第8話 小袖の手 7

(このばあさんは結構金を持ってそうだ。ちょっと優しい言葉をかけてやれば嬉しそうにするのは誰からも相手にされず寂しい思いをしてるからに違いない)

 好子と巧の父親、島崎秀夫はにこやかな好々爺を演じながら頭の中でそんな事を考えていた。島崎のいつもの手口はこうだ。

 まず病院の待合室で審査をする。

 美醜のほどはどうでもよく、身につけているもので裕福がどうかを見極める。

 夫と死に別れなどは遺産を相続している割合が高く、そして子供は巣立ち一人暮らしである事。あまりに金持ちは子供が口うるさいのが多いので、金はほどほどでいいが子供や孫が寄りつかない寂しい老後であること、が重要だった。

 子供が都会に出て行く率の高い田舎がよいが、あんまり田舎では隣組などがまだ存在してプライバシーには目が光っているので、あまり過疎な田舎も避ける事。

 島崎は妻と子供を捨てて逃げた後、女を何人も取り替えながら転々と面白おかしく生きてきた。若いときは容姿もよく口もうまいので、いくらで女がひっかっかった。

 容姿の衰えとともに少しばかり心細くなったので、子供を探して頼ったのだが。娘は嬉しそうに世話を焼いてくてるが、息子が生意気でいけない。

 腹も立つがにこやかにしていればこのまま衣食住は確保されているので、いまいましと思いながらもすまなそうな顔をしている。

 そしてここが痛いあそこが痛いと言い娘から病院費をもらい、毎日のように近くの総合病院へ通いながら金を持ってる中高年の女を引っかけに来ているだけだった。

「衣食住には事欠かないが、ちまちました金しか寄越さないし、節約だのなんだのと小うるさい。家中探したがどこへ隠してるんだか通帳も見当たらねえし、金目のものもありゃしねえ。つまらねえやつらだ。好子の婚約者とやらにちょっと金を工面出来ねえかと頼みゃ目くじらたてて怒りやがって」

 ぶつぶつと愚痴を呟きながらも病院の待合室に座っていた島崎は目当ての未亡人を発見した。夫を亡くし今は気ままな一人暮らし。子供は成人して独立しており、年に一度くらいしか会いにこなくて寂しいと言っていたので、島崎はここで会うたびに楽しい話をして彼女を笑わせたり楽しませたりしている。

