Dear K

尾八原ジュージ

Dear K

 そいつに出会ったのは夜だった。暦の上では春だが、まだまだ寒い頃だった。

 電車を降りてふらふらと改札を出ると、駅の出口付近の暗がりに、オーバーサイズのパーカーを着た髪の長い華奢なシルエットが立っていた。それを見た瞬間、俺にふと魔が差したのだ。

 近づいてそいつを抱きすくめたとき、さてそこからどうしたかったのか、俺はもう思い出すことができない。ただ女の子の悲鳴を聞きたかっただけなのかもしれない。ところが実際のところはというと、数秒後に悲鳴をあげていたのは俺の方だった。片腕を捻り上げられ、顔のすぐ前にアスファルトがあった。

「何すんの、おっさん」

 そいつは男の声で言った。

「いたたたたた」

「おい何すんのって聞いてんだけど」

「いたいいたいごめんなさい」

「謝ったら済むか? チカンだろこれ犯罪だよ。交番いこ。すぐそこだから」

「ごめんなさいごめんなさい」

 あれだけ自暴自棄になっていたのに、このまま警察に突き出されるのだと思うと、途端にとてつもない恐怖が押し寄せてきた。それまでほとんど忘れていた郷里の両親だの祖父母だのの顔が脳裏をよぎり、不特定多数の人間が「人殺し」と罵る声が聞こえ始めた。そんなとき「イヤだったらお前んち泊めろ」と言われ、俺は二つ返事で「どうぞ」と答えた。

 そいつはトミーと名乗った。苗字もクソもない、ただトミーと名乗っただけだった。身長は俺の肩くらい、脱色した金髪は色が戻りかかってプリン状になりつつ、少し内巻きに肩にかかっている。卵型の輪郭の中に、お人形さんのように整った目鼻がくっついていた。色あせたハーフパンツからすらりとした脚が伸び、くたくたになったスニーカーを履いている。この時期にしては寒そうな格好だと思った。一見しただけならヤンキーっぽいがなかなかの美少女だな、という感じで、しかし実のところこいつは男だった。

 トミーはでっかいリュックをひとつ肩から提げていたが、それはほとんど空っぽで、べこべこになった『And Then There Were Noneそして誰もいなくなった』のペーパーバックが入っていた。後になってわかったが、それがトミーの全財産だった。

「飯ある?」

「うち? ない」

「じゃあ買ってって」

「わかったわかった」

 何しろ断れば警察に突き出されるのだから言うことを聞くしかない。俺はトミーの指示に従って、コンビニで弁当やら飲み物やら下着やらを買わされた。トミーはツンととがった鼻を上向きにして、俺が会計するのを眺めていた。

 俺の家は一軒家を改築したアパートの一室で、部屋数は少ないが鉄筋コンクリート造りの、結構しっかりした建物だった。少なくとも隣近所の音が筒抜けなんてことはなかった。

 トミーは「いいとこ住んでるじゃん」と言いながら、俺が鍵を開けた玄関を勝手に開けて中にズカズカと入り、とっととスニーカーを脱いだ。靴下には盛大に穴が空いていた。

「シャワー借りるわ」

 と言うが早いかトミーは風呂場の前の廊下でパッパと服を脱ぎ始め(まぁ脱衣所がないからしかたないのだが)、俺はそいつが間違いなく男であることを確認する羽目になった。色白の背中に大きなケロイドがあるのが、妙な異質さと存在感を俺に与えた。

 シャワーの音を聞きながら、俺はコンビニで買ってきた下着を袋から出して、バスタオルと一緒にお供え物のように風呂場の出口に置いた。やがてサッパリした顔で出てきたトミーは礼のひとつも言わずに新品のインナーシャツとボクサーパンツを着ると、「忘れてた」と言いながら脱ぎ散らかした服を勝手に洗濯機に放り込み、下着姿のまま弁当を電子レンジに放り込んで片っ端から温め始めた。温まるのを待ちながら、彼は「おっさん、名前は?」と俺に尋ねた。しかたなく「秦野慶」と答えると「ケイちゃんね」と言っただけでそれ以外のリアクションは何もなかった。


 そうやってトミーは俺の家に上がり込んだ。まるで態度のでかい野良猫に住みつかれたような気分だったが、人間なので野良猫よりも金がかかった。

 トミーは俺の部屋でゴロゴロしながらテレビを点け、勝手にパソコンを点けてネットをし、エアコンも自由に使った。毎晩ベッドを占領し、俺は床に布団を敷いて寝る羽目になった。

