだ島崎には次の台詞が分かっていた。 

(これがおまえの心の臓さ……)

(これがおまえの心の臓さ……)

(これがおまえの心の臓さ……)

(これがおまえの心の臓さ……)

 「ぐっ……」

 かすかに叫んで、何回目かの島崎が終わった。


「島崎さん? どうかされました?」

 声をかけられて、島崎ははっと我に返った。




 島崎の訃報を巧は無表情で聞いた。

 姉の好子はぐずぐずと泣き続け、何がそんなに悲しいのかと巧は首をかしげた。

 葬式の間、嬉しそうな顔をするわけにもいかないので、巧はずっとうつむいて黙って過ごした。

 父親を殺した犯人は未だ見つかってはいない。

 当たり前だが見つかるわけもない。

 金霊という化け物に借金をしてまで依頼した復讐なのだから。

 毎月、金霊が巧の生体エネルギーを吸いにやってくる。

 生体エネルギーを吸われた後はもの凄い疲労感に襲われ一日中寝て過ごすようになるが、巧の気持ちは晴れ晴れとしていた。

 だが好子はなかなか父親の死から立ち直れない様子だった。

 平常が戻り仕事や生活が元通りになっても、好子は暗く沈んだ様子だった。

「なんでそんなに暗いの? あいつが死んでそんなに悲しいわけ?」

 元通りに二人で食卓を囲むようになっても、好子は食欲もない。

「やっと元通りになったんじゃん。姉ちゃんももう一回杉田さんにちゃんと会ってみれば? くそ野郎が死んだって言えば、向こうの親も考え直してくれるかもよ」

「もう、いいわよ……結婚とかもういいし……それに、あんたがお嫁さんもらうまではね」

 疲れた表情で力なく笑う姉に巧はぞっとする。

 巧の気持ちはすでに好子から離れていた。育ててもらった恩などとうに失っている。それは巧の反対を押し切った好子の罪だと思っている。

 だから好子が杉田とよりを戻そうが結婚しようがどうでもよかった。

 会社で気になる子も出来た巧は自分の人生だけを大事に生きたいと思っていた。

 このまま行かず後家でずるずると自分にくっついてこれらるのも嫌だ。

「ごちそうさま」

 そう言って箸を置いた巧はそのままごろんと横になった。

「コーヒーでも入れようか?」

 との好子の言葉に、

「うん」

 とテレビを見ながら生返事をする。

「あ、そうだ、スーツ、クリーニングから取ってきた?」

「あ、忘れてたわ。ごめんなさい」

「明後日から出張って言ったじゃん! 鞄も出しといてって言ったろ」

「ごめん、ごめん、鞄も明日、用意しとく」

 食べ終えた後の食器を片付けながら好子がすまなそうに言った。

 巧は寝転んだまま、

「姉ちゃん、風呂沸いてる?」

 と言った。

「今からお湯を入れるわ」

「そ、じゃ、沸いたら呼んで」

 巧はのびをしながら立ち上がり、携帯をいじりながら自分の部屋に入って行った。

(だめな男……)

 というかすかな声が部屋の中に響いた。

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