山間のバス停にて

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第1話

第一話  「山間のバス停にて」

  

初春の朝陽を浴びて、私は母の使いで久し振りに母の実家に出向いた。


バスは町外れの丸太橋を渡り、砂利道に入ると長い砂煙を舞い上げた。すれ違う自転車にクラックションを鳴らすと、自転車は足を止めて恨めしそうにバスを覗いた。


昭和三十年代の東北の寒村では交通の手段は徒歩が主流で、自転車は一家に一台の時代だった。バスは点在する田んぼと桑畑を右手にして、川沿いの道を時折ギアを換えながら山間に入って行く。


乗り降りする人も無い、幾つかのバス停を機械的に通り過ぎて行くと、暫くして用水沼を取り囲むように大きなカーブがあり、その奥に突き出した岩の壁が見えてきた。


赤みを帯びたその壁を左に迂回すると、高台に木造の小・中学校が建っていて、終点のバス停は、学校に通じる坂の下にある。


バス停には身なりの派手な少女と質素な出で立ちの少女が居て、私は旅立つ二人の少女と二つの家族の未来に想いをはせた。













第一章  「十五の春」

第一節  「少女A・B」


娘の名は、里子と百合子、一クラスしかない村立の小・中学校では、否応なしにクラスメートである訳だが里子は幼少の頃から見せびらかす様に着飾っている百合子の傲慢さが嫌いで、母親のトヨが百合子の父親が営む製糸工場に繭糸を採りに行くようになってからは、百合子の顔を見るのも嫌になった。


百合子も陰気くさい里子とは気が合うはずもなく、この日も未だ会釈さえ返していない。百合子の母親、ヨシコは街の酒屋から嫁いできたが村の暮らしに馴染めず、用事を作っては街に出向いていた。


百合子の父親の総一郎は里子の母親と同級生で、昔から里子の母親トヨを好いていたが家柄が違う事もあって娶ることは叶わなかった。総一郎は村一番の養蚕農家で、小さいながらも製糸工場を営み、村一帯から繭玉を買い入れていた。


又、ヨシコも実家を通して酒類や菓子類を仕入れて、村で唯一の雑貨店を営んでいた。

とは言っても、ヨシコは仕入れるだけで店に立つ事はほとんど無かった訳だが、


里子の父親の順之助はトヨより三つ上で、狭い村落ではトヨの遠縁にあたる。婚姻に伴い僅かの田畑と雑木林を譲り受けてトヨと二人で田畑を耕し、雑木林を開墾して養蚕を営み繭玉を出荷していたが、それでも一家5人が食べるだけで精一杯だった。


製糸工場が出来るとトヨは現金収入を得る為直ぐに働きに出たが、その分、順之助にもトヨにも養蚕と農作業の負担が降り掛かり二人は一心不乱に働き続けた。


未だ電気洗濯機も炊飯器も無い時代、里子は三つ違いの順一と六つ違いの有子の面倒を見ながら家事の大半を担い、養蚕の手伝いをしてきた。


第二節  「上京・里子」


百合子達は屋根の掛かった待合所の中に居て、旅行気分のような華やかさであったが、トヨ達は使用人としての気兼ねもあってバス停の盾看板を囲んで黙していた。


張り詰めた空気を破りながらバスがどんどん近付くと、百合子達は待合所を出て蔑むように一瞥して里子達の前に立ち、バスのドアが開くと、総一郎は声を掛けて運転手の後ろの席に着いた。


里子はトヨから新しい旅行鞄と、順之助から古い型の旅行鞄を受け取って、走りかけたバスの中で一番後ろの席に着いた。バスが岩壁を曲がるまで順之助は大きく手を振り、トヨは嗚咽していた。


暫くして里子は運転手と百合子親子の会話に耳を塞ぐように窓の外に目をやり、入社案内書を取り出しては何度も内容を確認した。


集合場所の上野駅中央改札口は、先月、先生に引率されて入社説明会に行った際に通ったので、大体の道順は分かっていたが、一人で行く不安は抑えようがなかった。


バスは村を出て町に入り、三つ目の町を過ぎる頃にはほぼ満員だった。里子はこの日の為に新調してもらったコートを気にしながら、大きな鞄を膝の上に抱えた。


乗客の大半は駅のバス停で降り、里子が両腕に鞄を下げて降りる頃、百合子は軽い化粧鞄を腕に抱えて駅正面の階段を上っていた。

(荷物は既に東京の叔母宅に送っていた。)


里子は(座って行くようにと言われたが)安価な自由席券を購入して上りのホームへ向かった。ホームの待合室には百合子達が居て、里子は顔を伏せるように通り過ぎ、自由席乗り場の列に並んだ。


間もなくして上野行のアナウンスが流れると、百合子達もホームに出てきた。列車が入って里子が自由席車両の乗り込む頃、総一郎はホームから百合子に声を掛けていた。


大半の人が車内に入りきると里子はデッキの窓側に鞄を置いたが、客室のドアが開いて列の先に並んでいた小母さんが“おいで!”と声を掛けてくれた。


手招きに応じて中に入ると、小母さんは窓側の席に置いていた鞄を棚に上げて、里子に席を勧めた。車内には通路に立っている人もいて視線を感じたが、里子は小母さんにお礼を言って席に着いた。


列車は一度大きく後ずりしてから、除々にスピードを上げた。小母さんは横浜に住んでいる娘の御産の手伝いに行くとの事で、棚から毛糸の玉を取り出して手編みを始めた。


次の駅、その次の駅でも里子と同じ年頃の男の子がホームに並んでいた。中卒が金の卵ともてはやされる時代、里子も中卒で大手電器メーカーに就職する。


一クラス十三名の寒村で里子の成績は常に一・二番で、担任教師からは街の高校に行く事を薦められたが、家の経済的事情や弟の進学を考えると里子は給料を貰いながら高卒の資格が得られるとの事で、電器メーカーに入る道を選択した。


里子は流れる景色の窓に新しい生活への不安や、自分が居なくなった後の家事の負担の事などを繰り返し写していた。


幾つもの駅を過ぎて車内は混雑を増し、都会の色合いが増す頃、里子は小母さんに促されてトイレに立った。小母さんは毛玉を継いでは黙々編むだけで、余計な事を聞かれない事が里子には有り難かった。


第三節  「上京・百合子」


百合子が東京の美容学園に行く事にした理由は、ヨシコと行きつけている美容院の先生(三年前に東京から戻った)から映画館や喫茶店や遊園地・動物園など、東京での夢のような話を聞いたからで、「先生!」と呼ばれる美容師はヨシコの憧れの職業でもあった。


又、美容院で観るテレビや雑誌、ソファーで飲む紅茶など、東京に行けば毎日こういう生活が出来ると思ったからで、百合子は店員が差し出したお菓子をほお張りながら、東京での楽しい日々に心躍らした。


総一郎は一昨年古い蔵を壊して村で唯一の洋風の家を建てたが、未だ電波が届かないためテレビは無かった。


中学生になる頃、百合子の周りには女の友達が居なくなり、一人っ子の百合子の楽しみは村では着て歩けない服を着飾って町で買い物をするか、市内まで出て映画や喫茶店に行く事だった。


繭玉の買い付けとヨシコが営む雑貨店の商品の買出しの為、総一郎は村で初めてトラックを購入して運転手を雇った。然し、百合子は一人では行かせてもらえず、ヨシコが同伴する日曜日に限られていたため百合子は大いに不満だった。


今、ヨシコと並んで座って居る姿は既に東京の人で、丹精な髪形と目鼻立ちが浮き上がった化粧は車内でも目立っていた。


列車が上野駅に近付く頃、小母さんは手編みを止めて里子の鞄を棚から下してくれた。

五年前に娘を東京に出したとの事で、小母さんの励ましの言葉に里子は目を潤ませながらホームに降りた。


百合子の伯母はホームで待っていた。百合子の母親より三つ年上との事だが、見た目は十歳も離れているような落ち着きを保っていた。百合子はこの伯母の家から電車で四十分の距離にある美容学院に通う。


第四節  「敏子との出会い」

  

里子は、人の波に揉まれながら、中央改札口に向かって歩いた。階段を昇って行くと、改札口の周辺には会社名や個人名を書いた厚紙を掲げている人が大勢居て、改札口は混雑していた。


里子は反対側の改札口に電器メーカーの名前を見つけ、中年の男性に近付いて後ろから挨拶した。もう一人来るので待つようにとの事で、里子は迷惑にない場所に鞄を降ろして待った。


暫くすると里子と同じ改札口から、里子より少し痩せた少女が出てきて目が合った。里子は混雑する人ごみの中で、何故かその子であるように感じ、一つの鞄を肩に、もう一つを手に持って歩き出した。二人は中年の男性に近付きながら、どちらとなく笑みを交わした。


少女の名は敏子で、乗り継いだ電車の中で鞄を棚に上げると、敏子は隣に座って里子の腕に絡ませて自己紹介を始めた。


里子は同姓であれ手を繋ぐのは久しぶりで、肌荒れた厚い手に触れられる事には恥ずかしさを覚えたが、あどけなさが残る敏子の自然な仕草は初対面とは思えない親近感を抱いた。


第五節  「里子の新天地」

  

引率の男性に促されて列車の余韻の残るホームに立つと、駅の東側には商店街と住宅街が広がり、西側には目の前から奥の方まで工場の建物が立ち並んでいた。


守衛所で届けを済ませて中に入ると、工場は休みで一応の静寂を保っていた。コンクリートの広い車道と両側に立ち並ぶ建物の大きさに身震いを感じながら車道に沿って芝生の中の歩道を真っ直ぐ進んで行くと、右手奥に小さい林があって、手前に四階建ての女子寮が建っていた。男子寮は、広場とテニスコートを挟んで反対側に建っている。


寮の中に入ると新入生の大半は既に着いていて、小さなざわめきが聞こえていた。中年の担当者は里子と敏子を同じ部屋に案内した。6畳の和室には共同の押入れと両側に小物入れが付いていて、敏子は荷物を解いて整理しながら家族の写真を並べた。両親と祖父母と兄と弟と、農村では珍しい犬の頭を撫でている敏子が写っていた。


高度成長に入り、若い働き手が不足した各企業は中卒者の確保に奮闘し、里子が入社する電器メーカーも地方への進出を拡大する傍ら通信高校への入学を条件に掲げて優秀な中卒者を採用した。


巷では高校進学が一般化してきたとは言え、現金収入の乏しい地方の農村では高校まで進学させられる家庭は限られていた。従い、地方では高校へも行かせてくれる大手メーカーの採用に応募者が殺到した。


電器メーカーの女子寮は築四年目で、和室が二十五部屋連なり、廊下を挟んだ中央には細長の自習室兼集会室がある。自習室を挟んで両側にはトイレと洗面所兼洗濯所、調理室、浴室と娯楽室が有り、自社製のテレビ、洗濯機、湯沸かし器が備えられていた。


一階は四期生で、二階には三期生、三階には二期生、四階には一期生が居たが、先輩方は歓迎会の準備をしているとの事で上の階は静かだった。


集合時間にはまだ早かったが、自習室には既に大半の新入生が集まっていて、前のテーブル付近に積まれた高校の教科書や作業衣を眺めて談笑していた。スチール製の机には部屋順に各人の名札等が配られていて、里子の机は敏子の後ろだった。


寮での規則等の説明、教科書及び作業衣の配布が終わってざわめき掛けた頃、二期生の五人の先輩が入ってきて紹介が為された。これから一ヶ月間、寮における生活の指導をするとの事で、里子達は先輩の指示に従って片付けを済ませて歓迎会の会場に向かった。


歓迎会は食堂に隣接した体育館で行われた。出身県別にテーブルが並べられていて、間も無く男子も集まって来た。歓迎会の大半はサークルの紹介であったが、大人びた先輩の優しさに触れながら里子達は昼の分まで腹一杯食べた。


会場の片付けは三期生が行うとの事で、里子達は指導員に引率されて薄暗くなった外灯の下で寮に戻った。就寝・消灯時間が決められていて、浴室も洗面所も込み合った。


消灯時間になると寮内は急に静寂な闇に包まれ、並べて敷いた布団から敏子の咽び泣きが伝わった。里子は敏子の手を握り締めたが、里子の目頭からも大粒の涙が流れていた。


工場は翌日も月一度の連休で、私達はそれぞれの指導員に引率されて開店前の商店街や郵便局・病院を通り、街外れに在る図書館を兼ねたコミュニティーセンターで案内が終了した。


工場が稼動している日は、食堂でも朝・昼・晩、食事を摂る事が出来るが、実習生は残業が無いので自炊している人が多いとの事。里子は自炊に不安気な敏子を説得して、二人で自炊する事にした。


朝食抜きで商店街を行き来して日用品と食材の購入を済ませた後、昼食兼夕食の支度をしたが敏子は里子の手付きを見ているだけだった。


翌日、体育館で入社式兼入学式が行われ、本社の役員と通信高校の先生方が来賓として見え、工場の関係者と三期生が出席した。大阪でも同様に式が行われているとの事。式の終了後、配属先の発表があって私達はそれぞれの課長に引率されて各工場棟に分散した。


第六節  「百合子の新天地」 


百合子の叔母の家は、都心から少し離れた静寂な住宅街の一角にあり、息子が二人いるが長男は都心で勤め、次男は関西の大学に入ったとのことで夫婦二人の暮らしだった。


美容学院には寮もあったが、百合子が同年代の同性とは寮生活を過ごせるはずもなく、ヨシコは姉に相談して、結局、姉宅から通学させる事にした。


美容学院は基本的には四年制の通信教育だったが、学院内に専属の教員を抱えていて、学院内で一般の高校と同様に授業を行う傍ら美容など専門の知識・技能を教える。従い、入学金と授業料は、私立の大学校並だった。


総一郎は百合子を東京へ出す事に反対したが、田舎暮らしにウンザリしている百合子の意思と、先生と呼ばれたかったヨシコの夢とが重なって総一郎を説得した。


叔母宅から学院までは電車を乗り継いで約四十分の所要時間だったが、東京に慣れているヨシコは本人よりも活き活きと入学式に出席した。


美容学院にはデザイン科やファッション科もあって入学式は華やいでいたが、ヨシコの白地に淡い黒縞の入った和服と薄い空色のショールは際立って人目を引き、百合子の花柄の白いワンピースに薄いピンクのブレーザーと、透き通った白い肌に丹精な顔立ちは男子生徒の大半を虜にした。


百合子は田舎では味会えない羨望を感じながら、新しい生活に希望を抱いた。ヨシコも東京に来る口実が出来た事に満足の笑みを輝かせた。


第七節  「実習生」


女子の大半は製造ラインに配属された。どこの部署も、当初は単純な作業から教え、習熟度に応じて序々に難しい作業に移行して行く。然し、初めて親元を離れた者には広く眩いフロワーに立つ事自体が大海原に放り出された赤子のようだった。職場の雰囲気、生活環境の変化に馴染めない為、試用期間の三ヶ月の間で離脱する者がポツポツと続いた。


里子は母親譲りの器用さと持ち前の負けん気で、敏子はあどけなさが残る人柄で鬼門の期間を乗り越えた。


実習生は残業が無い為、里子と敏子は仕事を終えると夕飯の準備をして風呂に入り、夕飯後、明朝の準備を済まして自習室に入る日々を過ごした。


通信高校のレポートは月単位で送られて来る為、毎日地道にやらなければならない。残業が免除されているとは言え、慣れない生活の中で二時間余りの自習時間を創るのは大変な事で、炊事の苦手な男子は食堂で夕飯を摂っていた。


会社の規定では病気等による一年以内の留年は認められているが、学業不振やレポートの未提出による留年は認められていない為、日曜日も自習室に籠ってレポートと薫陶する者も少なくなかった。


里子と敏子の日曜日は、洗濯と掃除で始まり手紙を書き終えると商店街に出向いた。同僚の中には映画館のある街まで足を伸ばす者も居たが、里子はトヨの事を思うとまだ映画を観るような心境にはなれなかった。


トヨからの知らせでは、順一はヤギの世話の他、夕食の支度や風呂焚きもするようになり、有子も順一の尻について手伝いの真似事をしていると言う。


里子は順一の成績が下がる事を心配した。

東京へ行く事を選択したのは自分の為と順一を町の高校に行かせる為で、“お姉ちゃんが仕送りするから、しっかり勉強しなよ”と言い聞かせると、順一は涙を溜めて頷いた。別れの夜、堪らない不安に泣き疲れた有子は里子の布団の中で寝た。


第八節  「学園生」


ヨシコは三日間百合子の通学に付き添って、身の回りを整える傍ら東京を十分に満喫して帰郷した。


美容学院は四年制の通信高校のシステムを取っていたが、実質的には三年で商業高校程度の単位を終了して、四年目は応用学科や実習を行い、在学中に高卒と美容師の資格を取得させるカリキラムを組んでいた。


夏休みと冬休みはそれぞれ二週間で、月~金曜日は普通科目が六時限と専門学科が二時限あって、土曜日は一般教養が二時限と部活が二時限ある。


上期と下期に試験もあって、既定の点に達しない教科が二科目以上あると留年になる。学業に関して言えば、一般の商業高校よりも厳しい状況だった。


従い、百合子も当初は真剣に学んでいたが、学院内でも一際目立つ新入生へのアタックは日々エスカレートし、電車の中で、学院内でも声を掛けてくる男子が増えてきた。それでも伯母の目と誘惑への不安もあって多くの誘いを断ってきたのだが、古風な伯母とでは遊園地も、動物園も、映画館も、喫茶店も、話に聞いたようなトキメキなど得られるはずも無く、百合子の我慢は日増しに限界に達していった。


夏休み前の小雨降る土曜日の午後、百合子は同じクラスの美容専攻の男子生徒二人に誘われて喫茶店に入った。


第九節  「スクーリング」


三ヶ月が経って、里子達実習生はスクーリングに通った。通信制の生徒は毎月のレポート提出の他に、夏季の二ヶ月間、本校に通学して授業に出席しなければならない。


会社はスクーリング期間も給料の他、交通費をも含めて支給するのであるが、会社がそこまでする狙いは、地方工場における中間管理者を育成する為であり、生産現場における高度な技術・技能を若い時期に身につけさせる為であった。


里子達実習生の大半は同じ電車に乗って通学したが、普段は接触しない先輩達を身近にする事は職場とは違った緊張があった。


一週間が過ぎると敏子に声を掛けようと近付いてくる男子が増えてきて、里子は敏子の手を引いて一般客が多くいる車両へ移動した。それでも道すがら声を掛けてくる男子も居て里子はキツイ目を返し、敏子は赤面して俯いた。


スクーリングも中盤が過ぎてお盆が近付いてきた。お盆の五日間は学校も休みになるので、実習生の大半は帰省する。里子は悩んだ末に帰省する事にした。両親を安心させたいのともう一度、順一の進路について真剣に話し合いたかったからで、里子は鞄一杯に土産を詰めて、混みあう列車に乗って帰省した。


赤壁の岩が見えてきて、里子は故郷に帰ってきた事を実感した。山間の小さな集落ではあっても、見慣れた風景は里子の緊張を和らげてくれる。


里子は人一倍負けず嫌いな性分で、敏子と部屋いる時以外は肩を張って過ごしていた。

敏子は、可愛いだけで頼りがいの無いような少女であるが、赤子のような無垢な眼差しと仕草に里子は癒される思いがした。


汗だくで家に着くと順一が居て、ヤギの世話をしていた。里子は汗を拭いて着替えると、早速一学期の通信簿を見た。総合では上位にいたが国語と英語が苦手なようなので、里子は勉強の方法を指導した。 


順一と夕飯の準備に掛かる頃、有子が帰宅して里子にまとわりついた。有子にとって里子は甘えられる母親的な存在でもあった。


山間の夕暮れは早い。順之助は畑から戻ると里子に一声掛けて、採りたての茄子と胡瓜を渡して鶏を潰しに出て行った。


普段は玄関先に置いてくだけの父が、わざわざ台所まで上がって来てくれた。無口な父であるが、里子には痛いほど父の愛情が伝わってきた。


トヨが帰宅すると里子は配膳を手伝いながら東京での暮らしを報告した。トヨの手は荒れ、化粧のない顔は電器会社の同年代の女性より老けて見えた。子供の為だけに、形振りかまわず働き続けてきたトヨを見ると里子の胸は一杯になった。


夕食後、里子は一人ずつ土産を手渡して、順一と有子に小遣いと、トヨには七月までの給料の残りを差し出した。トヨは受け取ろうとしながったが、里子は順一が高校を卒業するまでは仕送りを続ける事を宣言した。


順一が立てた風呂で汗を流して、蒲団に入ると、慣れ親しんだ山間の夜の音が身体に沁み込み、有子の寝息が聞こえてきた。


第十節  「居場所」


百合子は伯母と一緒に帰省したが、話し相手も無い日々に孤独感が増していた。田舎では東京で受けるような羨望の眼も無く、寧ろ蔑視されているように感じられる事が腹立だしかったし、工場から流れ込んで来る繭玉の臭い匂いも服に付くのではと心配だった。此処には居場所が無い、百合子は自分を認めてくれる都会だけが、自分らしく過ごせる場所だと感じた。


二学期に入り、百合子は活き活きと通学した。土曜の午後は伯母に隠れて喫茶店に立ち寄るのが恒例になり、今では先輩の男子や女子とも顔見知りになって、輪の中心に居る事に満足した。

 

第十一節  「年の瀬」


スクーリングが終わって実習生は職場に復帰したが、家電部門の生産が忙しく、生産のスピードについていけない者は容赦無く注意されるようになった。男子に至っては怒鳴られる者も居て、職場の雰囲気は殺伐と化してきた。


