ほしふれる夜のみささげ

風月那夜

ほしふれる夜のみささげ



その年の夏のことである。

里の川べりにひとつの煌めく星が落ちた。

星は落ちてもなお生命の光を輝かせていた。







1、天女





夜空に浮かぶ星が瞬くほどに、

地上の川にその煌きが写し取られて行く。



天を仰げば一杯に広がった輝きに見惚れ、

水面を見下ろせば自らも星の瞬きに呑み込まれて行く。



星の川を舟が行く。



舟には美しき天女と輝く生糸を乗せて。

天女は星の煌めきを受けた衣をそよがせ、曼珠沙華の色と同じ紅を刷く。



人々は是れ、総ては天女の御業みわざであると畏み申す。




その様を瀬衣せいは目と口をぽっかりと開いて見つめていた。

その口はまるで全ての星星を吸い込むかのように。また、その目は星星を瞳に焼き付けるかのように。


女童である瀬衣には一年に一度のそれがとても美しく見えていた。





2、素瀬里





素瀬すせの里には香々かがという機織り女がいた。香々の織る布は美しく、その美しさを聞きつけた貴人あてびとにより、香々の布は毎年宮中に奉納されるようになる。


帝のお召し物になるのか、はたまた東宮様か、それとも中宮様であろうか、それを素瀬の者は誰も知らない。

ただ辺鄙な里から美しい布を宮中に奉納する事が里人にとってとても誇らしい事であった。




また、素瀬では養蚕を営む。繭から取れた生糸の艶めきはどこにも負けないと里人は自負している。


その生糸で織る絹織物は質が良い。だがしかしこれを香々が織れば極上の一品となるのである。それは香々の腕が良いのもあるが、また別に理由がある。


それは、香々が天女の恩恵を一身に受けているからだ。





3、献身




素瀬の里には古くからの風習により、七月六日の晩に川上から小さな舟を出す。舟に乗るは機織り女から選ばれるのが常。今それを務めるのは香々であった。


御役目を頂いた香々の元へこどもの瀬衣がやってくる。


「母さんが今年も天女様なの?」

「そうだよ。だけどそれもそろそろ御役御免になりそうだね」

「どうして?」


瀬衣は不思議そうに香々を見上げて、その美しい赤色の唇を羨ましく見ていた。


「もう皺だらけで肌も焼けた婆だもの」

「だけど天女様になる香々は綺麗だよ? 白粉おしろいだって紅だって高価なのに、綺麗なべべも着れて、母さんはいいな」


瀬衣の言葉を聞いて香々は眉を寄せたために折角の白粉がよれてしまう。


「いいかい瀬衣。母さんは天女に非ず。ただの贄なんだよ」

「にえ?」

「素瀬に上質な生糸と上質な織物を頂く代わりの献身みささげなの」


瀬衣には理解が難しく小首を傾げながら香々のよれた白粉を見ていた。



香々を乗せた舟はゆうら、ゆうらと川下へ流れる。満天の星空を香々――天女が仰いで手を大きく広げれば、呼応するように星が降る。舞い降りた星はやがて川の水面に浮かび幾万の星星で川を埋め尽くしていった。


