十七
ここは時間が止まった様に、何も変わらない。
都内から車で二時間程。山の中の緑に囲まれた小さな家。あの家で、母は生まれ育ち、龍也も母が病に臥せってからはここで育った。そこから歩いて数分の距離に、顔も知らない先祖と祖父母そして母の眠る墓地がある。
途中で買った花は、助手席に置いた。
もし、母が生きていたらきっとここに座っただろう。いや、もしかしたら後部座席で運転をする息子の姿をニコニコと見ていたかもしれないな。
母と山岡が離婚した頃の記憶は、あまりない。そもそも「仕事が忙しい」事を理由に、都内のあの家には帰って来ず、綾川家の近くにアパートを借りていたと聞いた。離婚したからと言って、あの家での母と二人暮らしに変化は無かった。
母は、近くのスーパーマーケットでレジ係として働きに出た。半年も経たないうちに、母は倒れた。後になって祖母から癌だったと聞いた。
分かった時は手遅れだったらしい。龍也の小学校入学時期と重なり、後々の事も考え母の実家へと引っ越した。
それから暫くは幸せな日々だった。山の自然は子供だった龍也を魅了し、山を知り尽くした祖父は最高の先生だった。ただ、母の病状は日を追うごとに悪化し、あっと言う間に帰らぬ人になっていた。
葬儀の朝、祖父が見知らぬ男と玄関で言い合っていた。龍也は穏やかだった祖父が声を荒げる姿に、物陰から動けなくなってしまった。周りが何とかたしなめようとしたが、祖父は頑として譲らず、男は静かに頭を下げて帰って行った。龍也はただ恐ろしい物を見るようにしてその男の背中を見ていた。
それが山岡、龍也の父親だった。いや、本当に父親なのか。
大人の目を盗んで、去ろうとする男の背中を追った。男の向かった先には、喪服姿の女が居た。今、綾川家で家政婦長をしている和子だ。
「そっか、仕方ないね。でもさぁ、あの子って本当に山岡君の子なの? 先生の子供だったりして」
そう楽しそうに笑った。
あの子とは自分の事なのだろうか。
先生とは、誰の事なのか。
そして、笑っているのか。
これらの答えに気が付いたのは、中学一年、祖母が死んだ頃だ。
母の死の翌年、祖父母は母の残した保険金で家を建て替えた。龍也の部屋も用意してくれた。しかし、その頃から祖父の酒量は増え、あんなに教えてくれた山の事も教えてくれなくなり、家に閉じこもりがちとなった。
中学の時、祖母は脳梗塞で倒れそのままとなり、祖父と二人だけの生活になった。
「先生って誰」
そう尋ねると、酒で虚ろになった目で祖父は龍也を見た。
「ん? どこのだ?」
「母さんの葬式の時に、じぃちゃんが追い返した男と一緒に来てた女が言ってたんだよ。あの子は先生の子かもって」
祖父の酒を飲む手が止まった。
「なんだって?」
「俺の父親は先生ってやつなの?」
「そんな訳ないよ」
「でも……」
今ここで聞いておかないと、祖父まで失ったら何も分からなくなってしまう。そう思った。
「安心しろ、お前はじぃちゃんの孫で間違いない」
誤魔化された。
そう思ったが、それ以上は何も聞けなかった。
ただ、あの日から祖父は何かにつけ
「いいか、ちゃんと勉強しろ。勉強して立派になれ。大学も行くんだ。いい大学にな。学費はここを売ってでも出してやる」
と言っていた。
過去を思い出しているうちに、車はどんどん山の中を進んだ。
到着すると直ぐに、助手席の花を持って墓へと向かった。
年に数回、藤乃が学校行っている間に、訪れて家の中に風を通したり墓掃除をするためにここへ来ていた。
そうしないと小さな家と墓地は、自然に飲み込まれてしまう。
「母さん、じぃちゃん、ばぁちゃん、ただいま。とうとう今日やるよ」
祖父の言う通り、一生懸命勉強をした。
高校はそこそこの進学校の合格通知を受け取った。しかし、入学して直ぐに祖父が死んだ。
学校から帰って来ると、祖父は玄関で大量の血を吐いて倒れていた。
あれほど、酒は控えるようにと医者からも龍也も言っていたのに、酒の量は減るどころか増える一方だった。
ただ、本当に優しい祖父だった。
そして知った。
祖母の残した保険金、そして山岡から毎月送金されていた養育費全てが、祖父の酒代へと消えていた事を。
祖父は、家を建て替えるのは本意ではなかった、と酒に酔った祖父の幼馴染が通夜の席で教えてくれた。娘の死んだ保険金で建てた家になんか住めないと。
しかし、これから先龍也を養育していく上で、古い家では龍也が可哀そうだと祖母が押し切ったらしい。
そして、後もう一つ。
母と暮らしたあの家の名義が龍也になっていた。
「ただいま」
誰からの返事もないが、母や祖母、祖父の声が聞こえてきたような気がした。
車の後部座席とトランクには、必要な道具は揃っている。
山岡の事は、自身の戸籍謄本を見て知った。
夏休みは生活費の為にアルバイトを、と思っていたが祖父が結構な額の保険金を残していた事と、山岡から毎月送金されている養育費で、高校三年間の生活費と大学四年間の費用はなんとかなりそうだった。
龍也は思い切って戸籍に載っていた山岡を調べた。
確かに、その住所のアパートの郵便受けには『山岡』とあった。
アパートを見張った。
無断で家を空けても、誰からも咎められないのは楽だったが、寂しくもあった。
その部屋の住人は、遅くに帰って来て、早朝に出かけた。
気付かれないように、あとを付けると、山岡は大きな屋敷に入って行った。
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