里子は持ち前の器量さと集中力で乗り切っていたが、おっとり型の敏子にとっては苦痛な日々が続き、里子は就寝前に作業のポイントをアドバイスした。


年の瀬が近付く頃には、敏子以外にも仕事やレポートの相談に来る者が徐々に増えてきて、里子は新しい生活へ自信を抱いた。


第十二節 「クリスマスイブ」


当初は何人かの男子と喫茶店で過ごしていたが、二歳年上の美容科の先輩が近くの賃貸マンションに住んでいるとの事で、集まりの場は次第に先輩の部屋になった。


クリスマスイブ、その日の午後から学園は冬休みに入ったが、百合子は直ぐには帰省しなかった。一度帰宅して着替えると、先輩の部屋へ急いで出向いた。


クリスマス会には百合子の見知らぬ顔もあったが、既にアルコールの回っている者もいて、場は盛り上がっていた。百合子も雰囲気に飲まれて初めてビールを口にした。


ビールは苦かったが、先輩の造ってくれたジュースのジン割りは色も鮮やかで美味しく気が付くと百合子はベッドの上に居た。隣の部屋からは話し声も聞こえて来ない。


薄明かりの中ドアが開き、バスタオル姿の先輩が入って来て百合子の上に覆いかぶさると、左腕を頭の後ろに回し、右手で顔を押さえるようにして百合子に口付けをした。


百合子は下半身に押し付けられた、硬くなった男の物に驚きと期待感を抱きながら暫くは呆然としていたが、ブラジャーがめくられて乳首を舐めまわされると恥じらうように声を上げて体をくねらせた。


百合子は先輩に付き添われて帰宅したが、伯母に声を掛けただけで二階に上がった。酔いが覚めた下半身には、痛みと先輩の一物の感触が残っていた。


翌日、百合子は帰省した。面白味の無い田舎ではあるが、昨日の余韻が未だ身体の芯に残っていて、独りでいても満たされているような、何か、不思議な気分だった。ヨシコは百合子の身体の変化を感じたが、寧ろ若い肉体を羨ましく思った。


第二章  「二年目の春」

第一節  「無垢な少女」


二年目の春、里子は指導員に選ばれて後輩の世話をした。その間、敏子は食事の支度などをして全面的に里子を助けた。同じ部屋で一年間寝起きを共にすると、姉妹とは違った姉妹以上の感情が培われる。一年の月日は、敏子をも逞しくしていた。


指導員の担当を終えて、里子は我武者羅に仕事に対峙した。一年目は周りを気にしての作業だったが、里子の性分は実習生としての扱いを相容れなかった。


二年生になるとサークル活動の勧誘やレクレーションに託けて、敏子に言い寄る男子が増えてきたが里子は敏子をしっかりガードした。無論、里子とて白馬に乗った王子様との出会いを夢に描いていたが、仕事でさえ異性には近付き難く未だ恋愛には程遠い無垢な少女だった。


精神的にも時間的にも余裕が出来て、休みの日には都心の映画館や遊園地等にも行けるようにもなったが、里子はその都度家族の事を思い、申し訳なさが先立った。そんな思いもあって里子は我武者羅に働き、気が付くと二年の年月が過ぎていた。


第二節  「絶頂と不安」


一度身体を許して以来、先輩は会う度に身体を求めて来たが、幼い頃から培った領分で百合子は男子をあしらうのには慣れていた。

それでも月に数回は身体を許していたのだが、百合子自身は性的な喜びを感じる事は無く、交際を留めるための最低の範囲だった。


先輩の家は郊外で大規模な美容店を営んでいて、都心への展開も計画しているとの事で羽振りも良く、百合子には好都合な相手であったが、その先輩も間もなく卒業する。


その日は学期末の試験があって授業は午前中で終わり、今後の交際について話があるとの事で百合子は学校の帰りに先輩の部屋に寄った。


玄関のドアを開けて入ると居間に姿は無く、隣の部屋で人の気配がした。百合子は薄暗い寝室で服を脱いで、驚かすような仕草で背後からベッドに滑り込んだ。先輩は振り向きざまに覆いかぶさり、右の足で百合子の足を開いて下半身を入れてきた。


体格と雰囲気から直ぐに先輩とは違うと感じたが、手馴れた動きに百合子の肉体は声と裏腹に幾度も絶頂を感じた。男が出て行く音で我に帰り、薄明りで下着を探して身につけようとしたが手足は震えていた。騙された惨めさと行為の余韻に震えながら、百合子は夢中で電車を乗り継いで帰宅した。


伯母が玄関前に居て驚きと怪訝そうな顔で立ち竦んでいたが、百合子は言葉も掛けずに風呂場に駆け込んだ。下部に残る痛みと避妊具を用いなかった不安と初めて感じた絶頂とが入り乱れて動揺を大きくしていた。


火曜日、百合子は終日ベッドの中にいて、

夕方近くヨシコが上京して来た。階下から伯母の強い語気が響くのと同時に、ヨシコが階段を上がって来て百合子の好きなパンと飲み物と怪しげな薬を手渡した。


翌日の朝、生理らしき兆候があった事を告げると、ヨシコは出来るだけ早く伯母宅を出たいとの事で、百合子に荷造りを命じた。

ベッドや机は伯母宅の物で、荷造りは直ぐに終えた。ヨシコがダンボールを抱えて戻り、

箱詰が済むや否や叔母への挨拶もしないままタクシーでホテルに向かった。


タクシーは学園がある街の隣街に停車し、

荷物をおろしてくつろぐ間もなく二人は部屋探しの為にホテルを出た。都会は便利なものでアパートを斡旋する店舗も直ぐに見つかって、ヨシコは紹介物件の幾つかを検分して契約した。


ホテル近くのレストランに入ると、街の明かりが灯り出した。山間の寒村には無い、淡い灯が闇の深まりに連れて魅惑の炎に染まって行く。ホテルに戻ると、ヨシコは総一郎に電話を入れた。


木曜日、百合子はホテルから学園に行ったが、卒業式は昨日で先輩の姿は既に無かった。然し、百合子は、どんな形であれ性的な絶頂を経験したことは女性として成長したように感じた。


ヨシコは百合子の着替えをベッドの上で羨ましく眺め、見送った後も長い間鏡の前でうつろいだ。十代の若さは持ち合わせていなかったが、胸もウエストのくびれもヒップの張りも、大人の女性としての自信はあった。


ヨシコは百合子の新居を学園から歩いて二十数分の距離で、駅にも商店街にも近い、歩いて生活が出来る便利な場所に構えた。学園の帰りにアパートに寄ると、部屋は掃除が済んでヨシコは買い物のメモを取っていた。


ホテル方面へ戻りながら家具や電気製品を見て歩き、昨日と同じレストランに入った。

部屋に戻るとヨシコは先にバスに入り、ホテルの浴衣にドテラを羽織って階上にあるバーに出向いたが、百合子が髪を乾かしている時分にはほろ酔い気分で戻って来た。


金曜日、学園の帰りにアパートに寄ると、家具類が置かれカーテンも掛けられていて、部屋らしくなっていた。衣類も運ばれていて、ヨシコは季節外れの衣類を整理していた。


ホテルに戻り、その日もヨシコは階上のバーに出掛けて夜更けに戻って来た。百合子は未だ起きていて小声で尋ねると、ヨシコは少女のような笑顔を返した。


土曜日はテレビと冷蔵庫と洗濯機が取り付けられて、生活の準備は全て整った。電話も月曜日から使用出来るとの事で、テレビのつけ方、冷蔵庫の使い方、洗濯の仕方等一通りの説明を受けた後ホテルに戻った。


その夜、ヨシコは戻って来なかった。翌朝、百合子は浴室からのシャワーの音で目が覚めた。外は白みかけていたが、カーテンを引いた部屋は薄暗く、ヨシコは着替えた下着を紙に包んでごみ箱に捨てると直ぐに寝入り、

百合子も新しい出会いを夢見て寝入った。


日が昇り、ヨシコは慌てて着替え、眼の下に出来た隈を懸命に化粧で薄めた。百合子が茶化す素振りで鏡を覗き込むと、ヨシコは自慢気な顔をした。勿論、お互い総一郎には告げるはずも無く、それは暗黙の結託であった。二人は朝食も撮らず、上野駅へ向かった。


ヨシコを見送った後、百合子は急激に孤独と空腹を感じ、アパートに戻る頃には薄っすらと涙を溜めていたが、憂いのある横顔と透き通った白いスリムな身体は、通りすがりの若い男性には大いなる魅力であった。


第三章  「四年目の春」

  第一節  「進学」


四年目に入って、里子は品質保証部に転属になった。異例の抜擢であったが、里子の集中力と探究心は検査員に的確だった。敏子は我が事のように喜び、共同生活は敏子が主体となって里子をフォローした。


順一は今年から街の高校に通っている。自転車で一時間程の道のりであるが、復路は上り坂が何箇所かあって歩く事が多くなる。

変速付きの自転車を購入したとの事だが、砂利道なので雨の日や雪の日はかなり辛い。三年後には有子の番になるが、有子にはバスで通わせてあげたいと里子は思った。


街の高校は県立で普通科と商業科を併設していた。市内の普通高校や商業高校と比べるとレベルは低く、国立大に合格するのは僅かであったが、高校を出なければ就ける職業が限られてしまう昨今、倍率は厳しかった。

市内には私立高もあるが、街でさえ私立に行かせられる家庭は稀で、寒村に至っては進学さえ儘ならないのが現状だった。


山間の朝は遅く、空が白みかけても陽はなかなか昇って来ない。夕餉の残り物を食べて順一が制服に着替えて出掛ける頃、有子は炊事をしながらヤギと鶏の世話をして、順之助とトヨが畑から戻ると三人で朝食を摂る。順之助は裏山を開墾して、胡瓜のハウス栽培を始めた。養蚕と重なる時季は、トヨも順一も手伝った。


里子が社員価格で購入した炊飯器とガスコンロ、洗濯機の御陰で朝の炊事・洗濯は大分楽になったが、ガス代が掛かる為、夜は釜戸で薪を焚いた。


囲炉裏にくべる薪、風呂を沸かすのも薪を使う為、順之助は初春に枝を卸し、秋には裏山の杉の木を間引いて薪にした。枯れ枝や枯葉拾いは順一と有子の役目だった。


年の瀬、里子の帰省に合わせて、順之助達は市内に出掛け里子を迎えた。家族全員が市内で集うのは初めてで、有子が市内で買い物をするのも初めてだった。


有子はトヨから進められて通学用のコートとブーツを買った。これまで有子は服を新調した事が無く、殆どは里子のお古であったが寧ろ有子にはそれが自慢だった。


順一も通学用のジャンパーと靴を買い、順之助とトヨの冬服は里子が買った。最後に電気製品コーナーに行って、里子はテレビを注文した。村でもテレビが見られるようになったからだ。


デパート最上階のレストランで食事をして、手荷物一杯以上の幸せをかみ締めながら最終のバスに乗り込んだ。トヨは順之助と並んで座り、家に着くと着替える間もなく、順一と有子は通信簿を里子に見せた。


里子が期末テストの答案用紙も持って来るよう言うと、順之助は囲炉裏に薪をくべながら微笑んでいた。順之助は通信簿の成績よりも、間違えた箇所を見直すように里子に教えてきたからで、中学生になってからは里子が順之助の代わりをしていた。


順之助とトヨは怒った事も、大きな声を出した事も無かったが、何の為に身を粉にして働いているのかは子供心にも十分に伝わっていて、里子は両親に心配を掛けないように、負担を掛けないように努めてきた。


翌日、テレビが据付けられて、アンテナの工事が始まると近所の人が集まってきた。紅白歌合戦が始まる頃には子供連れで土間は埋まり、里子達の居場所が無くなった。年が明けても、年始の挨拶やテレビだけを見に来る人が居て、賑やかな正月になった。


会社に戻ると引越の準備が待っていて、慌しさが日々増して行った。卒業と同時に寮を出なければならない為で、二人はアパートを探して引越の準備をした。


地方の工場に再採用されて地元に戻る予定の者も居たが、里子と敏子の地元へは未だ工場が進出していなかった。


卒業式を挟んで送別会が続き、休日に引越をした。アパートは商店街奥の図書館の近くで、会社までは歩いて二十分の場所だった。住宅街の二階屋で、一階には家主さん家族が住んでいる。道路に面して八畳の居間と寝室が連なり、玄関を入って左にトイレと風呂場、右に台所がある。商店街を行き来して夕方近く、ようやく部屋の整理を終えた。


会社から引っ越し代が支給されて、二人で折半して小型のテレビ、冷蔵庫、洗濯機を購入し、寝室はカーテンを吊るして二分した。同期の男子達は勿論の事、女子も様々な理由で一人住まいをする者が多い中、二人は是まで通りの共同生活を選択した。里子にとっても、敏子にとっても、四年の歳月は初めての出会いを一層強く結んでいたからだった。


里子は会社からの推奨で、四月から通信大学へ進学する。品質保証の業務にはそれなりの知識が不可欠であり、里子もそれを痛感していたが、忙しい時に職場を抜ける事の引け目を感じて一度は辞退した。然し、上司からの再三の説得と敏子の薦めもあって進学を受け入れた。通信大学の推奨は男女一名ずつで、同室の里子が選ばれた事が敏子には心底うれしかった。


里子は進学を決めてから手紙を書いた。順之助は喜んでくれたが、トヨは婚期が遅れる事を心配した。


第二節  「ホテルのバー」


百合子は、兼ねてから目をつけていた後輩を部屋に誘い入れた。不良っぽさはあるが、未だあどけなさが残るデザイン科の二年生で、花柄のレースの掛かったソファーに並んで腰を掛けると男の子の動悸が伝わってきた。


百合子は手を取って肩に回させると動悸は更に激しくなり、百合子を引き寄せようとしたが百合子はサラリと立ち上がり寝室へ逃れた。後輩は着いて来て後ろから百合子を抱きしめたが、荒い息が髪に掛かるだけで手は止まったままである。百合子はゆっくり振り向いて、両腕を首に絡めて唇を合わせた。


下腹部で後輩の一物が勃起して、後輩は慌ててトイレに駆け込んだ。百合子がしょげる後輩を優しく抱しめると後輩の一物は再び元気を取り戻したが、百合子は後輩を送り出した。時間を掛けて男性の身体を探索したかったからで、その後も後輩は百合子の中に挿入出来ないまま不満足に帰る日が続いた。


百合子は数ヶ月を費やして一通りの試みを終えると、次は後輩に自分の身体の探索をさせた。若い肉体の欲望は果てしなく二人は朝から食事も忘れて求め合ったが、後輩は百合子の身体を知り尽くすと急に離れていった。


百合子よりも年上の女性と交際しているとのことだが、百合子には怨む気持ちも以前のように孤独を感じる事も無かった。唯、若い男の子の愛らしい想い出だけが残った。


クリスマスイブの夕方、百合子は大人びた化粧をして隣街のあのホテルのバーに入った。店内は薄暗く、テーブルの上のランプが微かに顔の輪郭を浮き出していた。


客は二人連れと一人連れの三人だけで、百合子が入り口近くのカウンターに座って飲み物を注文していると、早速、二人連れの一人が近寄って来て同席を申し込んで来た。百合子は黙って首を横に振った。


グラスに付いた口紅の跡を見つめていると、そっと肩に手を掛けて一人連れの中年の男がダンスを申し込んで来た。百合子は踊れないと言ったが、男は百合子の腕を静かに持ち上げた。


百合子は手を引かれながらフロアーに立ち、懸命に足を動かした。二曲目にはコツが呑み込めて、男の動きに合わせられるようになった。


男は百合子を自分のテーブルに誘って飲み物を勧めたが、つまらない詮索はしなかった。グラスを飲み干して、又フロワーに立った。ほろ酔い気分も手伝って、百合子は全身を男に委ね、男は片方の手を腰に回し、徐々に

百合子の下腹部に圧迫を加えてきた。


百合子は男の胸に顔を埋めて欲望を隠し、男は百合子の左腕を取って自分の首に絡ませると、ブラウスの上から百合子の乳首に触れてきた。百合子は身体を捩り、唇を噛み締めて堪えた。頃合を見て、男は百合子の肩に手を回してバーを出るとエレベータで二階下の客室で降りた。


部屋はシングルルームで、服掛けにはスーツの上着が掛かっていて、その下には旅行鞄が置かれていた。男は百合子のコートを掛け、慣れた手つきでブラウスのボタンを外し、スカートを脱がせて椅子の上に掛けた。


男は百合子を後ろから抱き締め、巧みに下腹部と乳首を弄った。百合子は立っていられなくなってベッドの上に伏せた。


百合子は心地よい絶頂から覚めると、アルコールも体内から抜けて爽快な気分だった。着替えを終えると、男はタクシー代と言って二万円を渡した。百合子はそんな気は無かったが、黙って受け取った。


学期末、同級生の大半は既に学科、実技の両方にパスしていたが、百合子は未だ実技の試験にパスしていなかった。放課後、居残りをして実習に励んだが、とうとう実技にパスしないまま卒業式を迎えた。


卒業式にはヨシコが来たが美容師の資格を得られなかった百合子の進路については、学園から紹介された隣街の美容院で見習いとして働きながら次の実技試験に臨むことになった。


第四章  「五年目の春」

第一節  「敏子の恋」


里子と敏子の新生活は、早く帰宅した方が夕食の準備をして、遅い方が後片付けをした。二人とも遅かった場合は、風呂は沸かさずに湯浴みだけにした。大概は里子の方が遅く、敏子に負担を掛ける日々が続いたが、スクーリング期間中は里子が夕食の準備をした。


スクーリングは、都心に近い本校の講堂で行われた。電車での行き帰りは同期の男子と同席する事が多く、敏子に度々冷やかされたが、里子は苦手な理数系の復習をする為に聞くだけで、例え並んで座ったとしても異性としてのときめきは感じなかった。


休日は部屋中に洗濯物を乾し、掃除をしてから買い物を兼ねて外出するのが常だったが、秋晴れの午後、買い物を終えると二人は快い風に乗せられて自転車で図書館裏の森林公園へ出向き、更に公園の先にある河川へ足を延ばした。土手の坂を上がり川下に向かって敏子の後から走っていくと、河川敷でラジコン機を飛ばしている一遇に出会った。


通り抜けようとした瞬間、敏子は顔を上げた男性と眼が合って自転車を止めて会釈した。業務用電化機器に携わり、バドミントン同好会リーダーの昇先輩だった。


敏子は手招きに応じて自転車を引いて降りようとしたが、傾斜が急で脚が進まなかった。先輩は見かねて、ヘリのエンジンを止めて助けに来てくれた。続いて里子の自転車が担がれたが、里子は男性に対して極度に内気だった敏子の豹変に驚いた。


先輩は再びヘリのエンジンを掛けて、プロペラの回転を上げた。ヘリは浮き上がり、高く舞い上がった。ヘリは一台だけで、他の人達はプロペラ機を適当な間隔を保って飛ばしていた。敏子はヘリよりも先輩の顔に見入り、里子は初めて見た敏子の一面に驚いた。


帰宅すると敏子の口数はめっきり減り、顔を覗き込むと敏子は顔を赤らめて目線を避けた。敏子の恋の始まりだった。


次の日曜日も秋晴れで、何時になく敏子は朝からてきぱきとこなし、午後は一緒にサイクリングに行く事を哀願した。


敏子は初めて購入した口紅とパウダーに悪戦苦闘した後、河川敷に出掛けた。秋空に弧を描いて飛び回るヘリを見つけるとその目は輝きを増し、里子を置き去りにして一点に向かって走って行った。


雨の日曜日は敏子の敵だった。恨めしそうに雨を睨み続ける敏子に、里子はバドミントン同好会への加入を勧めた。敏子は帰宅が遅くなる事を気にして渋っていたが、昼休み、里子は敏子を連れてバドミントン同好会のある部室を訪ねた。先輩は居なかったが女子の来訪に室内は熱気に沸いた。とは言っても、里子は名前だけの加入だった。


入部以来、日曜日のサイクリングは無くなったが、その分、午後の時間は長くなり、恋の刹那さは里子の存在をも薄くした。経験の無い里子は見守るだけで、一日も早く敏子の初恋が成就する事を願った。


残業の無い日はバドミントンで帰宅が遅くなる度、敏子は申し訳ない顔をしたがこの間までの幼さは薄れて、はじけようとするつぼみの香りと輝きが浮き出ていた。


バドミントン部は久々のとびっきりの女子の加入で活気付いたが、ある日、敏子はよからぬ先輩の口車に乗って丈の短いウェアーを着て練習に出た。


次の日、里子が帰宅すると敏子は電気も点けずに泣いていた。先輩から睨まれたとの事で、夕食も摂らず夜通し泣き伏せていた。


翌朝、声を掛けると会社に行けないとの事で、里子は敏子の休み届出と先輩に会う為に早めにアパートを出た。恥ずかしさも忘れて自転車置き場で待っていると先輩がバイクに乗ってやって来た。


先輩は里子の顔から素早く事情を飲み込み、アパートの住所を尋ねて礼を言った。里子は先輩の誠実な対応に安堵して、涙を拭きながら職場に行った。


夕方、疑心暗鬼で帰宅すると、部屋の明かりが点り換気扇から湯煙が立ち上がっていた。里子は階段を駆け上がり、ドアのノブを回した。敏子はガスの火を止めて里子に礼を言おうとしたが、涙が止めどなく流れ落ちて言葉にならなかった。


昼休みに先輩が来た事、パジャマ姿で出たので後で恥ずかしかった事などを断片的に話すだけで、肝心の事は恥ずかしがって何も言わなかったが敏子の様子から想像は付いた。


姉妹以上に助け合って生活を共にしてきた里子にとって、敏子の動悸の高鳴り、敏子の恋の刹那さは里子の胸を締め付け、敏子の幸せは里子の幸せでもあった。


敏子に言い寄ってきた男子の数は、本人よりも里子の方が覚えている。敏子に不適と思われる全ての男子を、里子はことごとく蹴散らして来たからだ。先輩との出会いはその隙も無く、里子自身も何か違うものを感じた。


里子の職場でも敏子の長い白い足が話題になって、わざわざ見に行った男性も少なからず居たとの事、それだけ敏子の容姿は同性の里子からみても魅力的だった。可愛だけの少女が、今や工場中のアイドル的存在になっているらしい。


