第3話 お姫様の、タイムリミット

「かぐや!かぐや、どこ!?」


 寝静まった住宅街を走りながら、私は声を張り上げる。息が切れて、声もかすれているけど、今はそんなこと言ってる場合じゃない。


 かぐや姫を守れるのは、私しかいない。早くしないと、彼女は…。


 不吉なほど明るい満月の下、私は川沿いの広い河川敷に出た。


                 ◆


 かぐや姫とのお月見が密かな日課になってから、私の世界は変わった。


 見慣れた近所の風景が、葉の生い茂る木々が、学校の友人たちや街を行き交う人々が、突然生き生きと輝き始めた。強烈な夏の日差しすら、この美しい世界を照らす舞台照明のように感じられ、私は童話に出てくる幸せなお姫様のように、スキップしながら歩きたい気分になった。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。


 学校が終わり、塾に向かう時間になると、もう胸が高鳴った。塾の先生に恋してるみたいだ。違うけど。


 頑張って本日の課題を終わらせ、10時過ぎに解放されたら、魔法の時間の始まりだ。私は塾の階段を駆け下りると、喧噪の繁華街を足早に通り抜ける。目指すは、あの公園だ。


 彼女は今夜も、ジャングルジムの上で、物憂げに月を見上げていた。


「さくら、今宵は遅いではないか。待ちわびたぞ」


 聞き慣れた、低く芯のある声。大好きな、かぐや姫の声だ。私はジャングルジムをよじ登り、彼女の隣に腰掛ける。私の定位置、今日も辿り着いた。


「見よ、今宵は満月じゃ。なんとも美しい…」


 恍惚とした表情で呟く彼女に、そっと寄り添って手を握る。彼女は、優しく指を絡ませて応えてくれる。幸せな気持ちが、胸いっぱいに広がる。


「ねぇ、かぐやって呼んでいい?」


 月の姫ともあろう方には失礼かもしれないが、思い切って聞いてみた。かぐや姫は、少し驚いた顔をしたが、すぐに切れ長の目を細めて頷いた。


「構わぬ。さくらはわらわの大切な友じゃ。水入らずの間柄といこう」


 月明かりに照らされた綺麗な顔をもっと近くで見たくて、顔を近づける。


「友達になれたのは嬉しいけど、私、もっと…かぐやと仲良くなりたいの」


 なるべく雰囲気を醸そうとしたけれど、借りてきた台詞のようになってしまった。恥ずかしくて、顔が熱くなる。そんな私の頭を、かぐや姫は優しく撫でてくれる。


「嬉しきかな。さくらはいい子じゃ。すこし目を瞑っておれ」


 言われた通り、目を閉じて顔を上げる。心臓が、すごい速さで打っている。


 彼女の唇は、夏なのにひやりと冷たかった。十秒ほどの時間が、永遠のように感じられた。


                 ◆


 体を離した後、初めて喉の渇きに気付いた。無意識のうちに、相当緊張していたらしい。


「水、買ってきてもいいかな。喉乾いちゃった」


 ばつの悪い顔で言うと、かぐや姫も付いてくると言った。二人でジャングルジムを降り、公園を出て繁華街のコンビニへ向かう。月の都から、下界に降りたような気分だ。


 コンビニで天然水を二本買い、一本をかぐや姫に渡す。二人で歩きながら飲む水は、いつもより冷たくて美味しかった。


 繁華街の途中、居酒屋の立ち並ぶ前を通った時だった。飲み会を終えたサラリーマンの集団が、がやがやと私たちを追い抜いていった。酔っぱらった一人がかぐや姫にぶつかり、チッ、と舌打ちした。


 天然水のペットボトルが地面に落ちて、残った水が道路に流れた。私はぶつかってきたサラリーマンを睨み付けると、かぐや姫のペットボトルを拾うためにかがんだ。その時。


「や、やめて…」


 隣で、かぐや姫がしゃがみ込み、両手で頭を抱えていた。


「もう…やめて。連れ戻さないで!お願い…」


 焦点の合わない目で、ぶるぶる震えながら見えない相手に懇願する彼女に、私は味わったことのない恐怖を感じた。得体の知れない透明な力が、私のかぐや姫を締め上げていた。


「落ち着いて!酔っ払いに当たっただけよ。ほら、私の水あげる…」


 でも今夜、目に涙を浮かべた彼女は、正気に戻らなかった。


「いや、帰りたくない!もう、いやだ!」


 彼女は突然、すくりと立ち上がると、ビルの間に見える満月を仰いだ。顔が、苦しみに歪んだ。そして、かぐや姫は、黒髪を振り乱して、繁華街を駆けていった。


「ちょっと、どこ行くの!待ってよ!」


 追いかけようとするが、私はまだ13歳。大人のかぐや姫が全力で走るのには追い付けない。みるみるうちに、彼女の姿は小さくなっていった。


                 ◆


「かぐや!かぐや、どこ!?」


 彼女が消えた方角をたどり、静かな住宅街を駆け抜けると、広い河川敷に出た。近所を流れる一級河川沿いの土手は、昼間こそ景色がいいが、夜はただただ不気味だ。


 その時、川にかかる大きな橋の上から、何かが落ちるのが見えた。橋脚の間に、小さな水しぶきが上がる。無我夢中で、土手を駆け下りる。


「だめ!かぐや、死んじゃいやだよ!」


 しばらくすると、人影が水面に浮かびあがり、下流へと流されていくのが見えた。必死に川べりを走り、後を追う。水の流れは、思っていたよりずっと速い。


 もう追いつけないと思ったとき、人影の動きが止まった。浅瀬に打ち上げられたらしい。駆け寄ると、かぐや姫が気を失って倒れていた。頭から血を流しているが、微かに呼吸はしている。


 私は急いで携帯電話を取り出すと、震える指で119を押した。


「救急車を…すぐにお願いします。人が、川に落ちて気を失っているんです。頭から…血が」


 電話をかけ終わると、私はかぐや姫の身体を揺さぶって大声で泣いた。ついさっき、私にキスしてくれた唇が、青紫色に変色していた。


「どうして…どうしてなの?あなたを苦しめるものは、一体何なの?」


 返事をしない彼女の顔を、満月が照らしていた。

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