第27話 菊正宗・純米樽酒

 願わくは 藪の後にて 冬死なん あの鴨南と 燗酒の頃


 三十年来の蕎麦っ食いである私にとって、西行法師の一首をもじるほどには蕎麦への愛着を抑えることができません。

 ここで忘れることができませんのは、盛り蕎麦をいただく前や鴨南蛮をいただく際には酒が欠かせないということです。

 吟醸、原酒、純米、本醸造、濁酒……酒の世界は広いものですので、ともすれば目移りしてしまいそうになってしまいますが、蕎麦屋で頂く酒としてはこの菊正の樽酒が最も馴染むように思うのは私だけなのでしょうか。

 店の奥の方で鎮座する堂々たる一斗樽を眺めながら、蕎麦味噌を舐めつつ白磁の酒器で一杯やるというのは中々他では味わうことができません。

 冷やでも良いのですが、冬であれば少し温めに燗をつけてもらった方が胃の腑をより柔らかく開いてくれるように気がしますので、ついつい燗で頼んでしまいます。

 そして、蕎麦の前に仄かな杉の香りを愉しむことで、主役の登場に向けてより胸を高鳴らせることにも繋がります。

 江戸を訪ねた際に欠かすことのできない催し事の一つと言っても差し支えないでしょう。


 個人的な趣向の話をしますと、別のエッセイで触れたこともあるのですが、基本的にはその地の食を味わうときには、その地の酒をいただくようにしているのですが、時に家で作るものの味付けが異なる時に重宝するのもまたこの一本です。

 熊本の地酒で好みのものもあるのですが、それを買いに行けないようなときに気軽に手に入るというのも心強く、およその肴に無理なく寄り添ってくれるというのは代え難くもあります。

 本来であれば神戸は灘の酒ですので、その地の食に合ったものなのかもしれませんが、元々から日本の銘酒を支えた地として存在していたこともあり、その在り方は一種別格ということができるのかもしれません。

 それこそ、日本というこのひどく細長く様々な文化を持った国にとっての地酒、と言えるのかもしれません。

 無論出汁の味に合うというのは触れるまでもありませんが、その出汁も関西風の昆布を主とした出汁であれ、関東風の鰹節を主とした出汁であれ歩調を合わせられるというのはそのことを証明していると言えるのではないでしょうか。

 時に喧伝されるこの国は一つという言葉や絆という言葉の先にどことない虚しさを覚えた時、この一本を私はいただくことがあります。

 五臓六腑に広がる味わいがそうした似合わぬ感情を洗い流し、頭の中にはっきりと北海道から沖縄に至るまでの姿が浮かばせてくれるように思います。


 この菊正の樽酒ですが、大きなものであれば初めの方で述べたように一斗樽があり、これはとても一人で飲み干せるようなものではありません。

 しかし、市販されているもののいは四合瓶やワンカップもあり、より手軽に楽しむこともできます。

 特に一合入ったワンカップやプラスチックカップは持ち運びに丁度よく、旅先で気軽に味わうことができます。

 路上飲酒、と言えば今ではあまりにも悪評が立ちすぎていますが、春の野に出て一人で一杯やりながらその香りを愉しみつつ一句捻るというのは極上の楽しみでもあります。

 ここ一年半ほどは疫病のためにそうした思いを必死で我慢して抑え込んではいるのですが、戸の内で試みに一つ開ければ家にいながらそうした気分を僅かに味わうこともできます。

 もちろん、実際に外に出た時とは異なるものではありますが、心の慰みには十分と言えるでしょう。

 また、車窓に二つカップを並べ、地の肴をいただきつつやるというのも鈍行列車の旅では欠かせない情趣のように思います。

 最近ではあまりにも「香害」という言葉で煙たがられるところではありますが、それをマナーという言葉で排除していくことで得られた清潔さの裏には、蟻んこ一つ居場所は残されていないのかもしれません。

 これもまた、ここ一年半は奪われた愉しみではありますが。


 我が家で炭火焼きをする際に、酒を考えようとすると真っ先に思い浮かぶのもこの樽酒ではあるのですが、初めは炭の香りと木の香りが被るのではないかと戦々恐々としたものです。

 しかし、その実は炭火から森の奥へと誘われ、いつしかその中に溶け込んでしまったかのように錯覚するほどに噛み合っていまして、それからは欠かせぬ相方の一つとなりました。

 炭の鳴く声を耳にしながら、遠火で焼きあがっていく酒肴を眺めつつ舐めるように樽酒をやるというのはあまりにも現代からは遠すぎる情景なのかもしれません。

 そうした時にこそ、私は日々の喧騒からこっそりと抜け出し、私があくまでも小さくこの地に生きるものの一つでしかないということを全身で味わうように思います。

 それは、その日あることを第一としその日その日を精一杯に生きながらも、どこか心に他の人を受け入れられていた時代の人と同じような心持であるのかもしれません。

 この銘酒の樽に詰め込まれた味というのが、そうした江戸の世からの贈り物であると思うのはあまりにもおふざけが過ぎるのでしょうか。

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