里子は寝る前に茶化してみたが、もう誰に何を言われても平気な様子で、敏子は先輩の夢に抱かれて寝入った。


日曜日の午後、階下からバイクのエンジン音が心地よく聞こえ、薄化粧した敏子が軽やかな足取りで階段を降りて行った。遠慮がちに後ろに座った敏子に玄関から手を振ると、先輩は里子に気付いて爽やかに挨拶を返して走り去った。


余韻に酔う暇も無く、里子はレポートと工程表の作成に取り掛かった。内示があって、里子は来春から班長に任命される。実習生は一般の社員より昇進が早く、一期生の約二割が班長になっていたが、二期生には未だ数名しかいなかった。まして品質保証部門の班長である。荷は重いが、里子は班長になったら実行したい事があった。


その日、敏子は夕食の準備の前に戻り、里子は早い帰宅を案じたが、先輩の家に行って両親に紹介されたとの事。先輩の顔を見て声を聞ければ、唯それだけで敏子は幸せだったが両親の前で結婚を前提にと言われた瞬間、敏子の頭は真っ白になったとの事。恋愛の先には結婚がある訳だが、敏子は初恋故にそこまでの考えは持ち合わせていなかったのだ。


冷たい雨の降る日曜日、敏子は準備をして待っていたが、あの日から雨を恨む気持ちは小さくなった。会いたい想いと、会えなくても敏子の中にはいつも先輩が居て、先輩の伴侶になるべく涙ぐましい努力の日々が続いていた。


掃除の仕草、洗濯物の干し方、たたみ方が変わり、料理の本を購入して苦戦していた。

里子の後から歩んでいた敏子が、今では里子よりも数段大人のように見えてきた。里子は敏子の変貌に、自分も恋をすれば変わるのだろうかと困惑した。


成人の日の朝、里子と敏子は夜明け前に起きて同じ美容院に行った。里子は貸衣装であったが、敏子は式の後先輩の家に挨拶に行くとの事で新調した。里子は敏子に言われて前髪をカットして、初めて口紅も付けてもらった。眼を開けると鏡の中には自分ではない自分が居て、里子はドキッとした。


着付けが終わって、慣れない草履にもたつきながら会社に出向いた。市公会堂での式の後、社内でも祝いの席がある為、会社は貸し切りバスを用意していた。時間には未だ早かったが、一般社員に混ざって同期の大半は集っていた。めったに話す機会が無い同期生との会話で正門は騒然となったが、先輩方が出勤する時刻になると静けさを取り戻した。


係員が来てバスに乗る為に整列していると、何人かの男性が奇声を上げて通り過ぎて行った。敏子は小声でそれが里子に向けられた感嘆の声だと言い、里子は顔を赤くした。


公会堂での式が終わり会社に戻ると、里子は「誓いの言葉」の打合せの為応接室に入った。来賓の祝辞の後、里子は男子の代表者と二人で宣誓を述べた。


会食は立食で、工場長以下各部課長が出席した。会食会が終わると一時を回っていたが、各部課長の引率でそれぞれの事業部に向かった。集会所には既に事業部の全員が集まっていて、里子達が入ると拍手が響き、シャッターが押された。


この日の主役は女子で、中でもカメラは里子に注がれた。男勝りの里子の変貌に、男子に限らず女性陣からも感嘆の言葉が発せられたのだが、里子自身は皆が自分を茶化しているように感じた。


一人ずつ、簡単な挨拶を求められても、里子は恥ずかしさの余り言葉にならない。逃げるように棟を出た途端、今度は他の部署の男子が待ち構えていて里子は泣きべそをかいて正門に向かった。


正門には敏子が居て迎えの車を待っていたが、事情を告げると敏子は珍しく大声で笑い、里子には信じられない言葉を発した。


道路の反対側に車が止まり、中から和服姿の婦人が降りて来て挨拶した。敏子に紹介されて、里子も我に戻って挨拶した。先輩のおかあさんは敏子の手を引いて、一緒に後ろの座席に乗り込んだが、車が去っても里子は暫く呆然としていた。可憐な敏子の着物姿と、敏子の残した言葉が耳に残って居たからだ。


気が付くと後ろから同期の集団が追い着き、里子は我に返って一緒に写真館に向かった。写真館は混雑し、撮り終えて美容院に戻ると待ち合わせの時刻が迫って来る。着物を脱いで化粧を落としている間、未だ里子は敏子の残した言葉を思い出していた。


今まで女の子らしい格好、仕草をする余裕など無かった。それはトヨも同じで、里子は今度帰郷したら母に着物を買ってあげようと思った。


彼氏の居ない女子だけの宴会だったが、敏子が言ったように里子の着物姿は評判だった。半信半疑であっても、同期からの褒め言葉は素直にうれしい。


敏子は帰宅していて(先輩は急に残業が入った為、着物姿を見せられず)しょげる言葉とは裏腹に、目は喜びで輝いていた。年内に結納を上げたいと言われたとの事。


翌日正門をくぐると、里子に対する男子の見方は明らかに変わっていた。それほど里子の着物姿が強烈だったのだが、然し、以前の里子もそこに居て年長者は声を掛けるものの年頃の男子は遠巻きに見ていた。


第二節  「初老の紳士」


言われた時間に、百合子は隣街の美容院のドアを開けた。入った瞬間、百合子は自分が場違いな所に来たと感じた。そこには見るからに田舎出身の見習いや従業員が並んでいて、百合子の嫌いな匂いがあった。


紹介後、早速掃き掃除を言いつけられ、その後は鏡、洗面台、椅子、待合室の吹き掃除が続いた。開店後はカールやタオル洗いで、百合子は下働きの従業員と同じように、卑下されるように見られる恥ずかしさに身震いし、昼食を待たずに黙って店を出た。


暫く歩いて目に付いた喫茶店に入った。準備中で客は居なかったが、店長と思しき男性が百合子を手招きして席に座らせた。カウンターから、女子従業員が百合子の様子を伺っている。店長がコーヒーを運んで来て百合子に話し掛けた。夜はスナックをやっているとの事で、夜のアルバイトの勧誘だった。


タクシー代を出すとの事で、翌日の夜、百合子はタクシーに乗ってスナックに行った。店内は雰囲気が一変して客が何人か居た。昼から来ていた女性は、百合子と交代して帰宅した。とは言っても、百合子に作れる物は無く、店長がカウンターの中に入り、百合子は言われた通りカウンターと客席を往復するだけだった。閉店の時刻が来て、百合子は店長から日当を受け取ってタクシーを拾った。百合子は、此処ならやっていけると感じて眠りに就いた。


百合子の加入でスナックは日増しに客が増え、カウンターと客席の行き来が頻繁になった。店長の顔には笑顔が見え慰労の言葉が増えたが百合子には苦ではなかった。名前を尋ねられて声を掛けてくる客が増える度、居心地は良くなり、寧ろ、適度の疲労感は百合子を安堵させた。


店長は女子従業員には内緒との事で日当を増やしてくれたが、それも百合子には問題では無かった。小遣いを含め、部屋代等は全てヨシコが振り込んでいた為、頂いた日当は小物入れから散乱していた。


百合子は、日を増す毎に自分の居場所が此処である事を確信した。休日の前夜、店長は百合子をホテルに誘い、誘いは毎週のようになった。従業員と思った女性は奥さんである事が分かったが、百合子にはどうでも良く、身体が通じ合った分、店での動きに無駄が無くなった。


店は百合子目当ての客が増え、百合子が同席すると客席は盛り上がり、注文が追加された。百合子の容姿と若さは客寄せにも適格であったが、百合子はこういった場での男性の取成し方に慣れていて言わば天職だった。


奥さんの目付きが変わって店長の腰が重くなって来ると、百合子は閉店直後に客の一人と店を出た。百合子を抱きたい客は、閉店まで粘るのが暗黙の条件になった。


秋風の吹く日、妙な客が来た。初めての客で、見るからに社長風の恰幅の良い男性とその連れである。連れは運転手らしく、アルコール類は一切口にしなかった。帰り際、百合子は運転手から封筒を受け取った。万札と電話番号らしいメモが入っていた。メモを渡す客は大勢居て、チップをくれる客も何人か居たが万札は初めてだった。


翌日の午後、百合子は半信半疑でダイヤルを回した。呼び出し音が鳴り、昨夜の運転手が出た。黙っていると向こうから丁寧な口調で名前を呼ばれ、夕方、ホテルで会いたいとのこと。一流のホテルである、百合子は相応の身支度をする為、急いでデパートに出掛けた。


タクシーはホテルの玄関に止まった。眩いロビーを百合子は背筋を伸ばして進み、フロントと反対側のエレベータの前で一息ついた。大理石の柱は百合子が長年夢見た装いを映し出していた。エレベータを出て、厚いじゅうたんを踏み締めながら部屋を探した。ブザーを押すとロックの外れる音がしてドアが開き、ネクタイは取っていたがきちんとした身なりの紳士が立っていた。


スイートルームの窓際には食事が用意されていて、百合子はコートを渡して席に就いた。鉄板の蓋を取ると、小振りのステーキが音を立て、彼はサイドテーブルのポットから慣れた手付きでスープを注いだ。レースのカーテン越しには東京タワーが写っている。


会話は穏やかで、口数も少なかった。それは仕事疲れと言うよりも、百合子の一挙一動を観察している為だった。食後、シャワーを勧められて百合子が立つと、彼も立ってベッドルームへ案内してくれた。クローゼットには二組のバスローブとガウンとパジャマが揃えてあり、百合子は彼の見ている前でイヤリングを外して服を脱いで、バスルーブを羽織った。


洗面所にはブランドの化粧品が揃えられ、浴室には二人が入れるような大きなバスと、シャワールームが独立してあった。百合子が香水を付けて出ると、彼はガウン姿で水割りを飲んでいた。百合子も勧められてシャンパンを口にした。テーブルは片付けられていて、カーテン越しに東京タワーのライトが鮮やかに浮き上がっていた。


彼は対面のソファーに座り、静かに百合子の唇や、胸元やバスルーブからはみ出た膝に目をくれるだけで、百合子に触れて来ない。三杯目を注ごうとした時、百合子は彼の手を取ってベッドルームに導いた。明かりを薄暗くして、百合子は全裸でベッドの上で眼を閉じて横たわった。


しばらくしてベッドがたわみ、彼の息遣いが近付いて来た。百合子は彼の手を探り捕り、自分の頬へ、唇に、胸に触れさせて手を離した。彼の指は震えて動かなかったが、百合子は愛おしい少年を抱くように彼の顔を引き寄せて胸に埋めた。


夜遅く、二人でバスに入り、百合子は彼の腕枕の中で満足な眠りに落ちた。翌朝、目が覚めるとイヤリングの下に封筒が有り、店で貰う四・五ヶ月分の現金と短い手紙が添えてあった。百合子は用意してあった朝食を食べて、昼近く部屋を出た。今夜は店に出るつもりだった。お金に苦労する事も無く育った百合子にはお金よりも自分を認めてくれる、心地良い居場所が不可欠だったからだ。


彼は決まって週一の間隔で上京して来た。

その都度、いろいろな国の料理が準備されていて、食材やら食事のマナーやその国の様子等を話し、ダンスも教わったが、ベッドの中では百合子が教師であり、大概は百合子が上になって彼を導いた。セックス的には面白味は無かったが、育ちの良い振る舞いは百合子が学ぼうと望んでいたものだった。


店長との関係は終わり、客と同伴で帰る日が続いていた。休みも増えて店長は苦々しく思ったが、更に日当をアップして百合子の慰留を図った。お金は増える一方で、百合子は新たに通帳を作った。


年の瀬、ヨシコから電話があって、百合子は上野駅まで迎えに出た。ヨシコは百合子が夜に部屋に居ないことと、通帳の残高が減らない事情を聞くつもりだったが、百合子の研ぎ澄まされた美しさに驚き、部屋に入って更に驚愕した。見るからに高額な洋服が部屋中に無造作に散乱していて、百合子は成功したのだとヨシコは思った。


百合子はヨシコの為にホテルでの食事と部屋を予約した。食事をしながら、美容師見習いを辞めた事を初めて話した。総一郎が知ったら直ぐ戻れと言うだろうし、スナックに出ている事を知ったら激怒する事は明らかだった。どう考えても総一郎を説得する術は無い。開き直って“好きな人が出来て、交際中である事にしたら”とヨシコが言った。


ヨシコの見識では、それはスナックでの働きでは手に入らない生活であり、洋服の趣向も水商売等のそれとも違っていた。余程金持ちのパトロンに出会ったのだろうか。ヨシコが根掘り葉掘り尋ねても、百合子は相手の素性を明かさなかった、明かそうにも、未だ素性を知らなかったからだ。


年が明けても百合子は東京に居た。年末迄店に出て、三が日は客の一人と小旅行に出掛けていた。明日は彼が上京して来る。今回は二泊の予定だった。部屋のブザーを鳴らすと、スーツ姿の運転手がドアを開けた。彼は目でソファーに腰を下ろすよう指示し、百合子と運転手はテーブルを挟んで腰を降ろした。


運転手は義務的な口調で話しを進め、小切手を差し出して部屋を去った。彼はソファーから立ち上がり、食事の注文をした。翌朝、百合子は彼と時間を置いて部屋を出て、彼の車に乗った。運転席の後部座席は厚いガラスで仕切られていて、運転手の姿はぼやけていたが、彼の別な一面がそこにあった。


車は地下の駐車場に入った。部屋まで小型のエレベータが直結していて、ドアが開くとそこが玄関だった。広いリビングの窓からはビィルの谷間越しに東京タワーが見えた。運転手が入ってきて、住み込みのおばさんを紹介して各部屋を案内させた。


リビングの奥には廊下を挟んで部屋が三つ並んでいて、寝室を挟んで百合子と彼の部屋があり、寝室と部屋は内ドアで繋がっていた。リビングに沿ってキッチンが有り、その奥には両側に浴室とトイレがあったが左側が百合子の使用する浴室とトイレでとの事だった。又、玄関の脇にも部屋が二つ有って、その一つはおばさんが使用する。


百合子の部屋には未だ何も無く、入用な物を揃える為、百合子は早速、運転手を伴ってデパートに出掛けた。


後部座席の肘掛にもたれ、ハンドバックから小切手を出して金額を確かめた。おそらくサラリーマンの年収分に相当する額なのであろう。この他、月々の手当てを受け取る約束で、百合子は彼の条件を受容れた。


夜は階下のレストランから食事を運ばせた。高級感は落ちるが味と質は十分で、このマンションを選んだ条件の一つだった。彼の上京の機会が増え、ホテル住まいでは不便な事と人目を避ける為でもあった。


翌日、百合子は小切手を預金してアパートから服を運んだ。夜はマンションに居る事が条件な為、アパートは不要な訳だが、今、総一郎に知られるのは時期尚早と判断して、アパートの電話もそのままにした。


昼も長い、夜も長い、彼を待つだけの長い一日が始まり、彼が来た日はおばさんの目もはばからず彼を求めた。


第五章  「六年目の春」

第一節  「最後の共同生活」


班長に任命されて、里子は検査工数と不良率の削減に取り組んだ。工数の削減は検査員を適材適所に入れ替える事によって一応の結果を出したが、不良率の削減に関しては未だ結果が得られなかった。男勝りとは言え、やはり女性である。不良の原因が電気的又は機械的要素が絡んだ場合、男性のようには機械の動作原理を理解する事が出来なかった。

 

スクーリングが始まる前に結果を出したくて、里子は毎晩取説を持ち帰って研さんした。その為、レポート提出が遅れがちになり、みかねた敏子は家事の大半を担った。敏子と先輩のデートは休みの日に限られていて、先輩の家で過ごす事が多く、里子を気遣ってか夕食前には帰宅した。


結納は九月に決まったが、二人の交際を知らない者も居て、未だ敏子に声を掛ける男性は後を絶たなかった。


不良率は技術部門の健闘により激減し、その他、冶工具等の改善等も有って、担当する工程の品質及び生産性は明らかに向上し、里子は心残り無くスクーリングに参加した。


スクーリング期間中の休日、里子は敏子と旅に出た。敏子にとっては独身最後の旅行で、里子との最初で最後の二人旅だった。


季節外れの旅館の部屋で、思い出話は走馬灯のように駆け巡り、あの日に戻った。男性から逃げるように里子の後ろに隠れていた敏子が、止める間もなく土手を駆け下りて行ったあの日である。


先輩は職場や部活でも人望が篤く、二年前に班長に任命されていたが、敏子が何時から先輩に恋心を抱いたのか、里子には見当が付かなかった。


里子は浴衣に着替えた敏子を座布団越しに押さえ付け、先輩との馴初めを問い質すと、敏子は座布団の下からぽつりと口を開いた。


敏子の一目ぼれだった。精悍な顔立ちをした男性が短パンに半袖姿で“さようなら”と一声掛けて走り抜けた時、敏子の頬は涼風を感じ、夕日に染まった逞しい胸元に敏子は胸を熱くしたとのこと。


大浴場も露天風呂も貸し切り状態で、二人は大胆に手足を伸ばして温泉に浸かった。薄っすらと白濁した湯面に、里子の肉付きの良い乳房が揺れた。敏子は自分の幼い乳房に手をやってため息を付く。


敏子の透き通った白い肌は未だ生娘であったが、間もなく先輩の腕に包まれて紅に染まるのかと思うと、里子は取り残されたような寂しさを感じた。その夜、二人は久し振りに手を繋いで寝た。


初秋の連休の早朝、敏子は先輩と先輩の両親を伴って実家に帰える。迎えの車が来て里子が階段を降りて見送ると敏子は人目を憚らず大粒の涙を落とした。結納から戻ると、敏子は先輩の家に入る。それは先輩の両親の希望であり敏子も望んでいたのだが、


敏子達が去って、里子はしばらく呆然と涙に濡れた。入寮以来、気弱な敏子を支えてきたように思っていたが振り返えると敏子が居たからやって来られたのだと思った。敏子は身に着ける物以外はそっくり残して行ったが、里子の中にはぽっかり大きな穴が開いた。


里子に声を掛ける勇気の有る男性も居たが、敏子のような熱いときめきには未だ出会っていなかった。同世代が恋愛やサークル活動、海や山にと青春を謳歌している時、里子には会社とアパートの行き来しかなく、大卒の資格を得る事に何の意味が有るのか、自問自答しながら苦闘する日々が続いた。


霙の降った翌日、里子が風邪を引いて会社を休むと夕方遅く、先輩のバイクに乗って敏子が泊まり掛けの看病に来た。


敏子の来訪に合わせて熱はみるみる上がり、里子の身体は寒気で震えた。敏子は里子が汗をかく度、下着を替えさせ、タオルケットやシーツをストーブで干した。


敏子の不眠不休の看病で里子の身体は見る見る快復したが、翌朝、敏子が休みの届けの電話を入れると、里子の上司から感謝の言葉を頂いて敏子も胸を張って休んだ。


久し振りの晴天の下、敏子は里子を寝かせて下着やシーツの洗濯をし、炊事をした。無駄の無い身のこなしはスッカリ若妻風情で目尻も肩も腰つきも大人の女性らしい丸みを帯びていた。


合間に同居生活の様子を話したが、先輩との生活については、何度尋ねても顔を赤くするだけで答えなかった。益して、里子の看病に行くようにと言い出したのが先輩であった事を告げられると、里子は胸が一杯になり、それ以上は訊けなかった。


目が覚めると敏子は夕食に鍋料理を準備して、バイクの音が聞こえると階段を駆け降りるように出て行った。里子は男性の胸に顔を埋める自分を描いて布団に入ったが、実体のない恋心は空しくなるだけだった。


町村合併に伴い村役場は支所となり、順一は町役場への就職が決まった。有子は順一と同じ町の高校に合格した。有子の送迎と通勤の利便性を考慮して順一は中古車を購入するとの事。


人だかりの社内掲示板には、四月から新製品試作チームの編成が公示され、そこには里子の名前もあった。


第二節  「百合子の出産」


何をしても一人ではつまらない。買い物に疲れ、映画鑑賞に飽きて、百合子は前の自分に戻った。それは日中だけであったが、アパートで着替えて遊技場へ足を向けた。一人連れの女、増して百合子の美貌に男は瞬時に群がり、その中から一人又は二人を選んで、その日又は翌日に喫茶店やホテルで会った。噂が拡がる頃には場所を換え相手を換えて時を過ごしたが、時間の制約は若い肉体を満足させなかった。


百合子の身体は除々に丸みを帯び、ウエストが目立って来た。百合子が彼に不満を浴びせると、紅茶を入れに来た手伝いのおばさんが“もしや”と言い、彼は直ぐ知り合いの医者に電話した。


翌日、百合子は彼に付き添われて病院に行った。(彼は車の中で待っていたのだが、)受付で待たされる事も無く直接診察室に入ると、彼と同年代の医者が百合子の下腹部を義務的に診て妊娠三ヶ月を告げた。


予想はしていたが、百合子は動転して思いをめぐらせた。彼以外の時は避妊具を使用していたので、彼の子である事は間違いなかったが一抹の不安があった。彼は喜び、仕事をキャンセルしてにわか医者になったが、結局、付添い人を頼んだ。


医者の紹介で住み込みの看護婦が来て、彼は仕事に戻った。私服姿の看護婦は未だ若く、百合子と気が合った。百合子はようやく落ち着きを取り戻し、ヨシコに電話した。総一郎の激怒は当然だったが、ヨシコは喜んで彼との面談を口にした。ヨシコには世間体よりも実質が第一だった。


彼は上京の機会が増えて部屋に居る時間も長くなると口数も多くなり、日々笑顔が増えて快活になった。子供が居ない事が彼を不安にし、明るさを失っていたのだろう。


もともと性欲の薄い彼は政略結婚して名ばかりの夫婦を演じていたのだが、五十を過ぎ、夫婦の営みが無いところで子供が出来る可能性は皆無だった。然し、歳を増す毎に親戚等のプレッシャーが高まり、そのような最中運転手が百合子に出会った。運転手は彼の遠い親戚でもあり、最も信頼する部下だった。


