第3話 動物のお医者さん
私の通っていた中学校の図書館には時として、どこから迷い込んできたのか分からない本が並んでいました。特に一万六千円もする「ビザンツ帝国史」という本が並んだ時には、我を失う図書委員がいたほどです。その光景は「
「えっ、先生もご存じなんですか」
「ああ、ハムテルだろ?」
と、にやっと笑って答えられたのは今でも強く記憶に残っています。
それは、少女漫画を読む大人の男性がいてもいいんだという自信を私に与え、雑食に近い今の読書観が完成した瞬間でした。あの一瞬がなければ、今の私は青年ばかりを読んでいたと思います。このカシオミニをかけてもいい。
この作品に触れたきっかけは姉が所持していたからでして、少女漫画というのはこうしたものなんだな、というのをなんとなく感じていたように思います。ただ本作が、というよりも佐々木倫子氏の描かれる漫画が他の少女漫画から一線を画したものであることを知ったのは、それよりもずいぶんと後のことでした。ちなみに、他に知っていた少女漫画家さんが、たちいりハルコ氏や岡田あーみん氏であったことも付け加えておきます。本当に私は少女漫画を読んでいたのかは気にかかりますが。あ、竹本泉氏の作品も大好きです。
ただ、本作を読み始めようとしたころの私はまだ幼く、血や内臓などを見るのが苦手でした。そうしたマンガやアニメを避けてきた私は、お医者さんという言葉にそうしたものを想像したのも仕方がありません。それでも、それがいらない心配であったのは、まもなく分かりました。最大のスプラッタが健康診断で採血された菱沼さんの出血でした。むしろ、ここでスプラッターという言葉を覚えたほどです。
何といっても全体に流れる空気感のようなものが独特で、それに惹きつけられたというのが実際のところだと思います。もっと言ってしまえば、今ある日常系と呼ばれるマンガのさきがけであったと言っても過言ではないと思っています。何らかの「事件」は起きるのですが、そのほどんとは人生を大きく左右するようなものではなく、そして、それと同じようなゆるやかさで人生の大きな岐路も超えていく。どうしても物語を作ろうとすると大きな山場をと肩ひじを張ってしまうのですが、そうした在り方をくすりと笑われるような描き方には筆者の信念をすら感じられます。
思い返してみれば、私の大学時代もまた「事件」こそあったものの、ゆるやかに流れる日常の中で進み、終わったように思います。そして、学友たちとのやり取りや試験との戦い方も、どこか似たようなものであったように思います。くせの強い教授とのやり取りもまた似たようなもので、しるこドリンクの燗をつけたことはありませんが、同窓生と再会すれば話の出るであろう教官はいました。本編で特に出てきたのは個性の権化とも言うべき漆原教授と、その対極の紳士の象徴たる菅原教授でした。ただ、実際にはその他多くの教授陣があり、その中でも特に話の出やすい存在だったのではないでしょうか。私も学生時代の話をする時によく出てくる教授が何人かいますが、それは私にとっての漆原教授なのだと思います。
この作品が描く学生生活はどこか理想的でありながら、ひどく現実的な部分も見え隠れします。特に、研究室の貧しさというのはよくマンガで描き出せたなぁ、と今でもひそかに感動している部分です。もちろん、時代が違いますし、脚色されたところもあったかとは思いますが、研究室にお金がないというのは中に入って痛感したものでした。最新の機械を買うことができずに、おさがりの機材のご機嫌をうかがいながら研究室に籠った日々を思うと、夢もなく落胆もない日常を活き活きと描くというのがどれほどに難しい作業であったのか、と脱帽してしまいます。いまだに、機械が不具合を起こして鳴り響いた警告音が、この作品を読み進めていくと聞こえてくるようです。あと、研究室でアイスを食べるという風景も現実でした。
ただ、やはりと言いますか、当然と言いますか、人間に語り掛けてくるような可愛らしい動物は現実には存在しませんでした。
「あそぼ」
「俺はやるぜ!」
こういった人間らしさを持った寄り添う動物たちの姿は印象的で、それもまた本作の大きな魅力です。それはセリフを与えずとも十分に出たものと思いますが、与えたことで十二分に発揮されたものと思います。だからこそ、そうした動物たちの存在を見ることが叶わないのは残念でしたが、同時に、街行く際に見かける生き物たちから声が聞こえてくるような、不思議な気分を味わえるようになりました。三十路の男が、街を徘徊する中で動物たちに目を向けてその言葉に耳を傾ける――うん、これは子供たちに防犯ブザーを鳴らされる絵面ですね。それでも、特に子ネコやスズメと目が合うと少しだけ目の前に転がっている日常が愉しくなる、そんな小さな力を持つのが本作なのでしょう。
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