魔解忌譚
山川谷底
第1話 因縁
『沢山食べ物食べて、沢山大きくなるんだよ』
『
温かさと優しさで包まれた情景、人間は皆平等に幸せを噛み締め生きている。
その幸福の中、過ぎる時。
誰だって、それが永遠に続くと思うだろう。当たり前だと思うだろう。
『うん!大きくて優しくて……格好いい男になりたい!』
だが、現実は無情にもそんな人間の幸福をいとも簡単に奪い去ってしまう。
いつでも優しい笑顔を浮かべていた父と母が、
成す術無く、衰弱して力の抜けた弱々しい手を握り、ただ看取る事しか出来なかった。
もしも一つ願いが叶うなら、心も体も蝕む魔を、幸福を苛む悪を。
――私の
(……また嫌な夢を見た物だ、十年は経っただろうに)
人間は忘れたいと強く思う記憶ほど、きっと本当はどこかで忘れたくないと思っているんだろう。
目覚めの悪い頭を覚醒させる様に、外から入ってきた冷たい風が頬を掠めていく。
そんな小さな風すら、慰めているのかと問いたいくらいに己が感傷に浸っている事に気付いた。
(先程の夢のせいだ)
自問自答しながら、どうも落ち着かない心境を抑え、重い体を動かして起き上がると騒々しい足音と共に扉が勢い良く開かれた。
「兄さん!おはようございます!」
満面の笑みで部屋へ押し掛けて来たのは、同じ
両親の居ない私は、こうして翠の両親が営む寺院へ身を寄せて過ごしている。
「おはよう翠、起こしに来てくれるのはありがたいけど廊下を走ったら危ないでしょう?転んだら大変だ」
「あっ、ごめんなさい兄さん……」
近所に住んでいた一つ下の翠は、五つの頃から親しい仲だった。
両親を亡くした後に魔忌憚を志そうと相談をした時も、彼はまるで自分の事かの様に真剣に話を聞いてくれて、そんな私の決断を格好いいと言ってくれた。
『霖が魔忌憚になるならオレもなる!友達なんだから、辛い時は一緒だろ?』
決して容易い決断じゃない、ごく普通に人生を歩むよりも険しい選択肢を、友達だからという理由で同じ道を選ぶ。
心に重く沈んでいた喪失感が徐々に溶けていく様な、そんな気持ちがした。
その彼の言葉で、今でも魔忌憚をやれていると言っても過言では無いだろう。
「朝ご飯出来てるみたいなんで、向こうで待ってます!」
「ああ、早めに行くよ」
この当たり前が崩されぬ様に。
「父さん母さん、私の事を見守っていて下さい」
両手を合わせ目を瞑り、誰も居ない部屋で一人、静かに呟いた。
「兄さーん!」
暫く心願をしていると、大凡ご飯が待ち切れないのだろう、先程までの静寂を含んだ空気が解かれていく様に再度呼ぶ声が聞こえてきた。
これ以上待たせる訳にもいかない、覚醒した意識に空腹を感じる。
立ち上がれば、腹部から情け無い音が鳴り響く。
「ふふ、私も随分と腹を空かせていた物だ」
己から鳴る音に思わず一笑しながら、腹に軽く手を当ててみる。
「さあ、ご飯だ」
小さく独り言を零し、部屋を後にした。
談笑が響く方へ足早に向かっていくと、温かな空気に包まれていた部屋からは静寂が流れていた。
つい先程まで聞こえてきた音が聞こえなくなっていた事に気が付き、廊下で一度足を止めては部屋の戸へ顔を近付け聞き耳を立てる。
(どうしてだ?先刻、響いていた談笑が異様なほど静まり返っている)
私を驚かそうとでもしているのだろうか。
あれだけ名を呼んで急かす程、腹が空いていたはずなのに態々そんな事をするだろうか?