ぬるい風が水面を揺らせばその煌めきは隣り合う肩を叩くかのように上から下へと伝播する。


天女の魅せる御業みわざであると里人の感嘆の声が夜空へ昇華されていく。


六日の晩から七日の夜明けに掛けゆっくり時間を費やし星星の瞬きを上質な生糸へ纏わせ、無事に川下に着けば、その年の降星祭こうせいさいは終わりであった。


――これでまたこの一年は安泰である。


さざめきの中でそう呟いた里長さとおさは朝陽を背中に、白く長い髭を満足気に撫で付けていた。






4、継承





すっ、

かたん、


小屋の中では機織りの音が静かに響く。そこに混ざる二人の息遣いは機織りに同調していた。


「瀬衣、上手くなったねえ」

「へへへ」

「だけど瀬衣が機織りする必要はないんだよ」

「でも、香々が織れなくなったら私が織らなきゃいけないでしょ?」


瀬衣の言葉に嬉しさを感じた香々の胸は温かくなり優しく微笑む。


「ありがとうねえ。嬉しいねえ」


香々が頬を緩めていたその時、隣家の機織り女が小さな娘を連れて来た。


「やあ香々。この娘を見てくれるかい? どうやら私より腕が良いんだ。里長も香々の跡継ぎになればいいって言ってるんだよ」


「ああ勿論さ。さあおいで夏佳なつか


香々は齢七つの夏佳を側に呼ぶと、自分のはたの前に座らせる。小さいと言っても瀬衣より背は高く白い花のように凜とした貌をしている。


夏佳は香々に指示されるがまま器用に手を動かし滑らかで美しい絹織物へと形を作っていく。


そんな様子を瀬衣は恨めしく見ていた。

夏佳に母を取られた気がして胸の中に黒い石が詰まった。



それから夏佳は毎日のように香々の元へ通って来た。香々も香々で自分の後継には夏佳であるというように、丁寧に教え込む。

そんな折、瀬衣には教えない秘伝まで夏佳に教えるのを見てしまった瀬衣は、また一つ胸の中に黒い石を落とした。


その夜、瀬衣は香々へと訊ねた。


「どうして夏佳には教える事を、瀬衣には教えてくれないの?」


その言葉に香々は、はっとする。


「瀬衣は機織りなんてしなくていいんだよ。自由に好きな事をして楽しく笑って暮せばいいんだ。機織りなんかに気を病む事はないからね」


瀬衣は首を傾げた。香々は誇りを持って機織りをしていると思っていたのに、どうして『機織り』と卑屈に言うのだろうと。


それでも瀬衣は、

「機織り好きだよ。見てるのも、やるのも」と言って香々に笑い掛ける。それは母の事が好きだと伝える表現も含まれていた。

言葉で伝えるだけではなく、瀬衣は機織りも懸命に励んだ。香々が教えてくれなくとも間近で技術を盗むように瀬衣は香々の側を離れなかった。


それはまるで離れた瞬間に夏佳に母を取られるとでも思っているかのように。






5、闇星




毎年の降星祭には香々が天女を勤める。一年重ねる毎に皺が深くなっていくが、それでも白粉で隠せば香々は美しい天女だった。

香々の唇に紅がさされるのを見て瀬衣の心は踊る。そしてそれを毎年楽しみに見つめていた。


天女が地上に星を降らせば、キラリと輝く川面を見て瀬衣の心も輝き、また天にも登るほどに心が跳ねて行きそうだった。



だがしかしそれも長くは続かない。香々はとうとう足腰を悪くして舟には乗れなくなってしまったのだ。機織りも休み休みで遅々として進まなくなる。


「私はもう終わりだね。あとは夏佳に頼むよ」


その夏、香々は瀬衣と夏佳の前でそう告げた。

だが瀬衣は後継に夏佳が選ばれたのを納得出来ない。何故自分ではないのか――と恨めしく思うと、また胸の中に黒い石が落ちて、胸の中が真っ黒に埋め尽くされる。




七月六日の晩の川上、曼珠沙華色を唇に乗せ美しい天女に化けた夏佳の姿を見て瀬衣の瞳は闇に染まった。



天女が舟に乗る。

齢十四で成人した夏佳は初めての大任に緊張して手足を震わせていた。またその震えに合わせて舟も揺れる。


「しっかりおし!」


そんな夏佳の様子に見兼ねた夏佳の母が檄を飛ばすものの夏佳の耳には届いていない。


「参る」


震える舟から男衆が手を離すと舟は天女と生糸を乗せてゆうらゆうらと動き出す。


空には満天の星星。

誰もが若い夏佳の天女姿に見惚れていた。今年も安泰である――と早々から里長は白い髭を撫でつけていたが、出発から四半刻しても空から煌めく星は川へ降り注がない。


どうした事だ、どうした事だ――と里人がざわめく中で、瀬衣は勤めを果たせない夏佳にぎりりと唇を噛んでいた。噛み過ぎたその唇から血が滲む。滲んだ血を舐め取ると黒い胸に血が落ちた。


