第8話 坂の上の雲
大学時代の私に最も影響を与えた小説を答えなさいという問いを投げられれば、迷わず答える作品がこの「坂の上の雲」です。
大学一年の頃にドイツ語の先生と話した際に勧められて読んだのがきっかけで、以来、何度となく読みながらその度に印象の変わる物語は群像劇であることを差し引いても見事なつくりだなと脱帽せずにはいられません。
日露戦争に至るまでの明治時代の日本の在り方を垣間見ながら、前向きに未来へ向けて戦い続ける男たちの生き様を見られたのは間違いなく当時の私にとっては何よりの財産になったものと思います。
その一方、手に汗握る日本海海戦の場面で日本海の波の高さを知りながら挑んだ乗船実習において、その波濤の偉大さを身を以って知ることができたのもまた一つの財産となりました。
特に、対馬海峡を越える際の波というのは酷いもので、学友たちも、
「あの時は死ぬかと思った」
というほどの船酔いを味わったものです。
その中で、特に船酔いに弱い私は最初にダウンし、
「なぜ、生きているのだろうか」
と一周回って生きていること自体に疑問を持つほどとなっていました。
未だに駆逐艦の描写を見るたびにこの時の光景が蘇り、思わず下腹部を抑えてしまう、そんな不思議な読み方をも許す力を持つのもこの作品の魅力であるように思います。
なお、この航海による減量は幸いほとんどありませんでした。
その前の実習で八キロほど痩せましたので。
日露戦争に至るまで、ということを先に書きましたが、私自身は戦史を深く知るわけではありませんので、その内容がどうこうということに関して深く触れることはできません。
特に、船酔いについて語ることのできる海戦とは異なり、陸戦についてはどのような装備をしていたのか、戦略的にどうであったのかというのは全くの専門外です。
ただ、旅順要塞の攻略戦において我が息子を二人ながらにして失いつつも、将軍としての矜持を失わずに指揮官として在り続けた乃木将軍に思いを馳せるとたまらなくなります。
採用した戦術については筆者や他の方々が様々な形で検証されていますが、本作がなければここまでこの一戦の意味が広く考えられることもなかったでしょうから、どのような描写であったとしても軍人冥利に尽きるのではないでしょうか。
そして、私が本作で二番目に好む場面として、乃木将軍が二〇三高地に名称をつける際に
そこで挿入される漢詩もまた良いのですが、それ以上にこの当時の日本にはまだ漢籍という文化が残っており、それが要所で活きてくるのを見て私の創作の方針も今の形に近づきました。
創作という観点で見てしまうのは、私もまた文章を書く人間であるからでしょうが、本作を読み進めていく中で最も気にかかるのが正岡子規の在り方になってしまいます。
若くして不治の病にかかってしまった子規が、そこから俳句や短歌の革新運動に取り組んでいく様は壮絶の一言に尽きますが、それと同時に研究対象に上がった芭蕉の長命との対比は私に勇気を与えるものともなりました。
高校時代に始めた創作活動が、就職を期に暗礁に乗り上げ、むしろ勝手に暗礁に乗り上げさせ、自分で苦しむことになった私を救ったのは、子規の壮烈さよりもこの部分であったように思います。
大学時代にも読んでいましたので、当然このことは知っていたのですが、当時の私はまだ社会を知らずにただ前だけを見ることができましたので、そこで思い悩むようなことはほとんどありませんでした。
もし、本作との出会いがなければ私はここでこのようなエッセイを書くこともなかったでしょうし、真之のように文章とつかず離れずの関係を続けながら、やがてはどこかで立ち枯れる思いをしていたのかもしれません。
なお、私が本作で最も好きな場面は子規の臨終の後で虚子が、
「子規逝くや 十七日の 月明に」
という一句を読み上げた場面でした。
解説で本作は叙事詩であるとい表現されていましたが、この部分が最もその形容を受けるに相応しい場面だと思っています。
本作を読んでから、いつかは愛媛に伺いたいという思いを強くしているのですが、なかなか幸運に恵まれず、まだその思いを果たせておりません。
特に、昨年は最も都合のよい一年と思っていたのですが、疫病の災禍により思い叶わず持ち越しとなっています。
様々な名物があることも知っていますが、何より子規を筆頭とした偉人を輩出した土地がどのように豊かな地であるのかを目にしたいというのは我ながら欲深いなと思ってしまいます。
その一方で、日本の地方が持っていた豊かさが今もそこに残されているのか、ということを思うと本当に訪ねていいものかと考えてしまうこともあります。
しかし、その不安を熊本に住むうちに小さくすることができた今となっては、またその不安を長崎を見て大きくした今となっては、いち早く目に収めておきたい土地となっています。
社会の雲行きを見詰めながらではありますが、まだ見ぬ雲に心が躍るのだけは避けられませんね。
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