「翠?」
恐る恐る戸を一枚隔てて声を掛ける。
だが、数分待てど返ってくるのは隙間から吹き抜ける微風と静寂のみだった。
肝が冷える感覚が背中を突き抜けた、嫌な妄想ばかりが頭を過ぎる。
(まさか、鬼悪魔が……)
今朝見た夢を思い出しては、いてもたっても居られなくなり戸に手を掛けた。
この先で起きている事を考えてここで止まっていても仕方無いと、覚悟を決め勢い良く戸を開く。
「――っ!!」
まだ手の付けられていないであろう綺麗に並べられた朝食、光景に不釣り合いなほど乱雑に床へ倒れている椅子。
少しでも何もないでくれと、祈りつつ視線を下へと移動させる。
(嫌だ、やめてくれ。私から何も奪わないでくれ)
だが、願いは無情にも一瞬にして崩れていった。
その先に広がっていたのは、無慈悲にも紅血の中に倒れる翠と彼の両親だった。
「翠!お父さん!お母さん!」
最悪の事態には至っていないかもしれないと、急いで彼等に近寄り声を掛ける。
どうして私が居ない時ばかり……、近くに居れば何か変わったかもしれない。
そんな後悔を巡らせど目の前の災厄は変えられない、時は戻らない、助けられない。
「……何十年掛けても、私は……私は一人も救う事が出来ないのか?」
温厚で人一倍優しく、その言葉一つ一つに誰よりも、私を救った彼を……救われたのに救えなかった事実。
「翠……」
居た堪れない心を裂かれる様な静寂に、返ってこない返事を待つ。
彼を片手で抱き、力の無い手を強く握ると、己の無力さ、受け止めきれない現実に後悔の涙が零れ落ちる。
「霖……兄さん?」
ふと、先程まで何の反応も示さなかった彼から今にも消えそうな程の細い声が聞こえた。
「翠?意識があるのか……?」
涙を袖で拭き、霞む視界が鮮明に意識のある彼の姿を映す。
(彼は生きている……良かった、本当に良かった……)
「兄さ……痛っ」
言いかけた言葉を呑み込む程に痛むのだろう、魔に攻撃を受けた横腹を抑え、そこから滲む血がなんとも酷さを物語っている。
これ以上出血させてはいけないと、急いで手に刻まれた
「翠!体を動かさず安静に……」
「うん……ごめん、兄さん。……オレ何も守れなかった」
こんなに負傷して、心身共に疲弊しているにも関わらず真っ先に詫びいる彼を見て、私の心には酷く哀傷が刻まれていく。
(何が守れなかっただ、そんな事は彼が言う言葉では無い。私が言う言葉だろう)
だが、私よりも彼の哀傷の方が何倍も辛いに決まっている。
弱い力で紡がれる言葉と共に、瞳から溢れた雫が擦り傷の付いた頬を掠め落ちていく。
それを痛めない様にと、指先で慎重に彼の頬を拭う。
「兄さんにも、母さんにも父さんにも……何一つ恩返し出来てないや……ごめんなさい」
「翠、大丈夫。今の君の勇士を見て、誰も助けられなかった奴だなんてきっとこの世界中……誰も思わない」
震える手で、服の懐から何かを取り出してはこちらへ差し出す。
「……これは?」
受け取った物をよく見ると、真紅の怪光を放つ美しい勾玉だった。
「それ、この間さ……道中で拾ったんだ、キラキラしてて綺麗でしょ?だから、霖兄さんにあげる」
「……ありがとう、翠」
この状況下で意識のある彼へ、涙では無く精一杯の謝意と敬意を込めた笑顔で言葉を返す。
先刻、苦で満ちていた彼の表情が哀情に溶けていった。
同時に傷だらけの指先が、段々と冷え体温を感じられなくなっていく。
『辛い時は一緒だろ?』
私を救ったその言葉が、何年経とうと心に残る。
決して色褪せはしない、優しさで彩られた幸福の記憶。
抱きかかえていた体を傷付けない様、その場へ優しく寝かせる。
手を合わせて黙祷を捧げては、彼の生きた証である勾玉を握り、その場から立ち彼の両親の方へ近付く。
「お父さん、お母さん」
「……ひっ!来るな!来るな!」
「……やだ!死にたくない、助けて!」
頬を軽く叩くと二人は目を覚し、怯えた様子でこちらを見て叫びを上げた。
「お父さんお母さん、私は霖です……一旦落ち着いて下さい」
(一体この家族が何をしたって言うんだ、こんなに怯えて……どんな残忍な魔に襲われたんだ?)
名を名乗ると、両親は酷く安心した表情を浮かべた。
「私が居ない間に……何があったか、詳しく教えて下さい」
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