 金を引き出す為ならば善良な言葉もいくらでも出てくるものだ。

 近くのカフェでお茶を飲んで軽い昼食を取ったりする仲までは発展していた。

 美術館に誘うか、映画でも見るか、そして夕食を一緒に。

 そのうち手料理でもと相手の方から誘ってくれば脈はある。

 過去の経験から島崎はそんな事を考えていた。

 若くはないとはいっても、老人と呼ぶほどでもない。

 男はいくつになっても発散する場所があるだろうが、年老いた女にはない。

 若い男のいるような店に行くほどの勇気はないが、まだ女として終わったとは思いたくない。素晴らしい恋愛がしたいわけでもないが、連れ合いを亡くした後は酷く寂しい。

 島崎はそういう女を見分ける能力に長けていた。

 今度の相手もそこそこ楽しませてやれば貯め込んだ金を出すだろう、と思っていた。

「明日は美術館でも」

「まあ嬉しいわ」

 という約束をして、島崎は姉弟のアパートへ戻って行った。


 その日も好子はおどおどとした態度で島崎に接した。

 しばらく巧の姿を見ていないが、島崎はなんとも思わなかった。

 顔を合わせれば文句を言う巧が煩わしかった。

「巧は今日も遅いのか?」

 二人で夕食を取りながら島崎が聞いた。

「ええ……忙しいらしくて」

 と好子が陰気に答えた。

「そうか、まあ、若いうちは仕事も精一杯やっておく方がいいさ」

「……」

「どうした?」

「ううん、お父さん。おかわりは?」

「いや、もういいよ。ごちそう様」

「じゃあ、お風呂に入っちゃってよ」

「ああ」

 と島崎は立ち上がりかけて、

「そうだ、好子、すまないが二万ほど融通してもらえないか? 明日、知り合いに会うんだ。わしの恩師の先生宅に皆で伺うんだが、わしだけ手ぶらで行くわけにもいかんしな」

「分かったわ、お父さん」

 好子は自分のバッグから財布を取り出して島崎に札を差し出した。

「五万もいらんよ」

「いいの、もし足りなかったら格好悪いでしょ。余ったら返してよ」

 と好子が言って笑ったので、

「すまんなぁ」

 と島崎はさっさと札を自分の財布へ入れて立ち上がった。

「明日も早いし、風呂にでも入るか」

 がちゃっと音がして玄関のドアが開き、巧が入って来た。

 仕事用の鞄を小脇に抱え、背中を丸めている。

 足取りがおぼつかないのか、壁に手をついたまま、ゆっくりと靴を脱ぐ。

「おかえり」

 と好子が声をかけたが顔を見せようともせず、うつむいたまま黙ってキッチンを通り抜けようとする。

「ただいまくらい言ったらどうなんだ? 巧」

 と島崎が言ったが巧はそれにも反応しなかった。

 黙ってそのまま自分の部屋に入っていく。

「どうした? 身体の調子でも悪いのか?」

「分からないわ。聞いても大丈夫だって言うだけなの」

「そうか」

 島崎が巧の不調を気にしたのはほんの一瞬ですぐに明日の未亡人とのデートの段取りに頭を切り替えた。


 好子と巧のアパートは風呂付きだが、とても狭い風呂だった。

「ああ、広ーい湯船につかりたいもんだな。もう少し甲斐性のある息子や娘だったら、お父さん、温泉にでも行きませんかと言うだろうに」

 自分勝手な事を呟きながら島崎は狭い湯船に身を沈めた。

「それにすぐ冷める。身体の芯から温まれないし」

 あの未亡人をうまく言いくるめて温泉旅行もいいな、などと考えていたが、ふと自分の首に触れるものがある事に気づいた。

 手で首筋を払って、ついでにぽりぽりと掻く。

 その自分の指に何かが触った。 

 細い長い何か、それは島崎の手に触れるとささっと頭の方へ駆け上がった。

「うわぁ!」

 島崎は頭をぶんぶんと降りながら慌てて立ち上がった。

「く、蜘蛛か? デカいぞ!」

 濡れた身体のまま浴室から出てドアを閉める。

「好子! 好子! 蜘蛛だ!!」

「なあに? お父さん」

「風呂場に蜘蛛がいるぞ!! デカい!! 手のひらサイズくらいある!」 

「え、やだ」

 好子は風呂場へ入ってきて浴室へのドアをそっと開けて仲を覗いた。

「いないわよ?」

「いや、いる。絶対いる! 退治しとけ!!」

 島崎はすっかり冷えてしまった身体を拭いて、怒りながら部屋へ行ってしまった。

好子は浴室へ入って行って、タオルや椅子を動かしてみたが、どこにも蜘蛛らしき物はいなかった。

「いないじゃない、あら。巧」

 ふと振り返ると、巧が立っている。

「お風呂入る?」

「うん」

 と巧が何やら嬉しそうな顔で答えたので、

「あら、どうしたの? 今日は体調いいの?」

 と好子が言った。

「うん、治った」

 巧は肩を上下させて身体を動かした。

 さっき部屋で寝転んでいたその瞬間まで焼けるように痛かった背中の痛みがきれいさっぱり消えている。嘘のように身体が軽くなって動かせる。

 痛みが消える瞬間、(成就しましたえ……おまかせあれ……)という女性の声が聞こえてきて、衣擦れの音と背中から何かが抜けるような感じがした。

「あいつ、何を騒いでたの?」

「大きな蜘蛛が風呂場にいるって言うんだけど、いないのよね」

「へえ、ぼけてきたんじゃないの?」

 と巧は鼻で笑いながらそう言った。

「え、やだ、まだそんな年じゃないでしょう」

「さあね。俺も風呂に入っていい?」

「ええ」

 巧は上機嫌で服を脱いで浴室へ入っていき、好子は巧を不思議そうな顔で見送った。

 

 巧が身体を洗って湯船に身を沈めると手が現れた。

 一瞬、ぎょっとして声が出そうになる。

 その手は着物の袖口から出た両手で、指先を揃えて浴槽の縁にちょこんと乗っていた。

「……願いが通じた? 俺は成功したって事だよね?」

 と巧が問うと、小袖の手はうなずくように手をひらひらとさせた。

「そうか、なんかさっきから全然、なんとも思わなくて、あれだけ憎いと思ってたあいつの事さぁ。気持ちが消えたみたいなんだ」

(大丈夫……あんたさんの気持ちはうちがきっちり受け取りましたえ……)

 と囁くような声が浴室に広がり、巧が一瞬目を離した瞬間に小袖の手は目の前から消えた。

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