 食費も倍になり、俺が文句を言うと「惣菜ばっか買ってくるからじゃね? ケイちゃんが作ったらよくね?」とふてぶてしいことを言った。「お前暇してるんだからお前が」と言うと、俺の鼻先に人差し指を押し付けたトミーはドスの効いた声で「警察いくか?」と言い、俺は口がきけなくなる。警察と聞いただけで、胃の奥がギューッとなって冷たい汗が額に浮いてくるのだから仕方ない。

 俺のお古のジャージを着たトミーは、彼女が部屋に遊びにきたみたいで正直ちょっとかわいかった。が、しかしそれどころではない。俺はこいつを完全に持て余していた。いつ出て行くのかさっぱりわからない、金と飯を食うだけのトミーははっきり言って俺のお荷物だった。

 せめてこいつも家事をするとか、何か役に立ってくれればいいのだが――実際トミーは暇しているはずで、ベコベコの『And Then There Were None』をどうやら繰り返し読んでいた。本が好きなのかと思ったが、家にある他の本や雑誌は読まなかった。

 俺はネタがわかっているミステリを何度も読むのはなぜだろう、その時間をせめて家事に費やしてくれと思っていたが、さっぱりそんな気配はなく、トミーはやっぱりお荷物のままだった。


 ある平日、出先から直帰した俺は普段よりかなり早く帰宅した。夕焼けが窓から差し込み、部屋の隅に暗い影を作っていた。不思議と寂しくなるような夕方だった。

 トミーはベッドで丸くなって眠っていた。ちっちゃいこどもみたいに俺の毛布を抱きしめている。そういやこいつは一体何歳なんだ? すでに半月は一緒に住んでいたのに、俺はそのとき初めて疑問に思った。

 そういえば、俺はトミーのことを何も知らない。いったいどこから来たのだろうか。野良猫みたいに何も言わないから聞かなかったけれど、彼にもどこかに家があって、家族や友人がいたりするのではないか。

 まだあどけないような寝顔を眺めていると、なんだかそのすべすべした頬に触りたくなった。静かに手を伸ばすとトミーがううんと唸った。ほっぺたは暖かくて柔らかかった。最初にうっかり抱きしめたときの、折れそうな骨の感触が腕の中に蘇った。

 気が付くとトミーが目を開けて俺を見ていた。

「早いね」

 そう言われて、うん、と答えた。なんだか以前こういうことがあったな、と思うと同時に、ベッドの中のトミーがリカとだぶって見えた。

 そうか、彼女とこういうやりとりをしたことがあったっけ。

 気が付くと俺は泣いていた。トミーが茶色の明るい瞳で、俺を不思議そうに見つめていた。俺の頭の中で、リカの甘えたような舌ったらずの声がよみがえった。

(ケイちゃん、あたし別の人と結婚するの。だからもう会えないんだ。ごめんね)

 そう言われて取り付く島もなく、それでもとりすがろうとした俺をリカは嗤った。

(バカなの? だからもう会えないって言ってんじゃん)

 きっぱりと言い渡されて、バカで鈍感な俺はようやく、自分が浮気相手だったと知ったのだ。リカと結婚するつもりだったのに。今までの人生で一番好きになった女だったのに。

 俺はそのとき一旦リカと別れて、ひとりでひっそり帰ろうとした。でもそうはならなかった。思い切って踵を返すと彼女の後をつけ、駅のホームから突き落とした。特急列車がホームに入ってきた。悲鳴が上がった。

 俺はそこから逃げ出した。走って、走って、それからのことはトミーに会うまであまり覚えていない。事件がどうなっているのか調べてもいないのでわからないが、ともかくこの半月、俺は警察に捕まることもなく、普段通りに会社に行って、普段通りに生活している。何も変わらない。ただこいつが家に住み着いただけ。そしてリカがいなくなっただけ。

 トミーはいつになく大人しかった。俺は彼の背中にすがりつき、肩に鼻先を埋めて子供のように泣いた。

「俺だって心があるんだよ」

 そう言うと、トミーはそうだな、ごめんと言った。違うんだよお前じゃないんだ、俺の元カノのことなんだよ、と言いたかったけれど言葉が出てこず、俺は違うんだよ違うんだと繰り返すしかなかった。

