第30話 幕末単身赴任下級武士の食日記

 歴史小説を書こうとしたときに突き当たる壁として最も大きいのは、その当時の食文化でして、特に食べ物のエッセイを書いているため小さなところまで気になってしまいます。

 いや、気にしなければいいと言われればそれまでなのですが、そんな性格でしたらそもそも文章を書いて自分の首を絞めるようなことは致しません。

 ちなみに、異世界ファンタジーを書こうと思ったときに、舞台設定で最初に考えるのもご飯のことです。

 ただ、その時に考えるのはいかに環境を調整して握り飯とおみそ汁の一つでもつけたくなるのですが、それはまた別の話。

 いずれにしても、主人公が何を食べ何を飲むのかは、そこから何を考えるかに繋がるかと思いますので、可能な限り大切にしたいと思っています。


 さて、今回取り上げます「幕末単身赴任下級武士の食日記」は執筆活動を再開させてから手にしたものでして、こうした食にまつわる資料に目のなかった私はパブロフの犬のようになりながらレジへと走りました。

 本作の元になるのは酒井伴四郎という二八歳になる紀州和歌山藩の藩士です。

 紀州和歌山藩は紀州徳川家の治める地ですので親藩大名になるのですが、それは果たして下級武士になるのだろうかと初めは首を傾げました。

 そこで実際に読み進めていったのですが、江戸の藩邸暮らしで手ずから料理をする姿は現代のつつましやかな暮らしをするサラリーマンに通じるところがあり、看板に偽りなしと判定しました。

 さらに突き詰めてしまえば、人の心は二百年程度でそうそう変わるものではないというところに至るのですが、これなら私は江戸時代に転生してもやっていけそうだと謎の自信を得たものです。


 それにしても、本作を読み進めていくと江戸の末期には今とそん色のない食文化が花開いていたことに驚かされます。

 もちろん、中華やイタリアンなどが出てくるわけではないのですが、それだけに豊かな和食文化を思い知らされます。

 肉食については大手を振ってという形ではありませんが、人によっては薬食いと称して手を出す人もあり、それは気分が乗らないときにいただくステーキのようなものだったのかもしれません。

 しかし、現代のように炊飯器などの設備はありませんので、日によってご飯の具合は変わり、日に一度炊いたご飯を茶漬けにするという違いもあります。

 それを不便だと感じるのか、それとものんびりしていていいではないかと思うのは人それぞれかと思いますが、私はそうしたあまり気にならないようです。


 ちなみに、この伴四郎さんは国許に妻と娘とを残しての単身赴任です。

 帯でこれを目にしたところで自分の生活はどうなのかと問い詰められている気分になって――くるのでしたら、もう少しまともな生活を私は送っていることでしょう。

 話が逸れてしまいましたが、この伴四郎さんも、長屋で一緒に暮らす叔父さんや同職の直助さんも基本的には自炊をしています。

 そこには「男児厨房に入るべからず」といった堅苦しさはひとつもなく、一文でも安くすませて自分のこづかいを保とうとする姿が浮かび上がってきます。

 実際に自炊をしていれば分かることなのですが、料理の腕は一朝一夕でつくものではありません。

 それが様々な料理に手を出していることを考えますと、特に伴四郎さんは普段から料理をしていたのではないかという思いがふつふつと浮かび上がってきます。

 昔は男が料理をするのは珍しかったということをときどき耳にしますが、それはごく最近の幻だったのかもしれません。


 本作を読む中で気になることの一つに、当時の病気への対し方があるのですが、先の薬食いのように単に風邪気味かと思ったときには酒を飲んで腹を満たして早めに休むという今の私に通じる姿が見え隠れします。

 お腹を下すこともあったようで、そこで食を控えるというのも時代を越えた共感を覚えてしまいます。

 しかし、ひとつだけ思い知らされるのはそれが悪化した時のことです。

 先述の同居人である直助さんが体調を崩すのですが、初めは風邪かと思っていたところ三日ほどして熱が出てくるようになり、十日ほどして身体が腫れるようになってきます。

 本作ではこの間の医術に関して触れられているのですが、結局この病気が快方へと向かうまでにひと月かかっています。

 風邪は万病の元ということわざがありますが、風邪への感じ方もその先にあるものもあまりに現代と酷似していて少し冷汗が出てきそうな程です。


 このようなしがないサラリーマン生活を送っていた伴四郎さんも、時代の荒波に呑まれていくこととなります。

 序盤に挿入された桜田門外の変で時代を悟るのですが、それだけで日常が一変する訳ではありません。

 その後も江戸でのいつもの暮らしが続き、開国という一大事も異人見物という呑気な色で塗り替えられています。

 しかし、それが一変するのは第二次長州征伐でして、これを受けて伴四郎さんも従軍することになります。

 もう二百年近く大きな戦のなかった時代のことで、伴四郎さんもそれを思い悩んでやけ酒に走っています。

 そして、砲火の交わる中を潜り抜け、昇進の後に元のような生活に戻るのですが、あまりにも簡素な筆致の先に太平の世のありがたさがにじみ出ていました。

 伴四郎さんのようにお酒をいただいていると、それがしみじみと胃の中にしみこんでいくようです。

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