第14話 コンパス時刻表
「近頃、知り合いの子に電車の話をされるようになって」
「あら、てっちゃんですか」
「俺、興味もなければ詳しくもないんだけど」
「子供って関係なしですもんね」
「鶴崎さん俺と代わって。分かるでしょ?」
同僚と話をて苦笑いすることままあることですが、その界隈を覗き込んでいない方の前では私も鉄道オタクを名乗れるんだなあ、とどこか気恥ずかしくもなった出来事でした。
私は昔から鉄道で出かけるのが好きで、それも新幹線や特急よりも鈍行列車を多く利用してきました。
こうした時、私のかばんは着替えやら何やらで一杯になってしまうのですが、それにふたをするように入れられるのが、このコンパス時刻表です。
スマホがあればいろんなことを調べられる今、これを無理して持つ必要はないのですが、あると安心してしまうのでついつい買ってしまいます。
それも、電池切れや電波の届きづらい地域を考えてのことでしょうと言われてしまいそうですが、実際には駅に行きさえすれば情報そのものは手に入ってしまいます。
ですから、わざわざこの厚さにして三センチほどあるある冊子を持つことで、壊れそうなかばんに無理を強いる必要は全くないのです。
ただ、これを持たずに出発した一昨年の夏の旅では、まともに横になって眠ることもできず、終電で乗り過ごして野宿をし、八代駅で正拳突きを受けるというなかなかに話すと楽しい旅となってしまいました。
私がこの一冊を旅立ちの前に買い求めるとき、芭蕉翁が三里に灸を据えるのと同じような願をかけているのかもしれません。
このコンパス時刻表ですが、情報量と手軽さのバランスがちょうどよく、日本中の情報を常に持ち歩くことができます。
これは事前に入念な計画をして出かけるようなことをせず、出たとこ勝負で歩き回る私のような人間にはありがたく、旅先で自由にその先を思い描けるという強みを与えてくれます。
列車を一本逃した時にも、どうしようかと悩むより先に別の列車に乗り込み、そこでページをめくりながらここに行こうかと悔やむことすらなく過ごすことができます。
急な天候悪化や事故などで列車に遅れが出た時にも、その先に続く駅を確かめながら自由に予定を組み替えることもできます。
決して、その時々で最新の情報を見ることができるわけではありませんので、その日の乗り継ぎの修正をできるわけではありません。
ただ、地図を見ながら使う路線を変えてみるものを変えようという相談を自分にすることはでき、そこで心のゆとりを得ることができます。
最速や予定どおりが本当はいいのかもしれませんが、そうもいかないのが旅の楽しみでして、それを味わい尽くすための便利なアイテムと言えるかもしれません。
時刻表は常に変化するものですので旅に出る度に買い替えるのですが、どの冊子も一度は旅の途中で私の枕になっています。
昔は快速夜行であるムーンライト九州やムーンライトながらなどの車両がありまして、その座席を少しだけ倒して眠ったものですが、その際にこの一冊を挟むとよく眠れました。
今では列車の中で一晩を過ごすこともできなくなってしまいましたが、列車に揺られるうちにまどろんだ際には、これを噛ませてひと眠りするのは旅先での恒例行事となっています。
このように書きますと車窓を愉しまないのかと言われてしまいそうですが、鈍行の旅はどうしても列車に揺られる時間が長くなりがちです。
そのような中で普段はできないような惰眠をむさぼるのもまたたまらなく心地がいいものでして、車窓を愉しむひと時にもひけをとるものではありません。
せっかくの機会がもったいない、という心を駅のごみ箱にでも捨てておきますと同じように楽しめますので、一つおすすめしておこうと思います。
ただ、この「もったいないの心」は燃やせるごみなのか、それとも、資源ごみなのかはよく分かりませんが。
旅から帰っても時刻表は取っておくことで、思い出として残すことができます。
あまりにそれを重ねすぎますと家の中が散らかってしまいますが、特に印象的だったものを残しておくと数字と文字の単純な羅列が肉感を持って浮かび上がってきます。
私の場合にはエッセイを書く際の資料として残している部分もあるのですが、学生時代はそうした考えもなくただ放置しているだけでした。
それを、生前の父は時にめくっていたようでして、帰省した折にその姿を認めたこともあります。
今は散骨されて海を自由に行き来できる身となったのですが、老いてなお草枕の夢を見ていたのかもしれません。
このような思いをいずれ抱くのだろうと思っていたのですが、予期しないことに三十路にして父と同じことをするようになっていました。
自粛と制限の中で、指と文字だけは好き勝手に異郷の地を渡り歩き、そこに在った景色と出会いを自由に楽しむようでした。
二〇一九年三月の時刻表は既に今あるダイヤとは異なるものとなってしまいましたが、それでも、何かを乗せて列車を走らせ続けているようです。
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