第28話 トニックシャンプー

 朝の目覚めは一杯の珈琲から始まる、などという優雅な方もいらっしゃいますが、私の場合には髭剃りとシャワーを慌ただしく済ませることで一日の幕が開きます。

 この時に用いるシェービングクリームも、ボディソープももう長いこと決まっているのですが、その中でもトニックシャンプーはもう二十年近い付き合いになります。

 初めは父が使っていたこととで知ったのですが、その香りの強さから目を剥いたこともあり、それを背伸びして我慢しつつ使ったのは私がまだ少年らしい好奇心を存分に持ち合わせていたからでしょう。

 また、この頃はトニックシャンプーとトニックウォーターの違いも判りませんでしたから、高校の頃にジントニックを知ってあの強烈の匂いを口にするのかと困惑していました。

 学生になってその誤解は解かれたのですが、とかくトニックという言葉は私に戸惑いと見知らぬ世界を様々に齎してくれるもののようです。


 一日の始まりをシャンプーで迎えるといえば聞こえはいいのかもしれませんが、これは単に夜の間に掻いた汗を流したいという思いから発したもので、どうせ髭を剃るのであれば手間は変わるまいという思惑もあります。

 これを朝シャンと言われればあまりにも恥ずかしく、私としては朝行水と名付けているのですが、濡れて慌てた烏のように入ってからすぐに飛び出すのですから自分では最もしっくりきています。

 この朝行水の習慣は勤めに出てから殆ど欠かさぬものとなり、朝食以上に私の一日を整えるものとなっています。

 旅先の宿を発つ前にもシャワーを浴び、友人の家に泊ったとしても出て間もなく入浴を済ませるようにしておりまして、ともすれば狂信的とも言えるほどの入浴形態なのかもしれません。

 ここで注意が必要であるのは、自宅以外ではトニックシャンプーが配置されていることは稀でして、そのまま出社してしまうとどこか気の抜けた仕事になってしまいがちということがあります。

 旅先から直接仕事場にというのはおかしく感じてしまうかもしれませんが、私は昼から夜にかけて勤めているため、時に休み明けの朝を旅館で迎えることもあります。

 そうした時にどことなく余韻を残しながら仕事をする訳ですから仕方がないのかもしれませんが、そうした際には車を運転しながら頭をリセットする必要がありまして、それはシャンプーを一度するよりも非効率となってしまいます。

 それはそれで楽しいものではあるのですが、その余裕のない時期に限ってこのような「遊び」に出るものですから、我ながら酔狂が過ぎるきらいがあります。


 就職してからこのトニックシャンプーから長らく離れていたのは、私が持病の手術のために入院した際のことでして、実に十日というもの別のシャンプーを用いていました。

 無論、術後に入浴できない期間もありましたので毎日別のものを使っていたという訳ではありませんでしたが、その期間はやはりどこか刃の欠けた気分があり、物を書くにしてもどこか物足りなさを感じたものです。

 大病という訳ではありませんでしたので気楽なもので、その時の自堕落は人として大切なものが欠けているのに気付きながらも抜け出せないほどには甘美なものであったように思います。

 見舞いに総務部長らが来た際の受け答えもどこか間の抜けたものであったように思いますし、日がな一日飽きもせずゲームばかりをしていました。

 これが自宅に帰ってからトニックシャンプーで髪を洗うと、何とか社会人としての姿を取り戻せるのですから不思議なものです。

 そうは言っても、まともな仕事勘を取り戻すまでには一週間ほどかかってしまい、当時の同僚には三週間も迷惑をかけることとなってしまったのですが。


 愛用している方、ないしは家族で愛用されている方の中には分かって下さる方もいらっしゃるとは思いますが、トニックシャンプーの強い刺激というのは時に飛び上がるほどの衝撃を与えます。

 より具体的に申し上げますと、その、男が大事にしている部分をこれで洗ってしまいますと、風呂場で叫びを上げて悶絶しかねません。

 実際、私も何度かやらかしたことがあるのですが、その中でも最も印象に残っているのは二〇一六年の四月のことです。

 深夜四時過ぎではなかったかと思いますが、姉から父が息を引き取ったという連絡があり、呆然としながらも長崎に向かう準備を始めていました。

 突然の連絡ではあったのですが、それまでの衰弱から既に覚悟は決まっていましたので、後は様々な片づけをしなければならないという思いの方が強かったように覚えています。

 そこで、早めのフェリーに乗るべくシャワーを浴びていたのですが、そこで髭を剃り、頭を洗ったところで、下半身を洗おうとしてやらかしました。

 晩春の未明に木霊した叫びは酷く滑稽で、それでいて噴き出してくるはずの涙は引っ込んでしまい、ただただ残る乾いた笑い。

 それではっきりと目を覚ました私は車を駆って長崎に向かい、様々に残されたものを片付けて戻り、その翌日には震度五だか六だかの揺れに見舞われました。

 落ち着いて後、沸かした湯で洗髪と清拭をしたのですが、その時の爽快感は中々のものでした。

 それ以降は家で悶絶することも無くなったのですが、それだけに、あの瞬間は私の脳に深く刻み込まれているようです。

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