 やがて落ち着きを取り戻した俺は、鼻をすすりながらぽつぽつと懺悔を始めた。俺、恋人だと思ってた女を殺したんだ。殺人で警察に捕まるかもしれないんだという告白に、トミーはうんうんとうなずいた。

 それから俺たちはどちらからともなく、狭苦しいシングルベッドに並んで仰向けになり、空がだんだん黄昏て天井が暗くなっていくのを眺めた。不思議な時間だった。

 オレの両親、アメリカで死んでさ、とトミーが言った。

「オレたち、ホラー映画に出てくるみたいな荒野の一軒家に住んでてさ。二人とも日本人なんだけど、何でアメリカに移り住んだのかは知らない。家では英語だったり日本語だったりしたけど、勉強は英語でさせられたな。だからオレ、日本語苦手なんだよね」

「いや、結構上手だと思うけど」

「ダメダメ、読み書きできねーもん」

 トミーはもう一回ダメダメと笑った。

「学校も行かせないで家で勉強させられたっけな。友達なんかいらないって言われて、一生ここで細々暮らしてったらいいって親が言うんだよ。家には大人向けの本しかなくって、でもわけがわかんないなりに『And Then There Were None』だけはなんとなく好きで、何度も何度も読んだよ。庭に畑があってさ、そこでしょっぱい野菜育てて、パンとかだけどっかに買いに行ってさ。俺は滅多によそに連れてってもらえなかったな。ほんと何だったんだろなぁ、あの人たち。何考えてたんだろ?」

 それは俺に向けた質問ではなかったので、俺は何も答えなかった。黙ってトミーの話を聞いていた。彼の話を途切れさせたくなかった。

「オレ、十二くらいで身長伸びるのが止まってさ、そんときふたりとも喜んでたな。何なんだろ。何があんなに嬉しかったんだろうな。全然わかんねぇの。で、去年の秋にふたりとも死んだ。自殺したんだよ。家に灯油まいて火ぃ点けて、ふたりでオレをギューギュー抱きしめて、でもオレ、熱いし苦しいしでとにかく死に物狂いで逃げたんだ。気が付いたら背中が焦げてたし、持ち物はとっさに掴んだ本しかなくなってたけど、生きてた」

 俺はトミーの背中にある大きなケロイドのことを思い出した。トミーは続ける。

「それから親戚がいる日本に住むことになったんだけど、俺の父方の伯父っていうのがやっぱロクなもんじゃねえのな。飯食わしてやるから言うこと聞けって言われて、思い出したくないような生活が始まった。ケツにスプレー缶入れられて血が止まらなくなって、オレここにいたらロクな死に方しねーなと思って、そこも逃げ出した。そいつの家から持ち出した金で適当に電車に乗って、とにかく遠くに行こうと思ったんだ。ここの最寄りに着いたところで金がなくなって、ぼーっとしてたらケイちゃんが抱き着いてきてさ、助かったわ。神様かと思った」

 トミーはそこで口を閉じ、俺の方を向いて微笑んだ。

「俺、神様だったのかよ、そのわりに扱いが雑だぞ」

 トミーはごめんと言って少しだけ俺の近くに寄った。二の腕同士が触れてそこだけ温かかった。

「オレがあいつんちに戻されるのが先か、ケイちゃんが警察に捕まるのが先か、どっちだろうな」

「さぁ」

 そのときふたりの腹が同時に鳴った。トミーが大声で笑った。俺コンビニ行ってくる、と言って起き上がると、いってらっしゃいと返ってきた。


 それからトミーはちょっと優しくなったが、ある日帰ってくると突然いなくなっていた。本当に何の前触れもなく出て行ったのだ。

 トミーは俺の家から金や貴重品を持ち出したりはしなかった。俺が買ってやった服と靴と、例の『And Then There Were None』を持って行った。

 テーブルの上にはコンビニのレシートが裏返しになって置かれており、ボールペンで「Dear K」と書かれていた。その後も何か書いたらしかったが、上からぐちゃぐちゃに塗りつぶされており、判読できなかった。ただ末尾に「Thxありがと」とあるのは読めた。

 それからトミーがどこにいったかわからない。俺は今でも逮捕されることなく、ひとりぼっちで暮らしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Dear K 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