百合子は看護婦の指導の下で食事や運動に励んだが、お腹が大きくなるに従い動くのも外に出るのも辛くなった。それは照りつける日差しよりも、醜い身体を人前に曝け出す恥ずかしさの為だった。百合子は出来るだけ人目を避けてプールに通ったが、自由に活動出来ない自分に苛立ちが日々高まっていった。


やり切れない不満の矛先を探しても、彼の関心は百合子のお腹であって百合子の愚痴は上の空であったが、彼は百合子の愚痴が増える度にダンスに誘い、小切手を切った。


残暑の中、ヨシコが上京して来た。金の無心である。店の売上がヨシコの小遣いで、足りない分は総一郎から貰っていたが、総一郎は使途に疑念を抱いて渋る事が多くなったとの事。(ヨシコは年々、繭糸の価格が下がっているのを知らなかった。)


ヨシコはホテルのロビーで百合子が車から降りて来るのを待っていた。付き添いの看護婦が席を外すと二人はロビー脇の喫茶コーナーに入った。百合子の身体の心配を余所に、ヨシコは早速金を無心した。百合子は現金の持ち合わせが無いため小切手を一枚渡すと。ヨシコは額面に驚いて言うべき言葉を失った。ヨシコの後ろを歩いて来た百合子が今はヨシコの前に居て、ヨシコは孤独を痛感した。


臨月が近付いて、百合子は入院した。むくんだ身体と初産の不安が増大して、百合子は付き添いの看護婦に当たった。個室に顔を出すのは運転手だけで彼は訪れない、百合子は自分の自由を奪った物を早く出して、元の自分に還る事だけを願った。


その時、百合子は泣き、わめき、死ぬほどの痛みを感じて気を失い、帝王切開が施されて女の子を出産した。


第六章  「七年目の春」

第一節  「新チーム」


四月一日、事業部合同の朝礼がある為、里子は一足早く会場に入った。新製品試作チームの紹介があるので、出来るだけ前に居るようにとの指示だった。例年と異なり、既に半数近い人が集まっていて会場はざわめいていた。里子は、後から来た課長に促されて課長の後ろに並んだ。


工場長、各部長が来場してもざわめきは治まらず、黄色い歓声も聞えていたが、総務課長が壇上に立つと、場内は急に静寂に変わり、工場長の挨拶、人事の発令の後、新製品立上げチームの紹介が始まった。チームは総勢十名で、九番目に里子の名前が呼ばれ、里子は緊張の中で壇上に上がり正面を向いた。


最後にリーダーの名前が告げられると、会場の目は彼に向けられた。彼は足早に壇上に上がり里子の隣に並んだ。会場のざわめきは歓声に変わり、拍手の波に変わった。里子は壇上を見上げた彼の目に出会い、触れる袖を感じて胸が高鳴り、顔がほてった。


製造現場のチームリーダーとして、本社の方が任命される事は稀有だった。又、新製品の試作は大阪の工場で行うのが常で、他工場は大阪で創り上げた製造方法に準じるだけだった。然し、自分達で創り上げた製造方法ではないので、そこには口に出せない不満があった。今般の新製品試作を達成して、「試作は量産工場で実施すべき」との念願を成就すべく事業部は沸き返っていたのだ。


そんなムードの只中に、本社技術部から地元出身の貴志が派遣されて来た。彼は新入社員研修で当工場に来ていて女性陣は勿論の事、男性陣からの受けも良かった。将来の幹部候補生でもある彼に、若い女子社員はときめいていたのだった。


試作現場に近い会議室が、チームの控室になった。貴志が口火を切って、自己紹介が始まった。副リーダーは製造技術部の係長で、その他技術部門、品質保証部門、生産管理部門及び製造部門から選び抜かれた、蒼々たるメンバーが募っていた。女性は里子だけで、知識も能力も経験も到底先輩方には及ぶはずもなく、自分は場違いではないか。先輩方もそのように感じているのではないかと思い、里子は気後れした。


マスタープランや分担表を配り、作業工程の概要を説明したが、その際、貴志は里子の顔を読み取って里子がチームに選ばれた理由を明確にした。里子は嬉しさの余り涙ぐみ、貴志の優しさを噛み締めた。新製品試作ラインの作業は女性が大半を占める為、女性で各作業にも精通し、且つ、工程の管理が出来る人材として里子を選んだとの事だった。


設計図等に基づいて、机上で試作ラインの構築が始まり、部品・部材、半製品と組立工程の流れと各工程検査、出荷検査等が次々と厚紙で形作られていった。里子の分担は各工程の作業標準書の作成だった。


一週間後、控室傍の試作品製造ラインに設備の設置工事が終了し、里子は作業テーブルの位置や冶工具類の確認をしながら、立案した作業標準書の見直しを行った。その都度、疑問点は各担当者やリーダーの貴志に相談したが、即座に的確な回答が得られる現場は心地良かった。


控室には度々差入れがあって、休憩時間、貴志は菓子を配り里子はお茶を入れた。貴志はリーダーとは言っても、チームのメンバーは里子を除いては貴志の先輩で、貴志は皆に気持ち良く仕事をしてもらう事を第一に考えて人一倍汗をかいていた。


貴志は、ネクタイをして手も汚さず、偉そうな口調で帰る本社の人間とは異なり、貴志の謙虚な振舞いはたちまち工場内に伝わって、工場全体に涼風が流れた。


貴志と一緒に居る里子には女子陣の羨望の眼差しが刺さっていたが、里子は気に掛けなかった。何故なら、湯飲み茶碗を洗う時、決まって彼が手伝ってくれて、狭い流し台で言葉も無く肩を触れ合う束の間が里子には至福の時間だったからだ。


 第二節  「里子の初恋」


敏子が居ない侘しい一人住まいであったが、貴志との出会い以来、里子の心中は一変した。彼の事を思うと胸が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。チームの編成は六月末日迄で、彼は本社に戻り、里子はスクーリングに行かなければならない。先に別れがある事を思うと、涙が流れたが為すすべは無く、それまでは少しでも彼の側に居たいと里子は思った。


翌日は連休の頭だったが、彼が仕事に出ている事は容易に想像出来た。里子は逸る想いで洗濯を済ませて工場に出向いた。静まり返った製造棟の通用口のドアを開けると、案の定、控室の灯りが点いていた。里子は恥らいながら、戸を引いて貴志に挨拶した。彼は一瞬驚いたが、何時もより優しい眼差しで里子を迎えてくれた。


彼は、自宅から持ってきたワープロで、掲示用の予定表を作成していた。字を書くのが苦手でワープロを購入したが、未だ使い慣れていないとの事だった。里子が大学の実習でワープロを使っている事を告げると、彼は深々と頭を下げて協力を申し出た。里子は小さく笑って、彼の椅子に座った。


彼はしばらく里子の手を見ていたが、里子のワープロの能力を確認すると教育資料の作成に執り掛かった。来月早々に、試作ラインの作業者を集めて教育するとの事、里子が下書きの不明な点を聞くとき以外は会話も無く、静寂な空間にワープロの打つ音だけが快く響き、里子は(分からない振りをしようか)と思い、一人赤面した。


十時のチャイムが鳴って彼はコーヒーを入れてくれたが、里子は顔を上げることも出来ないほど満ち足りた幸せの中に居た。


ワープロが終わり、ホワイトボードに来月の予定を記入していると、昼のチャイムが鳴った。里子が書き終えて振り向くと、彼はお茶を入れて弁当のご飯を分けていた。


自分も直ぐ帰るから“母の作った弁当の味を見てくれませんか”と箸を渡された。貴志がコーヒー用のスプーンで煮物を取る際ジャガイモが転げ落ち、里子は笑いながらテッシュで拾い、床を拭いた。見かねて、里子は焼き魚の骨を取り、それぞれのオカズを彼のご飯の上に乗せた。弁当箱を洗う肩が触れ、手が触れる度、里子は抱き締められたように硬直した。


一緒に控室を出て、駐輪所まで肩を並べて歩いた。彼から家族の事を尋ねられたが、里子は夢の中に陥っていた。正門を出て里子が道路を渡たるのを見届けると、彼は再び里子にお礼を述べて自転車に乗った。里子は歓喜の中アパートに戻ったが、手が振るえ、動悸が激しく鼓膜に響いていた。


月が替わった連休の初日、時間を遅らせて工場に着くと製造部門の一部が出社していて駐輪所には十数台の自転車が停まっていた。里子は人目を避けるように家電部門の通用口を開けた。控室の電灯だけが点り、ガラス越しに彼の姿があった。挨拶をすると、彼は里子の遅い出社を怒った口調でなじったが目は笑っていた。


昼、彼は命令口調で、里子にお茶を入れるように言うと、紙袋から女物の柄の弁当を取り出した。母親が里子の為に作ってくれたとの事で、小さいお結びが二つと肉と野菜の炒めものと魚の煮付が入っていた。彼の弁当は、おかずは同じだがお結びでは無かった。里子は嬉しさを噛み締めながら、一口一口、飲み込もうとしたが、涙が溢れ落ちた。


里子は一足早く控室を出たが、彼は間もなく追い着いて里子と肩を並べて歩いた。里子は恥ずかしさと嬉しさで顔がほてり、別れ際、“お義母さんに”と云うのが精一杯だった。アパートに戻ると“彼がどう思っているのか、お義母さんにどのように話しているのか。高望みはすまいと思いながらも、里子は夢に酔っていた。


月曜日に工場に行くと、女性陣の白い眼差しと暖かい祝福の声に出会った。前者は若い未婚の女性で後者は既婚の女性だった。噂は既に広まり、控室ではメンバーが貴志を囲んで談笑していた。里子が入って行くと話しを止めて里子の顔を見入ったが、それは暖かい眼差しだった。当人同士が意識する前に、彼等は里子の豹変を感じて見守っていたのだ。


貴志が何時になく声を上げて日程を読み上げると、各メンバーも何時になく気合を入れて散って行った。スケジュールも終盤に入り、いよいよ来週は工場長以下が参列して火入れ式が行われる。貴志は、考える間もないぐらい里子に次から次と作業を命じた。


 第三節  「遊園地」


週末の夜、敏子がアパートに訪れた。度々里子の様子を見には来たが、遅い時間に来るのは初めてだった。敏子は可笑しいほどの命令口調で(遊園地に行くとの事で)明朝の迎えを伝えに来たのだ。里子はレポートの作成と試作ラインの標準書の確認をしなければならない旨を述べて断ったが、敏子は意味深に

頸を横に振ってそれを拒んだ。


レポートを終えると、里子は東の空が白みかかるまで標準書を読み返しては各作業をイメージした。火入れ式の際には里子が実演する事になっていて、メンバーの為、彼の為にも完璧な実演をしたかったからだ。


里子はドアを叩く音で目を覚まし、起き上がる前に(合鍵を持っている)敏子はドアを開けて枕元に立っていた。里子は子供のように敏子の指図に従い、顔を洗って服を着た。敏子は持ってきた髪留めで里子の前髪を上げ、頬をなぞって、口紅を付けたが里子は鏡を見る間も無く敏子にせかされて部屋を出た。


空き地に車が止まっていて、助手席には貴志の顔があった。里子は驚いて挨拶したが、もっと驚いたのは昇だった。昇は車から出てくるなり、あからさまに里子の変貌を褒めて敏子と顔を見合わせた。敏子は呆然と向き合う貴志と里子を後部座席に押し込めた。


彼が快く想っていることが分ると、里子は

彼が傍に居るだけで胸が一杯になった。男勝りと云われてきたがそれは肩を張っていたからで、里子とて、恋焦れる貴志の前ではか弱い女性だった。


前の座席で敏子は昇に飲み物を渡し、ガムの包みを剥いて昇の口に入れて仲の良さを見せつけていた。貴志と昇がまるで友達同士のような口調で会話を始め、里子が怪訝な面持ちで二人の会話を聴いていると、敏子が振り向いて二人は同級生であることを述べた。今般の試作に当たって、貴志から人選の相談を受けた昇が里子を推薦したとのこと。


異性の前では殆ど口をきかない敏子の口ぶりからも、貴志が頻繁に昇の家を行き来していることが分り、里子は貴志の顔を覗きながら半身になった敏子の腕を捕まえて抓った。


晴天に恵まれて遊園地は混雑していたが、乗り降りする際は彼が手を伸べてくれたため乗り物を待つのも苦ではなかった。貴志の母が用意してくれた四人分のランチボックスを抱え、私達は人込みを避けて、木陰のベンチ脇に敷物を敷いた。食べ終えると敏子達は帰りの待ち合わせ時間を告げて立ち去り、里子はベンチで貴志の肩にもたれて目を閉じた。初夏の暖かい日差しと心地良い睡魔が里子を至福の夢に導いた。


後部座席の真ん中に置いたバックの蔭で、貴志は里子の荒れた手を包んでいた。時折、敏子は意味ありげに里子を覗いたが、里子は寝た振りをして貴志と昇の会話に耳を傾けていた。話題は双方の親の近況だった。


アパートに戻ると敏子は車を待たせたまま一緒に部屋まで上がって来て、“どこまで話し合ったのか”と尋ねたが、何も話していない事を知ると呆れた顔をして“彼の前では前髪を上げるよう”に命じて帰った。鏡を覗くと、確かに女らしい自分が居た。化粧を落として風呂に入りながら、「彼はどちらの自分を好いてくれるのか」と思うと、乳首がうずいた。里子も年頃の女性だった。


火入れ式の朝、里子は髪留めを着けて出社した。敏子は口紅も置いて行ったが、さすがに口紅には手が出なかった。それでも十分だった。集った人々の目は、控室を行き来する里子に注がれていた。貴志がマイクを取って、参列者にラインに対面して整列するように指示すると、チームのメンバーは試作ラインを背にして一列に並んだ。


工場長以下が来場すると貴志は開会を宣言し、新製品のセールスポイントと生産目標を述べた。“試作実演開始”の合図でメンバーはラインの各ポイントに就き、里子は「工程─1」に立った。


里子は貴志の指示に従って各工程を移動し、貴志は里子の動作に合わせて各工程の作業のポイントを説明する。里子は機械的なモータの音も、会話を割くエアーの音さえも打ち消して貴志の声だけを聞いた。貴志も又、里子の流れる動作だけを見てマイクを取る。参列者は意気の合った二人の声と動作に見入りながら瞬く間に一時間が過ぎた。


全工程の作業を終えて、里子が振り向いて貴志を見ると、貴志は目でうなずいた。工場長が前に出て、試作一号機のスイッチを入れると、新型の全自動洗濯機は軽やかな音を立て参列者の拍手を誘った。里子は目頭が熱くなった、拍手の矛先には明らかに二人への賛美も込められていたからだ。


喜びを分かつ間もなく、試作ラインの実習が開始された。量産ラインは十ラインになる予定で、里子はライン長になる女子十名の現場実習を担当した。貴志は技術系と品質保証部門の男子を担当し、休憩時間に控室に入ろうとしたがそこはすでに男子に占領されていた。里子は女子のグループが集まる休憩所に付いて行くと、年長の女性陣の尋問は過酷で、里子は赤面の連続だった。


一週間の実習が終わって、里子はようやく控室に入った。メンバーは暖かく迎えてくれたが、彼等の目はホワイトボードの“部材コストの削減”と“工数削減”の課題にあった。貴志が入って来て、時間前であったがミィーティングが行われた。部材は技術部門と生産管理部門が、検査工数は品質保証部門が担当し、里子は製造工数の削減を分担する事になった。残り三週間の戦いである。


貴志はストップウォッチとビデオカメラを準備していたが、里子はビデオカメラを使った事が無い。貴志は“手本を見せる”と言って里子をボードの前に立たせて、カメラを操作した。メンバーも興味深深で見ている中、貴志の茶化した要求に里子が真剣にポーズを撮ると室内は爆笑で沸き、タイミング良く工場長が差し入れを持って入って来た。貴志が工場長以下に画像を再生して見せると再び室内は沸いたが、里子はストップウォッチだけを持って逃げ出した。里子は冗談も言えるようになった貴志の笑顔を見て安堵した。


全員を集めて、ミィーティングの内容を報告した。不具合を出さずに設計予想時間の七十分を十分削減する事は容易ではない。然し、選ばれたライン長各位の理解は早く積極的にトライした。


一個流しのトータル時間を測定すると、最短の方は六十二分で、最長の方は七十四分だった。工程毎の工数にもバラツキがあって、

特に体力が必要な組立工程での差が大きく出た。翌日の午後、里子は結果をグラフにして貴志に報告した。


貴志は全工程の作業をビデオに撮って、作業の洗い出しを行った。作業の無駄な箇所は無いか、合理化すべき工程は無いか、里子にメモを取らせながら繰り返しビデオを見た。

貴志は、ラインの大幅な改造をも覚悟していて、里子に耳打ちした。


次の日、貴志は技術部門を召集した。一部の工程の入替えと、各設備間のスパンを縮めて、工数の削減を図る為だった。移設工事は土曜日に行われる事になり、合わせて里子も作業標準の見直しに掛かった。それでも六十分が切れない場合は、一個流しからバッジ方式への転向が余儀なくなり、六月中に試作を終える事が出来なくなる。量産の開始が遅れる事は、貴志の評価も試作工場のチャンスも遠退く事だったが、貴志に迷いは無かった。量産が開始されてからの変更は、量産工場に多大な負担を掛ける事になり、貴志のポリシィーはそれを許さなかったからだ。


土曜日、その日は連休だったが技術部門以外のメンバーも全員出社していた。貴志の気持ちを汲んで移設工事の手伝いに来たのだ。工場長も事業部長も来ていて、紅一点の里子は大いに冷やかされた。工場長から昼食の差し入れがあったが作業は捗って一時前に終わり、片付けが終わるとメンバーは貴志と里子を残して弁当を手土産に帰宅した。里子が帰ろうとすると貴志は神妙な顔で“母に会って欲しい”と言う、里子は彼の顔を見て小さく頷いたが、嬉しさが頬を伝わり、言葉にならなかった。


 第四節  「お義母さん」


貴志はゆっくりとペダルを踏んで里子を導いたが、それでも里子は遅れた。この日が来る事を毎夜夢見ていたが、突然でもあり、いざとなると、喜びと不安が同時に押し寄せて、泪が溢れ、足は震えていた。貴志は自転車を止めて降りたが、里子は呆然として動けなかった。貴志は里子を自転車から降ろし、里子の腕を取って玄関に導いた。


タミ子は自転車の音に気付き、窓から里子の様子を見ていた。貴志がドアを開ける前にタミ子が玄関から出てきて、里子を抱きかかえながら“ゴメンネ、ゴメンネ!もっと早く会いたかった“と言った。里子が顔を上げると、タミ子の目にも泪が溢れていた。里子はタミ子の腕に泣き崩れ、タミ子は里子の背を、頭を撫でながら中に入った。


タミ子は居間のソファーで里子を抱き寄せて、出会いの日、遊園地に行った日、先日の火入れ式の事など、貴志がどんなに目を輝かせ、鼻を伸ばして聞かせたか、里子が泣き止むまでくりかえして話した。頃合を見て、タミ子は里子の顔を持ち上げて、ハンカチに唾を付けて泪の跡を拭いた。貴志は嫌な顔をしたが、里子は幼い頃の母を思い出して子供に返った。


タミ子は貴志が小学校に上がる前に夫を病気で亡くし、小学校の給食調理員をやって貴志を育ててきた事。昨年、ようやく家を新築して、狭いながらも人並みな生活を営む事が出来るようになったことなどを里子の手を握りながら聞かせてくれた。


貴志が折り寿司を開くと、タミは里子にも食べるように勧めてお茶を入れに立った。里子がようやく顔を上げて貴志を見ると、目が謝っていた。タミ子がお茶を持って来るまで、二人はしばらく見入っていたが、貴志の目が里子の髪に移り、里子は慌てて髪を直した。それを見て貴志は目で笑い、里子が子供のようにふくれると、貴志は更に笑った。


“お義母さん”“明日伺ってもいいですか”と言うと、タミ子は満面の笑みで頷いた。貴志がアパートまで見送ってくれたが、目は小鳥のように踊り、ペダルはかろやかに貴志の背を追った。帰り際、貴志は何か言い掛けたが、明日の迎えだけを告げて帰った。


夜、里子は久し振りに手紙を書いた。お父さん・お母さんは元気ですか、順一は仕事に慣れましたか、有子はしっかり勉強していますか、そして、貴志との出会い、母親のタミ子と会った事を伝えた。トヨは一人暮らしを心配していたので“もう一人じゃない”とも書きたかったが、それは止めた。


翌朝、貴志が迎えに来たが里子は普段着に薄化粧をして降りて行くと、貴志はわざとらしく自転車を降りて里子を見入った。タミ子の好物を聞いて、商店街で饅頭を買った。貴志の家は商店街から見て、会社の裏手の奥にある。会社に沿って本道が真直ぐ伸び、左手は住宅街が連なっていた。


会社から十分程走った十字路で、貴志は止まって向かい側の青い屋根の家を指差した。

本道から二軒奥の二階屋が昇の家だった。貴志の家は右に折れて更に五分程走った。本道を外れるに従い住宅がまばらになり、田畑がぽつぽつと広がる。貴志の家は真新しい平屋で、自転車を止めるとタミ子が草取りの手を止めて家の蔭から出て来た。


土産の草餅を食べながら、貴志がアルバイトをしながら大学を出た事や昇の母親とは昔からの馴染みで、今でも時々お茶飲みをしていて、昇から敏子の友達で“別嬪で、頭の良い娘が貴志と同じ職場に居る”と聞かされていたので“敏ちゃんの友達なら”と願って、毎日、貴志の顔色を見ていたとの事。そしてタミ子は“本当に、貴志には勿体無い美人さんだね”と言って、里子の頬を撫でた。


 第五節  「出会い」


里子はあの日、偶然に出会ったと思っていたが、敏子との出会いが貴志との出会いを生んだことを想うと、縁の不思議さを感じた。里子はタミ子の話を聞きながら、家族の為と思って努力してきた事が結局は自分の幸せを生んでいた事に気付いて、これからは貴志の為、タミ子の為に生きていこうと思った。