刹那――




満天の星を雲が隠していく。ざわざわと不吉な音をたて黒い塊が空という空をあっと言う間に覆い尽くし辺りを闇に染めていく。


闇を映した瀬衣の口から昏い息がこぼれると、またたく間に天からたくさんの涙があふれ、素瀬の里を涙に浸す。さすれば川も増水し舟は夏佳を乗せたまま一息に流された。


香々はすっかり駄目になってしまった足を引き摺りながら瀬衣を探す。


「瀬衣? 瀬衣、セイっ! どこ?」


天の涙によって視界不良の中、香々は昏い影を感じ取り、惑う里人の隙間を縫って瀬衣の元に辿り着く。


瀬衣の瞳を見た香々は愕然とした。いつも瀬衣の瞳にある星が失われていたのだ。


「セイ、さま……」


香々は何年経っても小さなままの瀬衣の身体をきゅっと抱きしめる。愛しい我が子同然に頭を撫でて何度も何度も瀬衣の名を呼んだ。


「セイ様、セイ様、どうかお気をお鎮めください。わたくし共が悪う御座いました。セイ様のお力を勝手に搾取していたのは身共で御座います。どうかお許しください。セイ様――」


瀬衣は覚えのある温かい腕の中で自分を思い出していた。



――そうだ、わたしは……






6、瀬衣






―――··*··―――



セイは天の川からこっそり下界を見下ろした。

下界に星星の輝きはないのに、何故か人人の顔は輝いている。そんな人間の一喜一憂する顔を見るのが好きになったセイは、ある日、機織りの音を聞いて胸がわくわくと高鳴った。


機織りの音に耳を澄ませているうちに、セイはころんと逆さまになってしまい、あろう事か天の川から下界に落ちてしまったのだった。


落ちた衝撃で記憶を欠いたセイは、川べりにいた一人の女に助けられた。


女の名前は香々。


香々は記憶を欠いた女童を保護し、一時的に自分で育てる決意をする。だが幾年月が経過しても天からの迎えは来ず仕舞いであったので仕方なく香々はセイへ名前を与える。


に上質なを与えてくださるようにと、――セイに瀬衣と名前を与えた。



――瀬衣


と香々が名前を呼ぶほどにセイは笑い、自身に備わる元々の煌めきを取り戻せば瞳に輝きが浮かんだ。


素瀬の里には元々、降星祭はあったのだが、瀬衣が現れて初めての降星祭では不思議な事が起こったのだった。




瀬衣の瞳が輝く夜空の星星を映すと、投影するかの如く瀬衣の口からこぼれた星が素瀬の川に流れ込み、川すべてを美しい煌きに染めた。


里長も里人もみな揃って驚きに目を見開いていた。中でも特に驚いていたのは天女役を全うしていた香々である。星の煌めきは舟の上をも染めた。さすれば香々自身にも煌めきが纏い、両手で星を掬い上げる。星は砂のようにさらさらと指の隙間から落ちていくのだが、汗ばんだ手の平に残る星砂がいつまでも手を輝かせていた。


川の星は夜が明けるまでずっと輝き、里を明るく照らしていた。舟が川下につくのと夜明けは同時。香々が舟から降りれば星の煌めきは静かに川の底へ沈澱していく。


名残り惜しげに佇む誰もがこの奇跡に感謝し手を合わせていた。



またそんな香々や里人を見る瀬衣の顔も満足気に笑んでいた。



不可思議な降星祭を経験した香々は星砂の残る煌めきの手のまま機に向かう。するとどうだろう。

見た事もない美しい絹織物になっていくではないか。



……そう、


全ては天女の御業などではない。

全てはセイ様の御業ゆえである。


いつしか香々の絹織物は素瀬の里に繁栄をもたらし、里はそれに縋り付いた。あさましくもセイの御業を独占し搾取し、永遠の繁栄を星に頼る。



―――··*··―――



「セイ様、セイ様、どうかお気をお鎮めください。わたくし共が悪う御座いました。セイ様のお力を勝手に搾取していたのは身共で御座います。どうかお許しください。セイ様――」


