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俊哉しゅんや、もう店はやらないのか?」

 夕暮れの居間にしゃがれた、野太い声が響いた。それを聞いた僕はすぐに、「ああ、今夢を見ているんだな」と思った。

 店というのは一階のスナックのことだ。祖母の死をきっかけに閉店してしまい、それっきりになっている。

「無理だよ」

 僕は誰もいない場所に向かって答えた。

 店として使われなくなってから、一階は急に老朽化が進んだ。まず炊事場の水道が壊れて、蛇口をひねっても水が出なくなった。玄関のドアノブも、内側から回らなくなってしまった。トイレも故障のために水が流れなくなって久しい。でも、我が家にはそれらの修理に割くお金がなかった。

 あらゆる設備が壊れ、ただスツールやテーブルセットが並んでいるだけの場所で、ふたたび店を開くまでには手間と費用がかかるだろう。そもそも、もう一度スナックを開店させたところで、ふたたび客が来るかどうか怪しいものだ。

「それじゃあしょうがねえな」

 ふたたび耳障りなしゃがれ声が響いた。


 肩を何度も叩かれて僕は目を覚ました。目覚まし時計を見ると、深夜の一時過ぎだった。

「兄ちゃん」

 枕元に小夜が立っていた。「起こしてごめん。でも音がするから……」

 僕は耳を澄ました。彼女の言う通り、階下からゴトン、ゴトンという音がする。それはまるで、誰かが重い足を引きずりながら一階を歩き回っているように聞こえた。

「そうだね」

「今日、大きくない?」

「そうかな」

「ねぇ、一緒に寝ていいでしょ」

 僕の返事も聞かず、小夜は僕の布団に潜り込んできた。横向きになった背中に彼女の額が当たる。布団と枕越しに、ゴトン、ゴトンという重苦しい音が耳に届く。

「ねぇ、あいつさ」

 小夜が何か言いかけたのを、僕は途中で遮った。

「ほっとけよ。大丈夫、小夜は何もしてないんだから」

 小夜は口ごもった。僕は何も気にしていないような口調で「おやすみ小夜」と続けた。

「……おやすみ、兄ちゃん」

 背中に小夜の体温を感じながら、僕はふと幼い日に戻ったような気分になった。両親の離婚が成立し、母の実家であるこの家に転がり込んだ頃、僕たちにまだこんな屈託はなかった。

 僕は小夜を、あの頃の小夜に戻してやりたくて時々たまらなくなる。


 階下の音は相変わらず続いている。

 今夜はなかなか寝付けそうにない。

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