タミ子は呼び掛けたが、貴志は報告書を作成していて部屋から出て来ない。里子は目でタミ子に断って、貴志の部屋に入った。明日の結果が順調ならば、貴志は来週本社に戻る。里子は早く貴志と二人きりになりたかった。里子はワープロを手伝って、一時過ぎに報告書を終わらせた。


タミ子は急いで昼食を食べさせて、二人を追い出したが、喫茶店も落ち着けそうも無く、里子はアパートに向かった。貴志を部屋に入れた後、里子は顔を真っ赤にして俯いた。誘ったように思われないかとの、恥ずかしさだった。


貴志は里子が選ばれて大学へ行っている事を褒め、里子自身の為、後輩の為にも大卒の資格を得るまで持続するように諭した。然し、三年目に入り難解な箇所が増えて、レポートの提出が遅れがちである事、図書館には専門書が無い事を告げると、貴志は専門書を揃えている本屋の地図を描いてくれた。


里子は教科書とテキストを開いて、折り畳みのテーブルに肩を寄せて座った。貴志は理工系を出ていて、里子の苦手な数学もスムーズに解き、説明は丁寧で解り易かった。数学のレポートが終わると、貴志は敏子から聞いていた成人式の写真を見たいと言い、里子は貴志を寝室に入れた。


貴志は枕元の小さいテーブルの上の家族の写真を手にして、一人ずつ名前と歳を尋ねた後、成人式の写真に見入った。里子は堪らず貴志の背中にしがみついた。貴志が居れば、単調な毎日も有意義になり、苦も楽に感じられる。離れたくない、一時でも顔を見て声を聞いて居たかった。


 第六節  「そして別れ」


里子が貴志の背でむせび泣くと、貴志は振り向いて里子を抱き寄せながら布団の上に横たえた。左腕で里子の頭を抱え、右手で里子の前髪を分けて泪を拭くと貴志の顔が近づいて一瞬唇を合わせて離れた。


貴志とて同じ想いであろう。再び唇が合わさり、貴志の手がブラウスの上から里子の乳房を包む。ブラウスのボタンを外してブラジャーの中の乳首に触れた時、里子は無意識に貴志を引き寄せていた。貴志の手が下着の上から下腹部に触れると背筋に電撃が走り、里子は堪らず貴志の手を掴んだ。貴志は里子を引き寄せて強く抱き締めた。


話し切れなくても唇が、身体が貴志を感じている、里子にはそれで十分だった。貴志の頬に着いた口紅をハンカチで拭いたが落ちない、里子は怒った素振をしてティシュペーパーを唾で濡らして拭き取った。


夜、布団に入ると貴志の事を思い出して、乳首が硬くなり下腹部が熱くなった。貴志が手を止めなければ、全てを許していただろう。暫く会えなくなる訳で、彼と一体になって溶け合うべきだったのではと思うとなかなか寝付けなかった。然し、式を挙げるまでは純潔を守らなければならない、それは両親とタミ子への暗黙の誓いであり、生涯の伴侶になる貴志への貢ぎのように思えた。


翌朝、工場の正門をくぐると、里子は違った自分を感じた。貴志の体と心が自分のものである事が分かった今、里子には絶対的な安らぎと力が宿っていた。敏子が自転車置場で待っていて、里子を抱き止めると“おめでとう、良かったね”と涙を溜めて言った。里子は心の中で「ありがとう」と言って頷いた。

自分の事以上に思ってくれる敏子の気持ちが

里子には痛いほど伝わっていた。


組立工程に男子を入れて、九時からタクトタイムの最終測定が開始される。新たに加わった男子は手順書に従ってイメージしてトレーニングを繰り返していた。五つの組がそれぞれ十分おきにスタートし、試作チームが二人一組で時間を測定する。


貴志の合図で測定が開始された。一組は“半田工程”で躓いたが、里子のストップウォッチは五十三分台を示していた。一緒に測定した技術部係長の記録も五十三分台だった。

二組が終わって、貴志が係長と里子に時間を訊きに来た。二組は五十二分台だった。


三組の時間を確認して、貴志は工場長に電話を入れた。予想はしていたが、上々の結果だった。五組目が終わる頃、工場長が事業部長を伴って来場した。貴志が各組の時間を報告すると、工場長は自分の目で確認したいとの事で、貴志は選抜して六組目をスタートさせた。六組が終盤の組立工程に入り、カウントダウンの手拍子の中、全工程が終了した。

五十二分を切り、歓声と拍手が鳴り響いた。


夕方、試作の完工とチームの解散と貴志の送別会を兼ねて、駅近くの居酒屋に集結した。各ライン長と試作チームと関係所属長が列席した。発起人の工場長は遅れるとの事で、事業部長の一声で祝杯が始まった。里子も女性陣に促されて、ちびちびとビールを口にしたが、主賓格の貴志は乾杯の連続で工場長が顔を出した頃にはかなり出来上がっていた。


工場長が改めて全員に祝辞を述べた後、貴志を立たせて労った。貴志が“この場を借りて”と発して里子に目をやると、場は一瞬に静寂になり、全員の眼が里子に注がれた。隣の女性が里子を立たせ、前に出るように促した。里子が貴志の横に並ぶとフラッシュが焚かれ、拍手が沸き起こった。工場長の制止で再び静寂が生まれ、貴志は明瞭な声で里子との結婚を宣言した。工場長が席を譲ろうとしたが、里子は歓声と拍手の中で席に戻った。女性陣からの祝福と恥ずかしさと、アルコールで里子の白い肌は朱に染まった。


土曜日の朝、貴志の家の前には昇の車が止まっていて、敏子も見送りに来ていた。里子は上野まで見送りに行きたかったが、貴志は首を縦にしなかった。電車が来るまで、貴志は昇と話し込んでいた。タミ子が言う事には、貴志と昇は兄弟以上の仲との事で、里子が見てもそう思えた。


電車が来て貴志が中に入ると、タミ子は里子の背を押して自分はその場に留まった。

貴志がホーム側の席に着いて里子を見つめると、里子は窓ガラス越しに“お義母さんのことは任せて”と貴志の眼に伝えた。


敏子が誘ってくれたが、タミ子は里子の様子を見て二人で家に戻った。午前中は庭の草むしりをして、午後、タミ子がレースを編み始めると、里子はタミ子の背にもたれた。タミ子の背はトヨの背に似ているが貴志に繋がる愛しい背だった。又、里子はトヨの前では長女であったがタミ子の前では赤子だった。


タミ子は里子をあやすように背中を揺らしながら、思い出していた。敏子が懸命に褒める娘なら「きっと良い娘であろう」と思い、貴志に毎日のように里子の事を聞いた。貴志は出会ったその日から、嬉しそうに眼を輝かせ、タミ子をも幸せな気分にさせた。「本当に、この子は不思議な子だ。」タミ子も里子に会った瞬間、今迄の苦労が全部報われるように感じた。貴志はタミ子に心配かけまいと幼い時分から一生懸命に学び・働いていたが、父親が居ないせいか笑顔が少なく、人並な遊びもしないで生きてきた。そんな貴志が里子と出会って満面の笑みを見せた。


タミ子は寝入った里子にタオルケットを掛けて、すべすべした頬を撫でた。「賢い、しっかりした娘」と聞いていたが、タミ子には無垢な赤子のように愛しく、側に居るだけで癒された。


眼を覚ました里子に、“泊まっていくかい”と尋ねると、里子は首を横に振った。里子が夕日を背にアパートに帰ると、タミ子はポッカリ穴が開いて何も手に付かなかった。夢のような絶頂の波が急激に押寄せて、瞬時に去って行くように思えた。


朝、眼が覚めると八時を過ぎていた。タミ子は“九時前に来るように”と言い、里子は急いで支度をして自転車を走らせた。玄関を開けて中に入るとタミ子は電話中で、里子を見て、急いで来るように手招きした。貴志だった。貴志の声が、側で話し掛けるように里子を呼んだ。タミ子は場を外したが里子は胸が一杯で言葉にならなかった。


貴志の社宅には電話が付いていて、決まって日曜の朝に電話をして来るとの事で、里子の様相は一遍した。アパートに電話を引けば

毎日、貴志の声を聞く事が出来ると思うと、一気に気が晴れた。タミ子が呆れ顔で見るので、里子は膨れて怒った素振りをすると、タミ子は腹を抱えて笑いだした。


タミ子が遅い朝食を準備している間も、里子は苦手な数学のテキストを開いて予習した。敏子がアパートを出てからは独りで学ぶ難しさ、虚しさが日毎に増し、一期生、二期生の先輩が卒業を断念した事を知って里子は悩んでいた。そんな里子に貴志は“自分の為、後輩の為、現場の為に頑張れ”と言った。里子には、貴志の言葉が全てだった。                 


昼過ぎ、タミ子は化粧下手な里子を鏡台に座らせて、前髪を分け口紅を付けた。貴志は嫌がらずに買い物を手伝ったが、男の子はやはり男の子でタミ子は侘しかった。従い、嫁と買い物をする事は、タミ子の長年の夢だったが、嫁と言うよりも実の娘のような里子を伴って行ける事にタミ子の胸は高ぶった。


第七節  「産後」


痛みの中、百合子は目を覚ました。下腹部に手をやると、大きな膨らみは消えたが弛みはひどかった。“一生楽が出来るから”とのヨシコの助言であったが、これほど長期に、もう一人の自分に翻弄され、束縛され、無様な格好を強いられとは思っていなかった。百合子は「二度と妊娠はしない」と、誓った。


付き添いの看護婦が、ノックもせずに勝ち誇ったような笑顔で入って来た。ワゴン車の中には産着に包まれた赤子が居て、眼を覚ました百合子に見せに来たのだが百合子は赤子を抱く事も無く、一瞥すると天井を仰いだ。

母親としての愛情が微塵も感じられない百合子に、看護婦は様相を一変して部屋を出た。


長い月日だった。百合子は漸く自分に戻れたと思った。初めての子を授かった彼の喜びとは裏腹に、百合子は日々憂鬱が増して発狂寸前だった。愛が有った訳でもなく、好きだった訳でもない。富裕社会の気分を味わってみたさに、性欲に乏しい彼を奮い立たせて来ただけだった。同様に、百合子は子供に対する愛情も持ち合わせていなかった。宿った子は彼の物であって、自分の子とは微塵も考えなかった。


 第八節  「百合子の生い立ち」


ヨシコは商家に産まれ、乳母に育てられた。母親は資産家の昔風な人で、母と娘と言うよりは主従の関係に近かった。百合子は町から駈け付けた産婆に取り上げられた。産後、出血がひどくヨシコは危険な状態になり、三日目に眼を覚ました。総一郎はヨシコの快復を待って乳母を雇うつもりだったが、ヨシコの母乳が出る事は無かった。


総一郎は第二子(強いては男の子)を望んだが出産で死ぬ思いをしたヨシコにとって、それは自分に対する愛情の無さと受け止め、ヨシコは次第に総一郎を避けていった。百合子が物心付いた頃には、総一郎は機会がある度、町で一夜を過ごすようになり、ヨシコは総一郎の分身でもある百合子に対して、一層愛情を失せて行った。ヨシコが百合子に接するのは、面白味の無い寒村における気晴らしと時間潰しの為だった。


夫婦の愛、家族の愛も知ら無いまま百合子は育ち、幼少の頃遊んだ友達も一人二人と遠ざかっていった。子供は敏感で、家庭の雰囲気が悪い所では遊べないからだ。着せ替え人形に飽きて周りを見ると、そこには別なヨシコが居た。ヨシコは雑貨の仕入れと称して週に一・二度トラックに乗って町に出向いていたが、車庫で若い運転手と居る時のヨシコは、明らかに快活で、別人だった。車庫は家の裏にあって、百合子が薄暗い車庫の中に入って行くと、ヨシコは運転手の後ろから抱きついていた。


百合子は見てはいけないと思ってその場を離れたが、ヨシコの変貌の理由を知りたかった。ある日、百合子は学校から帰ると、車庫の裏手の草むらに隠れた。トラックは総一郎を町まで送って、戻って来るはずだった。虫に刺され草に擦れながら待っていると、トラックが後ろ向きに停まり、後を追うようにヨシコが入って来た。ヨシコはトラックの後ろに敷かれた筵の上に運転手を仰向けに寝かせた。十歳の百合子には男女の行為の意味は分かるはずもなかったが、総一郎が居ない日の

ヨシコは上機嫌だった。


陰気な女の子との会話とは違って、男の子の遊びは単純で快活だった。百合子は二・三人の男子を伴って晴れた日は野山を探索し、雨の日はお宮の境内でたむろした。異性に対する興味を持つ年頃でもあり、男の子が百合子の目の前でこれ見よがしに小便をすると、百合子も気を引くように白い尻を出して小便をした。百合子の胸は未だ小さかったが女の子特有のまるみはあり、見たい子には見せ、触りたい子には触らせた。それが何であれ、孤独な百合子にとっては中心に居る事が必要だったからだ。


六年生になると、胸はふくらみ、下腹部に生えてきた産毛が日増しに色濃くなってきた。ヨシコを通して男女の行為の痛そうな、苦しそうな顔と声が、実はそうではなかった事が分かると、百合子もさすがに皆の前で曝け出す事にはためらい、褒美と評して一人を選んで部屋に入れた。合板で仕切られた隣の部屋にはヨシコが居る時もあり、百合子はヨシコがするように、声を殺して男の子の手を導いた。ヨシコは本気で避妊の方法を教えたが、異性の体に興味はあっても、全ての行為を理解している子は居らず、二人だけの空間に指が震え唇は閉じたままで、そこまでの心配は無用だった。


中学生になると、家の手伝いをしなければならない子が大半で、百合子の遊び相手は限られていった。村長や助役の息子で、親はヨシコに色目を使い、子供は百合子の部屋に入り浸れた。なよなよした男の子は百合子の好みではなかったが、時には男の物を観察して暇をつぶした。雨の日は朝から身体が疼いた。男らしい逞しい胸の下で、男の硬くなった物が下着の上から下腹部に押し付けられると、百合子は快感に濡れた。


百合子の性的欲求はエスカレートして、度々運転手に色目を使ったが、運転手は百合子を相手にしなかった。ヨシコの欲求を断れないのと同様に、百合子に手を出せば職を失うからだった。


 第九節  「離別」


百合子は空ろに天井を見上げながら、長かった妊娠期間を呪い、彼と過ごした無意味な時を悔いた。百合子にはスナックで働いた日々が輝いて見えた。店の中心に自分が居て、適度に体を動かす事は心地が良かったし、色んな男性との秘め事も刺激的であった。此処を出たら、彼との生活は解消しなければならないと百合子は思った。


一週間が過ぎて、百合子はベッドから出たが、血液検査中との事で退院は許されなかった。彼も顔を見せず、看護婦も二度と赤子を連れて来なかった。


三日後、運転手が迎えに来て、マンションに戻ると彼が居た。運転手は奥様から出産の労いの言葉を頂いた事、赤子を引き取った事を告げた。続いて運転手は“誓約書”を出して子供の親権の話を切り出した。百合子には初めから母親としての感情は微塵も無く、時間に制約されないで自由に行動出来ればそれで十分である事を述べると、運転手は彼と目を合わせた。“誓約書には、百合子が親権を求めない事、マンションの名義を百合子にする事と、月々の手当てが記載されていた。


百合子が満面の笑みでサインすると、運転手は、赤子の血液検査をした事を明かした。彼の子で間違いはなかった。運転手が百合子を選んだ理由は計り知れないが、別れの瞬間、百合子は本音で心情を告げると、運転手は名刺の裏に名前を書いて百合子に渡した。その日のうちに、彼とお手伝いの荷物は運び出され、翌日、百合子はアパートの荷物を引き払って部屋を解約した。


月々の手当で生活費は足りたが、百合子にはお金よりも自分の居場所が必要だった。体型が戻ると、百合子は運転手が紹介してくれたクラブに電話を入れた。運転手の名前を告げると、オーナーらしき男性は店の場所を丁寧に教えてくれた。大通りに面した質素なビィルのエレベータを降りると、赤いジュウタンにシックな黒柄の壁、七色のイリミネーションが店の入り口まで連なっていた。

 

第十節  「クラブ」


フロントの男性は百合子の顔を見るなり、

名前を確認して隣の部屋に案内した。電話の主は支配人で、勤務条件等を一通り説明するとママを呼んだ。和服姿の四十前後の端正な顔立ちの女性で、百合子の全身を一瞥した後ロッカールームに案内した。


翌日、百合子はロッカールームとタクシーを行き来して、ドレスや靴や装飾品を運び込んだ。店は準会員制のクラブで、ホステスはママを入れて丁度二十名になった。着衣はドレスか和服に限定されていたが、ママを除いて全員がドレスだった。客が来るとフロント係りはママに連絡し、ママから指名された者が客を向かえに出た。自分以外の女性がいる事に初めは戸惑いがあったが、出産後の百合子には若さと美貌に大人の丸みが加わり、百合子が居るだけでボックスは華やいだ。


会員の大半は会社関係者で、接待を目的とした来店だった。従い、必然的にホステスには会社側のコンパニオンとしての役目が求められ、接待ゴルフやマージャンに連れ添い、夜の相手を依頼される事も稀では無かった。そういった場合、個人的な付き合いは別として、ママを通しての依頼は仕事と見なされ、特に、夜の相手はポイントが高かった。


百合子は日焼けに気遣いながらグリーンを回り、タバコの煙に咽ながらマージャンも覚えた。ゴルフバックもウェアーも客からの贈呈で、どこのブランドの何を買って貰ったのかが、ホステス仲間又はライバル会社の関心だった。若い女の肌に触れる事は男性の本能的な快感で、瞬く間に百合子の部屋は贈呈品で溢れていった。外人の客も居たが相手を選り好みしない百合子は重宝な存在で、ママの信頼も日増しに大きくなった。


百合子は変化のある充実した日々に自分を取り戻したが、唯一悩みの種はヨシコからの金の無心だった。これまでも相当な額を送っていたが、男への熱の入れ方が尋常ではなく、留守電への依頼が頻繁になった。


第十一節  「哀愁」


会えないなら「声が聞きたい、声を聞けば会いたくなる」貴志への恋心は否応なしに里子を女にした。電車の中、教室で里子を見る眼が変わり、あからさまに声を掛けて来る男子が増えたが、里子は強く首を振って退散させた。離れていても里子の眼は貴志だけを写し、耳には貴志の声が焼き付いていた。貴志の事を想うだけで幸せが湧いて来る。


時折、敏子が顔を出してくれたが、貴志に出会っていなかったら、一人暮らしの空しい日々に自分を見失っていたかもしれない。燃し、敏子に出会っていなかったら、燃しも、順之助とトヨの子でなかった、そう思うと、里子の瞳は感謝の涙で溢れた。


大阪の本社勤めの貴志が帰って来るのは盆と正月だけで、タミ子は長い間侘しい一人暮らしが続いていた。従い、貴志の帰省は久し振りで束の間の幸せだったが、里子が目の前に現れた今、タミ子は大きな娘を胎内に宿したような幸せに包まれていた。


日曜日、里子は早朝に洗濯、掃除等を済ませると逸る思いで自転車を漕いだが、朝食を準備して待っているタミ子には長い一時だった。食後は雑談をしながら草をむしり、家庭菜園を終えると食事と買い物に出た。午後はタミ子の傍らでスクーリングの予習・復習をして、睡魔にかられるとタミ子の膝で昼寝をした。順一と有子が居たせいか、トヨに甘えた記憶は薄かったが、里子は貴志の温もりに触れるかのようにタミ子に甘えた。


連休の日はタミ子の部屋で寝起きして、貴志からの電話に出るのは里子の役目になった。一昨日アパートに電話があったばかりで、タミ子が側でそれを茶化すと里子は顔を赤くして電話に出た。貴志は、先般立ち上げた新製品の売れ行きが好調で、ボーナスが楽しみな事と休みの日は自動車学校に通っているとの事だった。


敏子が歩いて遊びに来るようになると、タミ子は敏子の来訪を喜んでお茶を出していたが、ある日、タミ子は神妙な面持ちで二人に話した。


タミ子の夫と昇の父親は工場の同僚で、夫が病で伏せて貧窮している時期に陰ながら支えてくれた事やタミ子が働きに出てからは幼少の貴志を奥さんが預かってくれた事。子供会の旅行にタミ子は着いていけなかったが、その都度奥さんが貴志の面倒を分け隔てなく見てくれた事などをタミ子は涙ぐんで話した。“敏ちゃん、アンタは良い家に嫁に来たね、お義父さん、お義母さんを大事にしてね”と、言うと、敏子は頷いて大粒の涙を落とし、里子も敏子の手を取って、一緒に泣いた。


敏子は本当に幸せそうだった。こうして遊びに来てくれるのも、昇が“行っておいで”と、言ってくれるからで、敏子への優しさであるが、貴志やタミ子への思いやりでもあった。敏子が帰る際、タミ子は採れ立ての野菜を持たせた。以前は昇の家でも作っていたが、今は借地やアパートにしていた。


傍目にはありふれた幸せかもしれないが、里子は怖いほどの幸せを噛み締めながら、指折り数えて貴志の帰りを待った。ボーナスが支給されて、里子は予想以上の額に驚くと同時に、申し訳なく思った。スクーリングで丸二ヶ月間穴を開けた上に給料を頂いて、授業料も交通費も会社が負担していた。一時は周りの目や青春を犠牲にしてまで大卒の資格を得る事の意義に揺らいだが、貴志の説得で心は決まり、今は後輩の為、職場の女性社員の為、会社の為、そして貴志の為にやり抜こうと決心した。


里子は有子の修学旅行の小遣いを含めてトヨに送金し、タミ子にはブラウスを買った。

翌日、タミ子は電話に出て、来週帰って来る貴志にそれを報告した。


  第十二節  「貴志の帰省」


金曜日の夕方、里子はタミ子と上野駅の中央口で貴志を待った。待つ間、里子は敏子との出会いをタミ子に話した。家族の元を離れた不安の中、あどけない敏子の笑みや仕草に、どれだけ癒されたか、あの日と同じ場所で待っていると、あの日と同じ方向から貴志が顔を出した。里子はタミ子と目を合わせて微笑んだ。電車は四人掛けだったが、タミ子は前の席に移って弁当を食べた。