香々の懸命な呼び掛けに応えるよう、瀬衣の瞳に弱くも光が走る。


「か、あ、さ、ん……」


香々は瀬衣の言葉に嬉しく涙を滲ませながらも首を横に振り、言わなければならない言葉を胸の内で繰り返した。


――香々は母に非ず、セイ様の母に非ず







6、帰昇






瀬衣は未だ闇に呑まれていた。瀬衣の胸の内に落ちた黒い石は地上で浄化することはない。


「母さんは、母さんだよ。どこにいても私の母さんだよ?」


香々の胸の内を察した瀬衣が闇に堕ちた心を圧して、皺だらけの香々の首に縋り付き、幼き童のように母を求める。


「セイ様、……セイ、……瀬衣っ!!」


いつもそうしたように皺だらけの手に力を入れれば、腕の中に収まる瀬衣の重みは不変で、温かさも匂いも、いつもと変わらない。


香々にとって瀬衣は神子などではなく、我が子同然であった。愛しい愛しい我が子の心が闇に堕ちて悲しまぬ母はいない。


「ごめんよ、瀬衣。機織りなんてしなくていいって言うのは、瀬衣には仕事なんてせずいつも楽しく笑って過ごしていて欲しいと思ったからなんだ。そりゃ我が子が自分の後を継いでくれるのが親は一番嬉しいさ。今更だけど瀬衣の気持ちを蔑ろにしてごめんよ」


瀬衣はそれに首を横に振る。気にしなくていいんだ――とでも言うかのように。



瀬衣は香々の首にもう一度強く縋り付くと、徐に力を緩めた。


「ありがとう母さん」


ふわりと浮く瀬衣。

香々の腕に掛かる重みが軽くなっていく。


「母さん、夏佳は?」


「夏佳はきっと大丈夫だよ。男衆が助けに向かっている」


瀬衣は一時の歪んだ感情によって夏佳を失いそうな事を酷く悔いて眉根を寄せる。


「これ以上私が下界ここにいては夏佳の身も危うい……。黒星はね、もう地上にはいられないんだ。これ以上留まると災厄を招く。この雨だってやがて強くなり山肌を削るだろうし、川も増水すれば里を呑み込むに違いない。瀬衣はね、この素瀬が好きなんだ。母さんも、それに夏佳の事も本当は好きなんだ。だから、もうここにはいられない。さよならだよ、母さん。ありがとう、さよなら」


「瀬衣?」


香々が我が子を求めるように手を上空へ伸ばすがすでに届かなかった。


「毎夏、天の川から素瀬を見てる。素瀬が素瀬である限り、素瀬の川に星砂を降らせるよ」


そのまま瀬衣は遥か彼方へ旅立ってしまった。

否、旅立ったのでない。元いた空へ帰って行ったのだ。



素瀬が素瀬である限り――



それは里人が楽しく笑って過ごせる、そんな素瀬の里である限りの意であろう。



来夏は天へ楽しき音を、

そして瀬衣の好物を届けよう。






―――··*··―――




この夏も瀬衣は天の川から下界を見下ろす。

すでに香々はいない素瀬の里。天女役にはあの日、一命をとりとめた夏佳が舟に乗っている。

夏佳は名を夏佳なつかから夏佳かがへと変え、瀬衣へ香々の想いを届ける。


川べりにいる里人の楽しそうな笑い声につられ瀬衣の瞳も笑んでいた。瀬衣が、ふふふ、と笑えば口から星砂がこぼれていく。



素瀬では今頃、空を仰いで「今宵も星が降る」と星砂に手を伸ばし笑い合っていることであろう。





〈了〉




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ほしふれる夜のみささげ 風月那夜 @fuduki-nayo

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