タクシーを降りて明かりを点けると、女所帯で心細かった部屋に光が戻った。暑い一日だった。里子は髪を洗い、薄手のネグリジェに着替えて、うつむき加減に扇風機の前で髪を拭いた。風になびく項は眩しく、揺れる胸と裾からちらつく白い肌は悩殺的だった。タミ子には見慣れた光景になっていたが、貴志は堪らずビールを取りに立ち上がった。里子は手を止めて、コップと栓抜きを出して貴志の傍らに座った。貴志が帰って来たら、ビールを注ぐのが望みの一つだったからだ。


里子は慣れない手つきで栓を抜いてビールを注ぐと、泡が溢れ貴志の手からパジャマにこぼれ落ちた。里子は慌てて乾いた布巾を探して拭き取り、ドタバタの最中、タミ子が風呂から上がって来て“おいしいかい”と、言って二人の顔を覗いた。貴志は即座に頷いたが、里子はタミ子の横槍に不満そうな顔をして見せると、タミ子は“オジャマだったかい、昨日まではベッタリ甘えていたのにネ”と、貴志を横目で見て言う。里子は赤ら顔で“お義母さん”と、言ってタミ子の口を塞いだ。タミ子は幼子を抱くように里子を抱き止めて、仕掛けた洗濯物を里子に頼んで部屋に下がった。


貴志には、タミ子の笑顔の記憶が無かったが、里子は貴志にもタミ子にも笑顔を運んで来た。貴志は後ろから里子の両肩を引き寄せて、小さな声で“有難う”と言った。里子はバスタオルに顔を埋め、貴志の胸に身体を預けた。ネグリジェの上から、貴志は遠慮がちに里子の胸に触れた。里子はブラジャーを着けておらず、貴志の両手は心地良い弾力と柔らかい乳首を感じた。貴志は優しく揉み、乳首を軽く撫でると里子の鼻息は次第に荒くなり、乳首は硬く突起し身体を硬直させた。貴志はネグリジェの裾を捲り、花柄のパンティーの上から里子の下腹部に触れた。里子は足をくねらせ、タオルを噛んで官能の声を殺した。“ブブー”洗濯が終わった音に貴志は手を止め、里子は夢から覚めたように貴志の手を解いて立ち上がった。


頬の火照りを感じながら、里子は洗濯物を取り出した。タミ子の物を間に入れて、貴志と自分の下着を両端に時間を掛けて吊るした。数ある望みの一つに満喫して戻ると、貴志は二本目を開けていた。里子は貴志の傍らに座って“明日は早いから”と言ったが、貴志は里子の肩を引き寄せた。里子は首を横に振って、恥じらいながら貴志に接吻して立ち去って、タミ子の部屋に戻った。


ドアを閉めようとすると“暑いから開けといて”と、タミ子が言った。里子が手を伸ばすと、いつものようにタミ子の手がそこにあった。“アツアツだね”とタミ子が言ったので、里子はタミ子の手の甲を抓った。今、タミ子は里子の一番の理解者であり、保護者であった。里子はタミ子の手の中に貴志を感じて、夢の中に入った。


翌朝、里子は部屋着に着替えてタミ子と台所に立った。タミ子は里子に教えながら、手馴れた手付きで弁当を造り朝食を準備した。貴志は未だ起きて来なかった。里子はタミ子に促されて、貴志を起こしに部屋に入った。貴志はタオルケットを肌蹴て、大の字で寝ていた。一緒に暮らすようになったら、貴志をどうやって起こすかは既に決めていた。もっとも、それはベッドを想定していたのだが、


里子は、枕元で四つん這いになって名前を呼んだが反応が無く、耳元に頬を近づけた瞬間、貴志は急に目を開けて下から里子を抱き寄せた。里子は驚いて声を上げたが貴志は里子の顔を引き寄せて接吻し、“おはよう”と言った。里子も笑顔で挨拶して、朝食が出来た事を伝えた。台所に戻ると、タミ子は横向きに里子の顔を覗いて、“どうしたの”と意地悪く尋ね。里子は火照る顔を振ってタミ子の背に顔を埋めたが、タミ子も新婚時を思い出して身体を火照らせていた。


夏の日差しは未だ低く、タミ子は里子に買ってもらったブラウスを着て出た。箱根はタミ子が夫と新婚時に歩いた地で、タミ子は所々で夫との思い出を里子に話した。貴志と二人きりの時には切なくて話せなかったが、タミ子は心が解き放たれたように饒舌で、それは亡き夫への報告でもあった。旅館に着くと食事には未だ早く、タミ子は二人を散策に追いやった。


 第十三節  「湖畔の小道」


湖畔の小道に入ると、貴志は里子の手を取ってゆっくり歩いた。他にも何組かのカップルが居たが、貴志には気にかける余裕は無い。貴志は里子を木陰のベンチに座らせて、“大阪に来るかい”と尋ねた。それは里子へのプロポーズでもあったが、里子は顔を曇らせて首を横に振った。貴志の傍に居たい、仕事も、大学も辞めて貴志の傍に居たかったが、タミ子を一人にする事は出来なかった。里子は“お義母さんと待ちます”と応えた。


貴志とて思いは同じで、帰省前に転勤願いを出しては来たが希望は薄かった。定年近くに管理職として来る事はあっても、本社の若手が地方に転属する例は無かった。貴志は里子の返事に“一年待ってほしい、転勤が叶わない場合は退職する。苦労を掛けるが、着いて来るかい”と尋ね、里子は涙にむせながら、大きく頷いた。


転勤が困難な事は貴志から聞いてはいたが、タミ子には一人暮らしが年々耐え難くなっていた。夫との思い出も薄れ、里子が来てからは一緒に過ごす休日が全てだった。貴志の事を忘れても里子の事を思わない日は無かった。それ程、里子が愛しく、若し、里子が大阪に着いて行くと言ったら、一緒に行こうかと本気で考える昨今だった。タミ子は一風呂浴びて、部屋の窓際から旅館の玄関を見つめていた。夏の太陽が紅く染まりかけた頃、里子は手を引かれて林から出て来た。タミ子は逸る心を抑えてテーブルに座った。


タミ子は里子を抱かかえるように座らせて、“貴志の嫁になるのかい”と言うと、里子は顔を上げて“はい”と答えた。タミ子は里子の涙を拭き、自分の涙を拭いた。そして、“大阪に行くのかい”と聞くと、里子は首を横に振った。貴志がタミ子に話すとタミ子は“二人で待とうね”と言って里子を抱き寄せた。里子はタミ子の肩に顔を埋めて頷いた。


食事が運ばれるまで結納や結婚式の時期や仲人の話をしたが、里子は“一日も早くお義母さんと暮らしたい”と言い、結局、休みが取れたら来月に結納・入籍を済ませて、式の

日取りはその後に考える事にした。入籍が転勤の判断に繋がってくれればと願い、仲人は、二人を知っている東京工場の製造部長にお願いする事にした。貴志は夏季休暇に有給休暇を付けて帰省していたが、里子は明後日からスクーリングが始まる為、工場が始まったら貴志が一人で挨拶に行く事にした。


食後、タミ子は里子を誘って風呂に行った。均整のとれた身体は肉付きが程好く、肌は白くスベスベしていた。タミ子が褒めるまでもなく、廻りの女性は羨ましく里子に見入っていた。貴志は先に部屋に戻っていて、冷蔵庫からビールを出していた。髪を拭く間も無く、里子がコップと栓抜きを持って行くと、タミ子は貴志に里子の肌を褒めていた。里子が座ると、貴志は里子の袖を捲って腕を摩った。“ダメ!式が終わるまでは”と言って、タミ子は手を伸ばして貴志の手を叩き、里子の袖を直しながら“アンタは幸せだね”と言って、貴志と里子の顔を見入った。里子は顔の火照りをタオルで隠した。


昼下がりに戻ったが、里子は夕方までタミ子の傍に居た。里子は仏壇に花を供えてタミ子の後ろに座った。タミ子は亡き夫に貴志が嫁を取る事を報告して、里子を紹介した。“里子です。一生懸命お義母さんと貴志さんに尽くして、幸せな家庭を築きます。”タミ子にはそれで十分だった。タミ子は奥の二部屋を里子に与えた。新築してから未だ使った事のない、畳の臭いが残る部屋だった。


貴志の部屋に入ると、貴志は除け者にされて不貞腐れた顔をして見せたが、里子が謝ると直ぐに笑顔になった。里子は恥ずかしさにモジモジしながら、奥の部屋にベッドを入れたい事を告げた。貴志は里子の顔を覗きながら“シングルかい”“ダブルかい”と訊ね、

里子は顔を上げず、小さな声で“ダブル”と答えた。貴志は“え!”と聞き返し、里子を引き寄せて“そこで何をするの”と訊く。里子が顔を火照らせると、貴志は里子の頬を撫でて、長い口付けをした。


夕食後、里子は貴志に見送られてアパートに戻った。月が照り、空き地では花火の光と歓声があった。里子は、タミ子を囲んで子供達と暮らす日々を想った。部屋に入ると熱気で貴志の額から汗が噴出した。里子は窓を開けて扇風機と濡れタオルで貴志の額の汗を拭いたが汗は後から後から噴出する。貴志はTシャツを脱いで、上半身裸になった。里子は濡れタオルで背中を拭き、前に回って首を拭いた。貴志は蛍光灯の紐を引いて、里子を抱き寄せた。貴志の舌が入って来て手が胸を探ると里子は首を横に振った。貴志が手を止めると、里子は貴志の額、目、頬、口へ次々に口付けて裸の胸に右の頬を、左の頬を押し付けた。貴志は手離し難い想いで強く抱き締め、里子は息が苦しなる程のこの歓喜が何時までも続く事を願った。


 第十四節  「総務部」


スクーリングが終わって、里子は久し振りに工場の門をくぐった。三期の修了書を持って総務部に行くと、課長が待ち構えていた。応接室に入ると、課長は“おめでとう”と言って、辞令を差し出した。入籍による環境の変化等を考慮して、残業の負担の少ない総務部への転属を決定したとの事。尚、庶務業務の電子化が始まるので、力を借りたいとの事だった。


里子はロッカーの片付けをする為、高校を出たばかりの女子事務員を伴って現場に行った。女の子は里子の後ろを離れてついて来て、里子が声を掛けると、女の子は一層恐縮した顔をした。貴志の前ではか弱い乙女であっても、新入社員にとって里子先輩は上司や先輩から何度も聞かされていた名前だった。


工場に入ると、新設のラインは忙しく稼働していた。貴志が言うように、売れ行きの好調さを実感した。貴志と立ち上げ、貴志との愛を築いたラインだった。里子が感慨深げに見渡していると、ラインの一人が里子に気付いてライン長に告げた。一班のライン長が近付いて来て、ちょっと待つように言った。間もなくして、係長以下各ライン長が参集して、一声に“オメデトウ”と言うと、近くの作業員も手を止めた。里子は何度も何度も頭を下げてロッカールームに消えた。送別会をやるとの事で、貴志も一緒にとの事だった。


事務員の制服に着替え、課長に引率されて部長室に入った。部長は感嘆の声を上げて“事務員の服も似合うね”と言った後、仲人を快く引き受けた事、貴志の転勤に助力する事を述べ、里子はお礼を言って出た。事務所にはパソコンが一台設置されていて、本社から指導員が来ているとの事。里子は課長に断ってパソコンの電源を入れた。大学で使用しているのと同じソフトだった。里子が依頼されたリストをパソコンで打ち始めると、先輩の事務員や若い事務員が群がった。本来、事務員に班長職は無い為、肩書きを付けたまま移動した里子は彼女等の上司にあたる。

 

第十五節  「引っ越し」


嬉しさと慌しさの中で引越の朝を迎えた。貴志は夕方に大阪から戻り、明日は結納だった。敏子の足音が近付いてドアを開けると、昇は軽トラの荷台で段ボールの束を解いていた。残暑の残る秋空だった。敏子が思い出を語りながら箱詰めをしていると、昇が“明日になるぞ”と明るく言い、敏子は慣れた仕草で昇の汗を拭いた。


荷を積み終えると、昇はアイスとジュースを買って戻って来た。タミ子が首を長くして待っているとの事だった。残りのダンボールを積んで、昼前に掃除を終えた。敏子はトラックに乗り、里子は自転車でタミ子の元へ走った。タミ子は昇の好物を作って待っていた。昇も一人っ子で貴志とは兄弟のように育ち、休日はタミ子の家に居る事が多かったとのこと。従い、タミ子にとって昇は息子同然で、昇の伴侶はタミ子の嫁でもあった。


不在の貴志を肴に身内のような会話が弾み、一時になろうとしていた。里子は昇に促されて、トラックの助手席に乗った。敏子は玄関前で離れて座るように手で指図したが、里子が首を横に傾けて昇の肩に着けると敏子は

頬を膨らませ、昇は苦笑いしてエンジンを駆けた。


アパートに着くと、ガスの業者が待っていた。立会いを終えると、里子は大家に挨拶して思い出のアパートを去った。三・四十分足らずの時間だったが、家に戻ると敏子は里子を羽交い絞めにした。里子がタミ子に助けを求めると、タミ子は二人を前から抱き抱えて“今からでも遅くないよ、取り替えるかい”と言い、二人は首を強く横に振った。


運び入れた冷蔵庫と洗濯機を設置して、昇はレンタルの軽トラを返しに行った。タミ子は食器類を、里子と敏子は衣類と本を整理した。押し入れ付きの八畳と六畳の続きの部屋で、八畳の部屋にはベッドを入れる予定だった。敏子が残していった布団等もあって、六畳の部屋には開封出来ないダンボール箱が積み重ねられた。殺伐とした感はあったが、その分、里子にはタミ子と、又は貴志と家具を買い揃える日が楽しみだった。片付けが終わってお茶にした。タミ子の話題が赤ん坊になり、敏子は二十四までは作らないと言い、里子も大学を終えるまでは作れないと言うと、タミ子は大きく溜め息をついた。


順之助は、結納は形だけで貴志が顔を出せば良いとの事だったが、タミ子は結納の品を仏前に揃えていた。里子はタミ子に教わりながら、明日の準備をした。アパートから外してきた電話器と電話の権利書も入れて準備が整うと里子は早めに風呂に入った。汗臭い身体で会うのは、貴志にすまないような気がしたからで、タミ子は敏子にも風呂を薦め、里子は新品の下着と着替えを用意した。


陽が沈む前に、昇はタミ子に頼まれた寿司

を抱えて戻った。タミ子は昇にビールを薦め、里子は今日のお礼を言ってビールを注いだ。昇は里子の酌に上機嫌でいたが、風呂から出て来た敏子を見て“おっ”と声を上げた。敏子は”何、惚れ直したの”と訊くと、昇は咽ながら笑い声を立て、里子も釣られて笑った。少し大き目だったが、敏子には赤い服が似合っていた。


夕飯の支度を終えてタミ子が貴志の遅い帰宅に愚痴を言い出した時、車が止まる音がして里子は小走りで玄関に出た。貴志は里子に旅行鞄を預けて、タクシーの代金を払った。

“おう!先にやっていたぞ”“よう!有難う”男同士の挨拶である。里子は貴志の後から部屋に入り、貴志の着替えを受け取った。

風呂を点てた事を告げると貴志は先に風呂にすると言って、パンツを脱いで用意してあったバスタオルを腰に巻いた。貴志が前を向くと里子は俯いて火照る顔を隠したが、貴志は里子の頬にキスをして“ただいま”と言って出て行った。


里子は暫し呆然としていたが、貴志の脱ぎ捨てた下着にパンツを包んで洗面所に行った。着替えを籠に入れて、ワイシャツの襟を手洗いして洗濯機を回したが、貴志の裸が眼に焼きついて、顔の火照りは容易に冷めない。居間に出て行くと、敏子が“里ちゃんどうしたの、何か変なのを見たの”と冷やかした。里子がタミ子の背に隠れると、昇は涙が出るほど笑った。聡明でしっかり者と思っていたが、里子の少女のような仕草は以外だった。


貴志が風呂から上がり、ようやく乾杯になった。貴志が昇を見て“何かあったかい”と訊くと、タミ子は“あんたが、変な物を見せるからだよ”と言った。昇の笑いは止まらない、貴志は里子を見て、タミ子を見て、再び里子を見て“ごめん”と誤った。里子は貴志の“何”をもろに見た訳では無かったが、順之助や順一とは違って、身体を寄せ合う人の裸は愛しく、女の性が疼いたのだった。その晩、里子はタミ子の部屋で寝た。タミ子は“貴志が帰って来ても、此処で寝るのかい”と訊き、里子は本気でタミ子の手を抓ったが、貴志の男らしい肉体が目に浮かび、里子の女が疼いていた。


  第十六節  「結納」


翌朝、タミ子に見送られて上野駅を発った。タミ子は自分も行くべきか、何度も考え悩んだ末、結局、二人だけの時間を創る事を優先した。貴志はネクタイを緩めたが、順之助への挨拶が気掛りで緊張が抜けなかった。貴志を気遣う里子も戸籍上は順之助、トヨの子供で無くなる訳で、自分も何か言うべきなのかと思いを馳せていた。休日ではあったが指定席は空いていて、里子は貴志の肩に顔を埋めて幸福な夢に耽った。


貴志は里子にハンドバックと土産袋を持たせて、自分は両手一杯に荷物を抱えて階段を降りた。貴志の気遣いが里子には嬉しく、貴志の為なら自分もと思った。改札口には有子が手を振って待っていた。里子はスクーリングが有る為、年に一度しか帰省しなかったが、有子は年々愛くるしく綺麗になっていた。当然、男子生徒の注目の的ではあったが、OBである順一がしっかりガードしていた。


駐車場に着くと、順一は畏まった様子で二人を出迎えた。生活の為に働き続ける両親に代わって、幼少の頃から順一と有子の面倒をみてきた里子は、順一と有子には姉と言うよりは母以上に畏敬に値する存在だった。高校に行けたのも里子の助けであったが、小学校や中学校で聞かされた里子の評判が畏敬の念を強くさせていた。そんな姉の旦那さんになる人を、順一は尊敬の眼差しで迎えたのだ。


貴志は順一に軽く目礼して荷物を手渡すと、土産を買って来なかったのでデパートに寄りたいと言った。当時、デパートは一軒だけで、庶民には手が届かない所だった。修学旅行が近い有子は旅行鞄を選び、遠慮する順一に貴志は強引に背広を押し付け、順之助には酒を買った。 


車は中古でも順一の運転は滑らかだった。車が山沿いに入ると昨年までの砂利道は舗装されていて、里子がその事を貴志に言うと、有子が“百合子さんのお母さんが、此処で亡くなった”と言った。沼が見えてきて、カーブに注しかかると白い花が供えてあった。


家が見えてきて、坂道に沿って大小のハウスが点在していた。手紙に書いてあったように、順之助は桑畑を興してハウス栽培に精を出していた。急な細い坂道を上がって車が止まると、トヨが出て来て順之助と玄関に立って二人を迎えた。どの様に敷居を跨ぐかが貴志の大きな悩みであったが、結局、順之助に背を押されて跨いだ。順一と有子が貴志に買って貰った物を出して見せると、里子はトヨと結納の品を仏前に並べた。順之助と貴志が対峙して里子は貴志の後ろ脇に正座した。貴志が頭を下げて結納金を押し出すと、順之助は“里子を宜しくお願いします”と言い、俯いたトヨの目から涙が落ちた。


夕飯まで、里子は貴志を連れて家の周りを散策した。愉しみの無い寒村で、学校と家事の手伝いの日々だったが、身を粉にして働き続ける両親の有り難さは、幼少の頃から身に沁みていた。どんなに汗だくになっても、手が凍えても、トヨに“ありがとう”と言ってもらえれば耐えられた。棘がささっても、順之助に取ってもらう事を思うと我慢が出来た。幼い順一と有子を泣かせないように面倒をみてきた、里子は今まで誰にも話せなかった辛い思い出を貴志に話しながら、心の奥底に沈んでいた重荷が薄れ軽くなるのを感じた。貴志が目に涙を溜めて、里子の重荷を受け止めていたからだった。


貴志の目は、里子と苦しみを分かち、愛する者を慈しみながら里子を守って行こう、幸せの花を一つ一つ咲かせてあげようと言っていた。


普段口数の少ない順之助が快活に口を開き、夕飯は賑やかだった。ハウス栽培の野菜の出荷が順調で中古の耕運機を購入した事や、自分も車の免許を取って軽トラを購入したいとの事だった。免許取立ての貴志と順一は、車の時代がやって来ると、真顔で里子と有子にも免許の取得を勧めた。話が一段落すると順之助は待ち兼ねたように里子を見ながら切り出した。年内には家を新築するとの事で、間取りやカーテン選び等が大変だった話が続いた。


席の途中、トヨは里子を部屋に呼び入れた。ヨシコの葬式に出て来たとの事で、柱には喪服が吊るしてあった。トヨは仏壇の引き出しから通帳と印鑑を取り出して、里子の前に差し出した。嫁入りに持って行かせようと、里子の仕送りを貯蓄していたのだ。里子が首を横に振ると、“高校にも行かせず、サトには苦労を掛けたね”とトヨは頭を下げて涙を落とした。“お母さん、お陰で幸せになれた。私は何も要らない。”と里子は通帳を押し返した。トヨは嫁に出す側の立場や順一が給料を入れてくれるから大丈夫と言い、里子は新築の資金にと言い、通帳を押し合いしていると順一が呼びに来た。


里子は恥らいながら着替えを抱えて、貴志を外風呂に案内した。貴志は五右衛門風呂が初体験で、手を入れては熱いと言い、里子はカーテン越しに湯を混ぜるように声を掛けた。次に足板の沈め方を伝えたが、何度トライしても板は飛び跳ねて沈む事はなかった。里子はカーテンを開けて足の使い方を教示して、貴志が肩まで湯に浸かるとカーテンの外に出た。貴志の物を見た興奮が、里子の動悸を激しくした。


里子がカーテン越しにトヨとの一部始終を話すと、貴志はタミ子から“全財産出しても欲しい嫁なので、何も受け取らないように”言われて来たことを話した。従い、通帳を受け取ればタミ子に叱られるのは明白で、貴志は嫁入りの家具代だけを頂いて残りは貸した事にすれば良いと言った。里子はタミ子の想いを伝えて、家具代だけを受け取ることにした。トヨは“お義母さんに可愛がられて良かったね、お義母さんを大切に”と言い、里子は“無理しないでね”と言うと、後は言葉にならなかった。


貴志の次は順之助で、女は男の後から湯に入るのが通例だった。順之助は床に着く前に、明日の出発の時間を訊いた。乙女盛りの有子は洗い物をしながら貴志の顔に見惚れて、里子を捉まえてませた言葉を掛けた。里子は自慢気に、本社の優秀な社員で女性社員の憧れの的だった事を話すと、有子は里子の袖を引いて“触れても良い”と訊ねた。里子は女らしくなった有子の尻を軽く叩いた。


風呂から上がると、見送りの出来ない順一が貴志の酒の友を務めていた。隣の部屋には二組の布団が寄せて敷いてあり、一瞬、里子は目から火花が散ったが、貴志の着替えた下着と自分の下着を一緒に鞄に入れながら、恥じらう自分を叱った。里子は冷えたビールと空のコップを持って、囲炉裏の縁に座った。里子は貴志に冷たいビールを奨め、空のコップを貴志の前に差し出した。貴志は“おっ”と声を上げ、手を添えて里子のコップを斜めにして、貴志は初めて里子にビールを注いだ。順一はグラスを飲み干すと、明日の侘びを言って席を外した。飲み慣れない里子は、コップ一杯が限度だった。見る見る頬が火照り、項が紅く染まった。


トヨと有子が一緒に風呂から上がり、トヨは挨拶して真っ直ぐ寝室に入ったが有子は立ったままモジモジしていた。有子は諦めていなかった。里子が事情を話すと、貴志は“抱っこかい”と言い、有子は大きく頷いたが里子は間髪を入れず“ダメ”ときつく言った。

貴志は有子を座らせ、“可愛い妹が出来た”と言って頭を撫でた。有子はその腕を両手で抱えて頬を着けた。里子が手で離れるように合図すると、有子は立ち上がり際“おやすみなさい”と貴志の頬にキスをした。“ばか”と、里子は珍しく声を荒げたが、有子は貴志に手を振って部屋に上がった。


  第十七節  「契」


有子の仕草に貴志は“可愛いね”と言って、美味しそうにビールを飲んだ。“貴志さん”里子が語気を強くして呼ぶと、貴志は夢から覚めたような顔で里子を見た。里子は少し怒ったような口調で、貴志に言われた通りに母に話した事を伝えた。山間の夜は早く、長い、里子が後片付けを始めると貴志は名残惜しそうに部屋に入った。片付けを終えて部屋に入ると、貴志は電気を点けて寝そべっていた。里子が“そっちに行って良い”と訊いて電気を消し、深呼吸してパジャマを脱いだ。布団を捲ると貴志は左腕を枕代わりにして、里子を抱き寄せた。


貴志の右手が髪を分け、頬を撫でた。上半身を軽く覆いかぶせ、おでこに、左の頬に、唇にキスをして、優しく唇を吸った。里子は右手を貴志の背に回し、左手で肩口を掴み、貴志の動きに合わせて舌を絡ませた。混ざり合った唾液を吸いながら、貴志の右手が下着の上から左のオッパイを捕らえた。柔らかく、少し強く、ゆっくり撫でるように揉まれ、乳首が硬くなると、貴志は指の先と腹で乳首を撫でた。息が乱れ唇から逃れると、貴志の暖かい息と唇が首に触れ、項に触れ、唇に戻った。


貴志の腕の中で、里子は赤子のように寝入り、翌朝、車のエンジン音で目が覚めた。里子の顔を覗いていた貴志が“おはよう”と声を掛けると、里子は貴志の顔中に唇を当ててから起き上がった。下着姿で貴志の布団を捲ると敷布にも、貴志の下着にも生娘だった証が点在していた。里子は汚れた下着を丸めて鞄の底に入れ、敷布とタオルケットを抱えて部屋を出た


トヨは台所に立っていて里子は汚れた部分を素早く手洗いして洗濯機を回した。トヨが気付いて“いいよ”と言ったが、里子は火照る身体と顔を初秋の朝風で冷ましていた。


二人で遅い朝食を頂いている時、順之助が畑から戻った。食べ終えるのを待って、順之助は貴志にお礼を言った。貴志は笑みを浮かべて首を横に振り、“それは里子の物ですから、里子の好きなようにさせて下さい。”とはっきり言った。


第十八節  「再会」


未だ時間には早かったが坂を下り、砂利道に足を取られながら本道に出ると、学校を背にしてバスが向かって来た。順之助が手を上げると、バスは遠くからブレーキを掛けて目の前で停まった。貴志が荷物を受け取って、足早に乗り込むと、バス停の反対側から喪服を纏った女性がバスの前を通って乗り込んだ。里子は、バスが揺れ動くまで入り口で頭を下げ、前列の百合子に会釈して後部座席に座った。

 

平日のバスには他に乗り合わせる客も無く、エンジンの振動だけが伝わっていた。貴志の目が尋ね、里子も目で応えると、その場所が近付いて通り過ぎた。百合子は振り向きもせず、真っ直ぐ前を見ている。バスが町に入るとパラパラと客が乗り込み、百合子は大通りで白い化粧鞄を抱えて降りた。貴志の顔を伺うとポツリと“可哀想な人だね”と言った。市内に近付くと車内は込み合い、殆どの人が駅のバス停で降りた。混雑を避けて最後に降りると、駅の正面でタクシーが停まり、中から百合子が出て来た。女優の様な出で立ちは周囲の目を引き付けたが、百合子は無表情で駅の中に入って行った。


土産を買ってホームの階段に差し掛かり、

貴志が“痛い”と訊くと、里子は“少し”と応えた。それは初めて貴志と一体になった余韻であり、女になった証であった。貴志は里子を待合室の椅子に座らせて、飲み物を買いに行った。百合子の姿は無く、平日のホームは人もまばらだった。指定席に腰を降ろすと、貴志は気遣って“大丈夫かい”と訊き、里子が頷くと“ごめんね”と謝った。里子は顔を上げ、照れながら首を横に振った。“結婚式までは”と誓ったのも自分だったが、誓いを破ったのも里子自身だった。離れて暮らすには肉体的な絆も精神的な絆同様に大切なように思われたからだ。


ジュースを飲み干すと、貴志は里子の肩を枕にして寝入ってしまった。気疲れと昨夜の営みのせいだろうか、委ねた身体の重みが里子には心地良く、乳首が疼き、里子の秘部が貴志を感じていた。結婚式の日取りは未だ決まっていなかったが、処女を捧げた事に後悔は無かった。又、敏子の教えによれば、今は子供が出来ない期間であり、万一の時は、と思いをはせていると車内販売が来て、里子は弁当を一つ買った。貴志の嫌いな煮物を食べて、豚の角煮を貴志の口に運んだ。幸せな一時だったが一人で待っているタミ子の顔が浮かび、流れる景色がもどかしくもあり、止まってほしいとも思った。


家に着くと、荷物を置く間もなくタミ子は奥の部屋へ里子の手を引いた。ダブルベッドと寝具類を見せて“これで良いかい”と尋ねた。里子は予期せぬプレゼントに大きく頷いて、“お義母さん、有難う”と言って、タミ子の背を抱き締めた。居間で貴志の声がしたが、二人で幼い頃の飯事のように寝具を敷いた。湯上りにタミ子の部屋で髪を梳かしているとタミ子が入って来て、“未だ居たのかい”と冷やかした。“お義母さん”と言ったものの、里子の乳首は既に疼いていた。


薄明りの下で毛布カバーを半分捲って貴志が待っていた。里子はベッドの横に立ってパジャマを脱ぎ、貴志の目の前に火照る身体を横たえた。夢は前倒ししたが、生涯、貴志だけに捧げる身体だった。貴志の熱い口づけは頭から足の指先に続き、太股の内側に、乳首の上に、くっきりとキスマークを残した。


第十九節  「悲報」


巷には高度成長の兆しが漂い、クラブは入会を希望する会社が増えたが、席には限度が有って断るケースが多くなった。女の子も不足がちになって何度も広告を出し、その都度条件も変えたが適材は稀だった。勿論、女の子を引き抜かれないように目を配る必要もある。そんな中、休まず、選り好みしない百合子は重宝な存在で、店は手当てを上乗せして特別に扱ったが、百合子自身には仕事としての意識は無く、様々な客と過ごす時間の全てが百合子の生活だった。


家族的な愛も知らず、他の異性に走る両親の姿を見ながら育ち、同姓の友達も離れて行く中、孤独な百合子には異性を惹きつける事以外、他の生き方は考えられなかった。即ち、百合子には此処が唯一の居場所であり、クラブ勤めは天職だった。接待ゴルフや商談に付き添って海外に行く機会も増え、片言の英語も話せるようになった。同僚の多くは体臭や避妊具を付けない外人とのセックスを嫌ったが、慣れればその体臭もセックス同様に刺激的だった。次第に、外人の接待には百合子を同席させるのが暗黙の了解になり、百合子の存在価値は高まった。只、百合子の心配は病気であり服に着く臭いであったが、ママは病院を紹介して毎月検査をさせ、クリーニング代として余分にくれた。


ハワイ旅行から戻って留守電を聴くと、ヨシコの悲痛な声があった。運転手に彼女が出来て小遣いをやっても言う事を聞かなくなった事や、昨今の冷たい情事の内容をあからさまに告げて東京へ行きたいとの事だった。然し、時折若い子を連れて帰るマンションでヨシコと生活を共にする事は出来ない、結局、百合子は何時も通りに仕送りをした。


数日後、残暑が残る昼時だった。シャワーを浴びて留守電を取ると、聴き慣れない声があった。巻き戻して聴くと実家の運転手の声で、ヨシコが亡くなった事や通夜と告別式の日時を端々と読み上げていた。郵便受けを開けると総一郎の名前で「ハハシス、スグモドレ」の電報入っていた。百合子は行きつけの洋服店に喪服を注文して、ママに事情を話してタクシーを呼んだ。


移り変わる景色の窓越しに、百合子はヨシコの人生を偲んだ。田舎での暮らし、総一郎との生活に破綻したヨシコは実家に戻ってやり直す事を願ったが、実家は世間体を理由に離婚を許さなかった。話し相手の居ない田舎では、若い運転手と戯れる事だけが日々の生甲斐だった。ヨシコが上京して来た時の目の輝きを思い浮かべ、百合子は呼ばなかった事を悔やんだ。


夕方、駅に着いてタクシーに行き先を告げると、運転手は百合子の顔を繁々と眺めて顔を伏せた。始終、運転手は黙していたがその場所が近くなるとゆっくりと車を止めた。薄暗くなった水面には黒い月が揺らぎ、足元の花束は百合の香りを漂わせていた。


  第二十節  「疑惑」


沼沿いにはけやきの木が疎らに立ち、草が生い茂っているが、カーブが大きいので反対側から来ても見通しは悪くないと言う。よそ見運転による事故との事だが、余ほどスピードを出していないと沼の中までは入らない。男性二人は助かったが女性は逃げ遅れて、助けに行った時には息がなかったとの事、


百合子が“誰が運転していたの”と尋ねると、運転手は、“新聞には旦那と書いてあったがなぁ”と答えた。百合子は愕然として体が震えた。総一郎が運転免許証を取得した事は聞いていたが、総一郎が運転する車にヨシコが運転手と同乗する事は有り得なかった。


百合子が胸の開いたロングの喪服に真珠の首飾りを着けて階段を降りて行くと、玄関は人だかりになり、百合子が祭壇の前に座ってからも参列者は口を開けて洋画のワンシーンを追っていた。総一郎は百合子を一瞬見て目を伏せたが、百合子は総一郎を睨みながら祭壇に手を合わせた。総一郎の傍らには両家の近親者等が居たが、居並ぶ者は百合子の威厳に圧倒された。水商売とはいえ、日頃、百合子が相手しているのは大手企業のお偉方で、それなりの立ち振る舞いが身に着いていたからだ。


ハンカチを捲るとヨシコの顔は以前の面影を消し、急に老け込んで苦しみを溜めていた。百合子が憎しみを込めて振り返えると、総一郎は其処に居なかった。百合子は震える手でダイヤの指輪を外して、百合子の冷たい指に填め、シルクのハンカチを出して顔に被せた。振るえる足で階段を這い上がり、部屋に戻って百合子は泣いた。顔を診て、やはり総一郎が遣ったと直感したからだ。百合子の頭の中は“何故に”との疑念とヨシコの思い出が交差した。良き母とは言い難いが、百合子の目は総一郎への怒りで燃えていた。


階下が静かになって降りて行くと手伝いの女性陣は帰宅して、おばさんだけが食器の片付けをしていた。おばさんはヨシコの使用人で、百合子が物心付く頃から店番や家政婦をしていた。百合子がテーブルのおにぎりに手を出すと、お茶を入れながら“なんで旦那さんが運転したかね”と、遣り切れない思いを吐いて一升瓶を持って行った。東京の伯母達は実家に行ったが、総一郎の身内が泊まるとの事で隣の部屋から総一郎の声がした。独り取り残されたヨシコの手を撫でながら、百合子は冷たい手に何度も復讐を誓った。


運転手はマイクロバスをレンタルして、列席者を送りに出ていた。百合子は部屋に戻り、押入れからおもちゃの手錠と紐を出して、ベッドの脚に結んで枕の下に隠した。手錠は中学三年の夏、男の子が祭りで買ってきた物で、お互いにいたぶって遊んだ物だった。次に百合子はブラジャーを外して透け透けのネグリジェを身に着け、香水を吹き掛けた。白い胸の谷間とシルクのパンティーが見え隠れするのを確認して、ベッドの毛布を捲って運転手の帰りを待った。


ヘッドライトの明かりに百合子はドアを静かに開けて階段の中腹に立つと、玄関のドアが開いて運転手が驚きと好奇の目で百合子を見た。ヨシコに阻まれて、触れる事が出来なかった白いい太股が目の前にあった。百合子が靴を持って上がるように目で合図すると、運転手はドアを静かに閉めて百合子の色香を追って部屋に入った。


百合子は鍵を掛けて明かりを落とし、後ろから運転手のバンドを緩めてズボンの中に手を入れた。ブリーフの上から包んで撫でながら、片方の手でチャックを下ろした。男の物が勃起すると百合子は前に回って片膝を着いて、ブリーフをずらしてそれを銜えた。運転手が堪らず百合子の頭を押さえると、百合子は立ち上がってベッドに入った。運転手は逸る手付きで服を脱いで覆いかぶさろうとしたが、百合子は身体を入れ替えて上になった。運転手の胸に顔を埋めて乳首を責め、運転手の手が胸を弄り始めると百合子はずり下がってブリーフを脱がして男の物を銜えた。


車庫の板の隙間から見たそれをヨシコは美味しそうに頬張っていたが、百合子は噛み切りたい思いを殺して舐め回し、パンティーを脱いで挿入した。運転手が歓喜と恍惚の中で百合子の尻に手を回すと、百合子は両手を上げさせて枕の下に手を伸ばして両の手に手錠を掛けた。運転手は快感の中でまだ気付いていない、百合子は腰を浮かせてそれを抜くと、足を大きく開かせて再びそれを銜えながら紐を手探りした。左の足首に掛けると、百合子はベッドを降りて手探りで手表を探して右の足首に掛けた。


運転手は未だ百合子の魂胆に気が付かない、両手両足を大きく開いてプレーの続きを待っていた。百合子は明かりを点けてバスタオルを巻きながら紐の締め具合を確認すると、明かりを消して運転手の上に乗った。


百合子は総一郎に抱いた確信と、タクシードライバーが話した疑念を織り交ぜながら運転手を責めた。入水した時トラックのフロントガラスが破れて二人はそこから出たとの事だが、ヨシコは何故抜け出せなかったのか。

気を失っていたのなら、何故水を飲んでいたのか。何故ヨシコを連れて出なかったのか。

車の屋根がようやく隠れる水深なら、助け出す事は容易であったはずだ。総一郎の運転ミスとあったが余所見運転であれだけのスピードは出せ無いとの事だった。又、百合子が知る限り、ヨシコが黙って総一郎と同乗するはずは無いのである。


運転手は漸く百合子の魂胆に気付いたが、手足は繋がれ階下には人が居た。男の物は百合子の中で果てたが、萎える間もなく百合子は手と口も使って男の物を硬直し続けた。運転手の快感は悲痛に変わり、精根は尽きて屈辱の涙が滲んでいた。声を殺して哀願が続き、夜が深まる頃、百合子は事の真相を訊き出した。ヨシコの部屋でシャワーを浴びながら、百合子は闇夜の中で憎悪に震えていた。空が白み鳥のさえずりが聞こえてくると、百合子は隣の部屋から荷物を運び、運転手の片方の手錠を外してヨシコの部屋に篭った。


 第二十一節  「真相」


物音に窓を開けて上半身を外に出すと、総一郎と運転手がマイクロバスの前で言い争っていた。運転手が百合子に気付くと、総一郎も振り返って見上げた。百合子は総一郎に怒りの一瞥を向けて窓を閉めた。


百合子も眠れぬ朝を迎えたが、悲壮感を漂わせた百合子の面立ちは事情を知らない列席者の同情を浴びた。寒村の慣わしに従ってヨシコは土葬されたが、居並ぶ人の関心はヨシコの指に填められたダイヤの指輪だった。商談成就の報酬として頂いた物で、数ある中でも大きい方だったが、百合子にとっては些細な寝物語の一つで所詮は頂き物だった。


埋葬が終わって階下では身内がしめやかな宴を開いていたが、百合子が階段を昇り降りしてヨシコの和服や洋服を広げると争奪戦が始まった。百合子が惜しみなく装飾類を出すと、総一郎は険悪な顔を露にした。賑やかな階下の声を尻目に、百合子は異臭が立ち込める部屋の窓を開け放ち、シーツと敷きパットを丸めた。部屋を見渡したが思い出になる品は何も無い。階下が静まり返って、百合子はヨシコがよそ行きに使っていた時計とネックレスをおばさんにあげた。


翌朝、百合子は誰にも告げずにバスに乗り、隣町からタクシーに乗り換えて駅に着いた。電車に乗っても百合子の耳には運転手の告白の声が繰り返され、ヨシコの最後の悲痛な顔が目に浮かんだ。


その日、ヨシコと運転手は何時ものように市の郊外の連れ込み旅館で情事を終えて車に戻ると、助手席から総一郎が降りてきて、ヨシコを押し込めながら乗り込んだ。運転手は総一郎から言われた通りカーブの手前で加速して沼に突っ込むと、フロントガラスが割れて運転手はそこから脱出した。暫くして総一郎が出てきたが、ヨシコは出て来なかった。


百合子は、ヨシコが邪魔になったから殺ったのかと問うと、運転手は総一郎に言われた通りに沼に突っ込んだだけで、殺ったのは総一郎だと言い張った。距離的には村の方が近かったが村には医者も居ない。助けるのであれば街に行くべきだった、上野駅に着くまで、百合子は一つ一つの不審点を列挙しながら真っ直ぐ店に向かった。


 第二十二節  「過去の清算」


ママは未だ来ていなかったが、支配人がドアを開けて事務所のソファーに座らせてくれた。支配人が出してくれた熱い紅茶を飲むと、張り詰めた気持ちが緩んで百合子はソファーの背もたれに頭を着けて目を閉じた。


香水の匂いで目を開けると、ママは百合子の肩を抱いてソファーに座っていた。百合子は暫く黙していたが“母が殺された”と言うと、支配人は椅子から立ち上がりソファーの対面に掛けて百合子の顔を除いた。ママの後ろ盾は政治家で、支配人はその政治家の元運転手だった。支配人は裏社会とも面識が有って、陰ながら店の女性を見守っていた。百合子の話を聞き終わって、支配人は“どうしたいのか”と訊き。百合子は“仇討ちをしたい”と言った。


 総一郎は百合子が物心付くころから町に女を抱えていて、百合子と二つ違いの男の子が居た。小さな村落で、傍目には裕福な家庭ではあったが、百合子には総一郎との思い出が無い。それは仇討と言うよりも、過去の清算

だった。支配人は“分かった”と言って、百合子に決して他言しない事を約束させた。


開店の時間は過ぎていたが、ママは百合子を外に連れ出した。タクシーは高層ビールの地下駐車場で止まり、エレベータでエステサロンの有る階まで上がった。入り口ののれんをくぐると係の男性が立っていて、壁一面に接待係の写真と料金表が貼られていた。百合子はママのお薦めの子を指名して中に入ったが、ママは店員に金を渡して店に戻った。


個室の入り口には“使用中”の行灯が設置してあって、係の男性は明かりを点した。中に入ると浴室の入り口を挟んで手前側に化粧室とロッカールームが、パーテンションの陰には大きな洗面台に様々な化粧瓶が置かれていた。薄い浴衣に着替えて出ると短いガウン姿の男の子が待っていて、浴室の引き戸を引いた。大きめの泡風呂の右側にはマットが敷かれ、左側にはサウナとシャワーがある。百合子は浴衣を渡して泡風呂に浸かると、男の子もガウンを脱いで湯船に入った。ガウンの下は真っ赤なフンドシスタイルで、百合子の足下で胡坐になると足の裏を揉み始めた。それは指圧と言うよりは性感マッサージで、百合子は片方の足を男の子の股間に入れた。男の子は百合子をマットにうつ伏せに寝かせ、柔らかいスポンジにボディーシャンプーを着けて身体を撫でた。


おぞましい出来事への思いは薄れ、肉体は睡魔と疲れを感じて百合子は仰向けになって全身を男の子に委ねた。足の指の間を這った後、スポンジは太ももの間に滑り込み百合子は足を開いた。指をゆっくり局部の感じる部分に挿入して、浅く、深く、百合子の呼吸に合わせて出し入れした。百合子は男の子の手を乳首に導いて、フンドシの紐を解いた。髪の毛を洗ってシャワーを浴びると、男の子は百合子の全身を拭きながら百合子のような若い客は初めてで男の物が未だ興奮している事を告げた。百合子の睡魔は限界で、男の物を確認するとタクシーを呼ばせて男の子を持ち帰えった。


部屋に着くと男の子は広さに驚いてドレスやゴルフウエアが散在する部屋を遠慮がちに散策していたが、百合子は服を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。深い眠りから覚めてリビングに出ると、男の子はソファーの肘掛を枕にして寝ていた。カーテンの隙間からは既に陽が差していて、百合子は湯船にお湯を溜めながら男の子の子供っぽい寝顔を見入っていた。男の子は百合子と同じ歳で、地方から集団就職で出てきて職を転々しながら今の職に就いていた。中年のオバサンの性的欲求は凄まじく、予想以上の肉体労働との事だった。


オジ様方の相手をしている百合子にとって、男の子は弟のようなあどけなさを感じた。

起き出した男の物を摘み出して、百合子はそれにリボンを結んだ。男の子が目を開けると百合子はバスルームに走り込み、男の子はリボンを着けたまま追い掛けて来た。下着を脱ぎ捨てて湯船に入ると、男の子は百合子を羽交締めして湯船の淵を掴ませた。フレッシュな男の物がはき切れんばかりに後ろから突き上げ、精液が百合子の手元に飛び散った。満足気に腰を降ろした男の子に、百合子はお湯を掛けてはしゃいだ。


二人で遅い昼食を取ったが、電話一本で暖かい食事が運ばれて来ると男の子は驚愕し、百合子の素性が気になった。囲っているのがヤーさんで無い事を願いながら訊いても、百合子は笑うだけで答えなかった。男の子に小遣いを与えてタクシーで帰すと、百合子は店に出た。ママは百合子の顔を見て“私の坊やを取らないでね”と冗談半分、で言った。百合子も“ママはあの子に何をさせているの”と覗き込むように訊いた。


夜の巷では益々高度経済成長の色合いが濃くなり、百合子はおぞましい出来事を忘れるかのように勤めに精を出した。百合子の脳裏から記憶が薄れ掛けた初冬の深夜、百合子は支配人に呼ばれて部屋に入った。ソファーに掛けると、支配人は封筒から地方紙の切り抜きを出して百合子が読み終わると目の前で燃やした。総一郎と運転手の乗った車が崖から落ちて、二人共亡くなったとの記事だった。


夜釣りに行く途中に運転を誤った事故死と見られるが、総一郎は生命保険料一千万円を受け取ったばかりで、事件との両面で捜査中との事だった。総一郎が釣りをするとは思えないし、運転手と一緒に行くはずも無かった。支配人は机の下の金庫から小さな紙袋を出して、ドスの利いた怖い顔で百合子を見た。地方紙で包んだ中身は現金二百万円で、警察に訊かれたら見せるようにとの事だった。


リビングルームで電話の着信音が鳴り続けていた。(ヨシコが亡くなって間もなく、百合子は電話の番号を変えていたが)受話器の向こうから聞き覚えの無い声が響いた、警察だった。百合子は駐車場に迎えに出て二人の刑事を部屋に入れた。総一郎の死を告げられて百合子はソファーに泣き崩れ、何故、電話番号を変えたのかと訊かれて間違い電話が多いからと答えた。


質問がヨシコに掛けられた保険金に及ぶと、百合子は紙袋を出して上野駅で総一郎から渡された事を告げた。一人は紙袋と包みの新聞紙とお札の番号等を念入りに手帳に記入し、もう一人は百合子の勤め先とマンションの名義人等を尋ねて帰った。


刑事を見送って支配人に電話をすると、今日は店を休んで明日は墓参りに行けとの事だった。総一郎の仏前に線香を上げる気持ちは無かったが、疑われない為には行くしかなかった。ヨシコの実家に電話を入れると叔母が出て、直ぐに来るようと強い口調で言った。百合子はその日の夜に市内のホテルに泊まり、翌朝、タクシーで実家に向った。工場の煙突は活動を止めていたが長年染み付いた繭の臭いが一面に漂よい、百合子は吐き気を覚えた。叔母は遅れて来た百合子をきつい目で見たが、百合子は無視して仏前に座った。真新しい位牌が二つ並んでいて、一年足らずで二度目の葬式は誰の目にも異常だった。百合子はヨシコの位牌に仇討ちの成就を報告した。


総一郎の兄妹は叔母だけで、同じ村の役場職員に嫁いでいた。その小父に呼ばれて居間に行くと葬式の会計が一万円近く赤字との事で、百合子が手間賃を含めて余分に渡すと叔母は小さく肩を揺らした。話は財産の分与に移り、小父は裏紙を出して開いた。ヨシコが亡くなって間もなく製糸工場は閉鎖され店も閉じられていたので、資産の概要は家屋と工場兼倉庫と田畑だった。土地の価格は街の十分の一にも満たないが、宅地は村の中心部なので買い手は直ぐに出てくるとの事で、叔母は執拗に百合子の帰郷を尋ねた。小父は村人の為に店を再開したいとの事だが、家屋を欲しがっていることは明白だった。


百合子が“この家と村から早く離れたい”と、言いかけた時、玄関のチャイムが鳴って総一郎が街で一緒に暮らしていた女が男の子を連れて入って来た。総一郎は男の子の認知手続きを踏んでいないとの事で、法的な権利は全て百合子に有ったが、女は諦め切れず百合子の顔を見入り、叔母は傲慢な態度で女を見下していた。百合子は苛立って受話器を取ってタクシーを呼んだ。百合子は唖然と見入る叔母に家屋と工場等の建物の権利を与え、女には土地の権利書を与えた。叔母は満面の笑みを浮かべ、女は戸惑いの顔を向けた。百合子はバックから現金を包んだ新聞紙を出して女の前に投げ捨てると、女は中身を開いて驚きと感謝の念で幾度も頭を下げた。念書を作成したいと言う小父の言葉を無視して、百合子はおばさんに挨拶をする為に台所を覗いた。


勝手口には昨日会った刑事が居て、何やらおばさんに訊いていた。刑事の一人と目が合っておばさんも一緒に振り向いたが、百合子は無視して玄関の上がり淵に腰を下ろしてタクシーを待った。タクシーが着く前に小父は急いで念書を書き上げて百合子にサインを求めた。土地は全て女にと言ったはずなのに土地の件が記載されていなかった。百合子は語気を強めて、土地の権利書を記載しなければサインしないと言い放すと小父はしぶしぶ追記した。百合子は二度とこの地を踏むつもりはなく、頼って来られる事を避けたかった。


車のクラックションが鳴り、小父の追記を確認すると百合子はタクシーに駆け込んだ。

暫くして後ろを見たが警察の車の影は無く、百合子は漸く肩を下ろした。その場所が近づいて運転手はスピードを落としたが、百合子はタクシーを止めなかった。遠ざかる景色の中で百合子はヨシコの人生を振り返った。確かに総一郎は村一番の金持ちではあったが、ヨシコが夢見た資産家には程遠く、結婚の夢に破れ、男に貢ぐ惨めな末路だった。百合子は既にサラリーマンの一生分のお金を貯めていて、貯蓄は増える一方だった。同僚には稀に玉の輿に乗る者や囲われて辞める者も居たが、百合子には一人の男に束縛される日々は考えられない。流行のファッションに身を包み、色々な男との会話やダンス、ゴルフに旅行とセックスの刺激こそが百合子の生甲斐だった。何時の日かクラブを去る日が来るが、それはその時になったら考えれば良い。東京に着いたら真っ直ぐエステサロンへ行って、今夜は違う子を持ち帰ろうと思い巡らした。

  第七章  「八年目の春」

第一節  「タミ子と」


一緒に仕事をして彼女等の質の高さを実感したが、窓口業務担当の若い事務員は分担業務へ夢中になる余り接客業務がおろそかになる。又、問い合わせに直ぐに応えられず、先輩の事務員に替わる場面が多かった。里子は窓口業務を優先させる事によって評判を一新したかったが、其の為には定型業務の把握と、問い合わせの多い帳票類の記入マニュアルの作成が必要だった。


仕事を終えると、買い物をして帰宅するのが里子の日課となった。タミ子は先に帰宅していて、夕食も風呂の準備も整っていた。食事が済むと里子は風呂に行き、その間にタミ子は洗い物と明日の弁当の準備をした。髪を乾かす時間も惜しんで、里子は居間でマニュアルの下書きとレポートの作成に取り組み。タミ子は気を使ってテレビの音を小さくしたが、タミ子の声が聞こえた方が捗る事を伝えるとタミ子は遠慮なく音を大きくして里子に話し掛けた。世間の嫁と姑の関係は聞いていたが、里子は不思議な程自然にタミ子に甘えられた。タミ子には手を取って寝入る里子は、貴志の嫁と言うよりも我が子だった。里子が側に居れば心が癒され、里子の為なら疲れも感じなかった。


年末に入って課内は慌しさを極めていたが、カウンターでの帳票類記入の説明はマニュアルを見せるだけになり、窓口業務の無駄は大幅に解消した。パソコンによる勤怠管理の合理化も他工場に先駆けて準備が整い、本社からも一目置かれるようになった。何時しか先輩の事務員も里子に相談をするのが自然になり、課内は里子を中心に動き出していた。

課長は月の計画や翌日のスケジュール等を里子に伝えるだけで、課員への業務の指示は里子が行うようになっていた。課員は里子が課長の間に入ってチェックするので、肩を張る必要が無く“子供が出来ても辞めないで欲しい”と切望するようになった。タミ子の前に居る里子と、職場の里子は別人だった。


里子は課長と相談を重ねて、年の瀬の課内会議で非定型業務はローテンション制にする事を提案した。カウンターの前に窓口業務専用机を二台並べて、窓口業務と簡易な業務を組み合わせて当番で回し、窓口業務を優先させる事を述べた。そうする事によって他の者は担当業務に専念出来、定型業務の効率もアップするはずだった。その日、里子の顔は輝きを増し、誰の目からも貴志の帰省が予想された。焦がれる王子様を待つ少女を、タミ子は愛しい我が子を抱くように見守っていた。


年明け、窓口業務は一新した。社内の来訪者にも立って対応し、受話音も二回以上は鳴らさないようになった。時を待たず、外来者からの評判が工場長の耳に入り、総務課の変貌は課長会議を通して工場全体に涼風をもたらした。


当番の日、お茶を持って工場長室に入ると、工場長は待っていたように里子を呼び止めて、労いの声を掛けながら貴志の様子を訊いた。年が明けて、貴志は九州出張を命じられ、貴志は“これが最後の仕事”と言ったものの、遠のく距離に里子は不安を感じていた。里子の顔色を見て工場長は、調整が難航したが四月には転属させる予定である事を漏らしてくれた。本社でも貴志の評価は高く、電気担当が手薄になる事もあって上司の課長はしぶったが、工場長はかつての部下である課長を強引に押し切ったとの事だった。


  第二節  「家族」


四月一日、貴志の東京工場出向の辞令が掲示されたが貴志は未だ九州に居た。結果が得られるまで帰らないとの事で、結局、貴志は一週間遅れて東京に戻った。その日、タミ子は朝から台所に立ち、里子は買出しや材料の下ごしらえに追われた。夕方早く貴志の声がして玄関に出ると、日に焼けた貴志の顔があった。貴志と仏前に報告すると里子は直ぐに台所に戻った。タミ子の精魂込めた料理が次々にテーブル一杯に並び、頃合いよく昇の家族が席に着いた。タミ子の今日までの苦労を労った一声に、小母さんの目から嬉涙がこぼれ、タミ子の目からも嬉涙がこぼれ二人は身内のように手を取り合った。昇は技術部と品質保証部が帰りを待っている事を告げ、貴志の意向を尋ねた。


家電は毎年のようにモデルチェンジするが、製品の立上げが遅れると生産コストが嵩むし商戦にも負けてしまう。貴志は九州工場での例を踏まえ、本社設計部門とのパイプ役になって新製品の立上げに寄与したい旨を熱く話した。里子の胸はときめき“私も現場に戻りたい”と言うと、敏子は総務課における里子の働きぶりを貴志に聞かせた。そう言う敏子も四月から班長に任命されていた。誰からも好かれる敏子の人徳は職場の和を構築して生産の向上に大いに貢献していた。宴が進むにつれ、タミ子と小母さんの話題は初孫に及び、二人は視線を感じて顔を染めながら先を譲りあった。


 第三節  「新婚旅行」


朝礼で、工場長は自ら貴志の転入と、新製品立上げへの期待を紹介した。製造部長付きの主任で、役職は本人の希望で本社の侭だった。本社からの転属時には昇格するのが常だったので、場内はどよめきと拍手が鳴り響き、里子は改めて全身で貴志を支えなければならないと思った。


貴志の帰りは遅かったが、里子は家に仕事を持ち込まなかった。買い物をして帰宅すると、タミ子に教わりながら台所に立ち、貴志の身支度を終えるとレポートを作成しながら帰りを待った。先に“食べようか”と言うタミ子も、風呂に入って時間を過ごしながら貴志の帰宅を待った。


忘れてはいなかったが、里子は仲人でもある製造部長に呼ばれて結婚式の準備を言い付かった。“貴志君に声を掛けるタイミングが無い”との事で、部長は苦笑いしながら歩いて集めた式場のパンフレットを里子に渡した。タミ子は待ち望んでいたかのようにパンフレットを眺め、トヨに電話を入れて六月中旬の大安で日取りを決めた。翌日、里子はタミ子と駅で待ち合わせて式場を見学し、式場が決まると引き出物や衣装合わせ、招待状と貴志の手を煩わせないで二人で準備した。


慌しさの中、準備は着々と進んでいたが、問題は新婚旅行だった。里子が何度お願いしても“人様に笑われるから”と言って、タミ子は首を縦にしなかった。タミ子は沖縄戦で亡くなった兄の慰霊に行く機会が無く、里子は一緒に行く事を切望した。トヨからも頼んでもらったがタミ子の承諾が得られないまま、パスポート取得の期限が迫っていた。


土曜の夜、里子は“お義母さんが行かないなら、私も行かない、どんな綺麗な場所も、美味しいご馳走も、お義母さんが一緒でなければ食べられない”と、貴志に泣きついた。貴志は寝入ったタミ子を起こして両手を着いた。泣きじゃくる里子に“分かった、行くよ、一緒に寝るかい”とタミ子が言うと、里子は嬉しそうに頷いた。貴志は里子の以外な一面に驚きながらもタミ子への想いが嬉しく、子供のような里子に愛しさを感じた。


翌朝、貴志は里子の腕の中で目覚めた。見上げた顔は満面の笑みで、柔らかい唇が瞼に触れ、唇に触れた。貴志が捕まえようとすると、里子は“早く起きて”と言って逃れた。貴志が食卓に着くと里子は味噌汁を温め、ご飯をよそうと洗濯機を回しにいった。タミ子は電話で沖縄行きをトヨに話し、貴志に“早くしなさいよ”と言って着替えを始めた。然し、何時も待たされるのは貴志だった。里子の化粧道具はタミ子の鏡台に並べてあって、一つの鏡に二つの顔を映して無駄話しをしながら互いを確認しあっていたが、貴志には口を挟む余地は無かった。


結婚式の前日、順之助一行が上京して来た。迎えに行くはずの貴志は未だ会社に居て、タミ子はしきりに頭を下げた。一通り話しが済むと順之助は亡き主人に線香を上げたいと言って、順一と有子を制して部屋に入った。

線香を上げ終えると、順之助は座を降りてトヨを促した。トヨはハンドバックから封筒を取り出して、“里が仕送りしてくれたお金です”と言ってタミ子の前に差し出した“お母さん、この子無しではこの先生きていけない、お金を出したいのは私の方です”とタミ子は封筒を押し返した。“サトには何にもしてあげられなかったので”トヨの声は涙に咽た。里子は“お母さん、お父さんのお陰で私は今幸せです。有難うございました。“


長女故に甘えられず辛い事が多かったが、お互いを思いやり愛情に満ち溢れた日々が、走馬灯のように蘇り消えていった。今、里子の胸は、順之助、トヨと一緒に暮らした日々よりも、もっと長い年月をタミ子と暮らし、それよりも長い年月を貴志と共に生きる喜びに震えていた。“良かったなぁ里子”初めて見る順之助の涙は喜びで溢れていた。“お父さん、この子の弟、妹なら、我が子も同然です。順ちゃん・有ちゃんの将来の為に使って下さい”とタミ子が言うと、順之助は微笑んで何度も頷いた。里子は口を開きかけたが、違っていたらと迷いながら口を閉じた。


里子がお茶を注いでいると、“只今、すみませんでした”いつになく大きな声で貴志が帰宅した。有子は待ちかねたように玄関に駆け寄り、貴志の腕を取って戻って来た。順之助が“有子に取られるぞ”と言うと、座は笑いで包まれた。


貴志の着替えの後ろで、里子はほくそ笑んでいたが言うべき場では無かった。貴志が座に交じると、車の音がして昇が“おばさん、手伝う事は無いかい”と玄関から声を掛けた。タミ子は作業衣姿の昇を上げて、“あんた、敏ちゃんを連れて来なかったのかい”と言って皆に紹介した。駅前のホテルには伯父・伯母が待っていて明晩はホテルで二次会を行い、明後日の朝に戻るとの事で、出席出来ないタミ子は頭を下げた。昇が順之助達を送って出ると夕飯を後回しにして荷造りが始まり、お土産のリスト作りが続いた。


早朝、昇が迎えに来た。髪を結い、着付けが終わりかけた時、着物姿の敏子と小母さんがおむすびを持参して顔を出した。小父さんは貴志の父親役でタミ子と並んで座る事になっていた。艶やかな敏子に“私より目立たないでよ”と、里子はこの時までは未だ余裕だったがその後は操つられた人形だった。緊張の中、無我夢中で披露宴が終り、空港へのタクシーの中でようやく一息吐いた。出席者の大半は会社の関係者だったが、貴志が幼少の時に父親を亡くした事を知る者は稀だった。


里子は工場長の祝辞が耳に残った。“貴志君は母一人子一人の環境に負けず、アルバイトをしながら優秀な成績で○○大学を卒業し、本社でも技術部のホープです。”そして、新郎の父親代わりである昇の家族が今日まで支えて来た事への感謝を述べると会場は拍手の渦となった。最後に、“東京工場のキーマンである貴志君が思う存分仕事が出来る家庭を築いてほしい”と、工場長は里子に深々と頭を下げた。


里子は、他人に負けまいと思って勤めて来たが、貴志の貢献度に比べれば些細な事だった。貴志を支える事の方がより会社の為であり、貴志の為だと思うと肩が軽くなった。然し、里子には家で待つよりも現場で貴志を支える方が向いていた。


里子を挟んで窓側にはタミ子が座り、那覇空港までは後二時間だった、タミ子の喜ぶ顔を思い浮かべながら里子は逸る気持ちを抑えてタミ子の手を取った。男の子、女の子、貴志はどちらを欲しがるだろうか、子供が産まれたら何と呼ぼうか、思わず里子は“貴志さん”と口に出した。貴志は振り向いたが、里子は顔を染めて黙った。タミ子が“どうしたんだい”と言うと、里子はタミ子の肩に顔を埋めた。貴志は里子の幸せそうな顔に微笑んで前を向いた。


第四節  「百合子八年目の春」


 凡そ昼と夜の生活が反転している百合子のような女性達にとって、家族は妨げ以外の何ものでもなかった。中には家族のためと称して無理にグラスを乾してボトルをキープさせ、又はきつめのガードルやブラジャーを身に着けて客の下心を拒もうとするが、客がそれに気付けば後はない。益して、大半の客の目的が若い女の子の素肌にあるならば、この商売には分り切った限界があった。


 然し、自分が場の中心に居る今、百合子にはそんな先のことを考える必要は無かった。寧ろ、ヨシコに煩わされないで済むことへの解放感と、今般の件で(女の子達の様々な揉め事を処理している)強面の支配人と繋がりを持てた事が心強かったのだが、其れは又別の危険も含んでいた。


一年が過ぎて、ホトボリが冷めたと思われた頃、支配人の態度が豹変した。はじめは店の客だったが、次第に店では見かけないその筋の男達を無理やり紹介された。百合子はその都度マンションへ連れ込んだ訳だが、其処には何の報酬も無いばかりか、暴力的なセックスが多く、百合子は日々恐怖心を募らせていった。


支配人の態度が豹変したのはママの依頼でもあった訳だが、自尊心の強い百合子は未だ気づいていなかった。…男が女性の体を求めるのは、それが神秘的なうちだけで、愛がなければ一度抱いた体の価値は半減する。…


百合子は逃れる様に東京のマンションを売って、鳥丸線沿いのマンションを購入した。京都に引っ越してキャバレーに勤めたが、クラブとキャバレーでは客層も比べものにはならなかったし、言葉の違いにも馴染めなかった。貯蓄が目減りする中、一年足らずで其処も売り払って東西線沿いの賃貸マンションに移った。百合子は“こんなはずじゃない”と

自問する、


 十年の年月が過ぎて、百合子は離島のスナックに居た。カウンター奥の右手には細長い台所と作り付けの二段ベッドがあって、左側には四畳半の和室と勝手口があった。和室には寂しげな顔をした小学生の娘がテレビを見ながら店が閉まるのを待っていた。


東京では、月々の手当てが郵便受けに入っていたが、東京を出て以来、初めに産んだ娘とは音信不通になった。今居る娘は、男の援助を得るために産んだ訳だが、町工場を営んでいるその男は家庭を持っていて、昨今は不景気とのこと。


 人の出入りも少ない離島の漁村で、百合子は朽ち果てた裸を鏡に映し、在りし日の想い出に涙を流した。

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山間のバス停にて @2068591

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