第四章

十六

 ここ最近の浩三は本当に機嫌が良かった。

 藤乃が学校を代わると言い出した時は、少々うろたえた。あの学校は妻の美代も、娘の冬子も通い卒業した学校だ。

 しかももう三年生。思いとどまる様に言おうとも思ったが、確かにあの二人は不幸な人生だった。美代も冬子も早くに浩三を残して亡くなってしまった。何かを断ち切る良い機会なのかもしれない。

 後を継いでくれるのなら、綾川一族も納得だろう。綾川家の遠縁から藤乃の縁談が持ち込まれていた。義父のはとこか従兄弟かたしかそんな血筋の家の者だ。跡継ぎの居ない浩三の国会での席狙っているのは明らかだ。

 これから数年間、藤乃に様々な勉強と経験をさせよう。大学在学中に海外留学させるのも効果的だ。知らなかったが、幸いにも藤乃の学校の成績は非常に良かった。

 中学生の頃から優秀な男を執事兼家庭教師として雇っておいたのは得策だった。結婚は好きな相手とすれば良い。政治家の跡取りなど、今の時代男でも女でもどちらだって構わないのだから。


「お祖父様、びっくりするくらい機嫌が良かったのよ」

 龍也の腕の中で、藤乃が微笑みかけた。

「それはよろしかったですね」

「そんな言い方しないでよ。普通彼氏ってそんな言い方しないでしょ?」

 少し口をとがらせる藤乃を龍也は、改めて強く抱きしめた。

 今夜で最後になるかもしれない。

 いや、なるのだ。

 そう思うと、更に身体が藤乃を求めた。

 そして藤乃も同様に龍也を求めていた。


 そろそろ藤乃を寝かさなければ、疲れた顔の藤乃を見送る事になってしまう。

「そろそろお休みになってください」

 時間は既に午前1時を回っていた。

「うん……でも……」

 離れがたそうな藤乃の姿に心が揺らいだ。

「楽しみで眠れませんか? 遠足や運動会の前の小学生みたいですね」

「あら、私遠足も運動会の眠れなかった事ははいわよ?」

 心外と言わんばかりに藤乃がベッドから起き上がった。

「では、一緒に荷物の確認をしましょう。忘れ物があってはいけませんし」

 龍也はベッドから降り、素早く床に散らばった自分と藤乃の下着と部屋着を拾い集めた。


 結局一時間ほどかけて、一度詰め終わった荷物を広げ再度チェックをして詰めなおした後、やっと藤乃は眠った。


 数時間後、寝不足がありありとわかる藤乃が、真由に見立ててもらったと言う旅行用の黒地に赤い小さなバラが幾つも描かれた生地のワンピース姿で迎えの車が来るのを部屋で待っていた。

「龍也は亡くなったお母さんのお墓参りに行くのよね」

「はい、久しぶりに二日間のお休みを頂く予定になっております」

「久しぶりも何も、ここへ来てからお休みの日ってあったかしら?」

「ときどきですが。でも、まぁ、少し手のかかるお嬢様がいましたもので、なかなか」

 龍也はそう言って藤乃を背後から強く抱きしめた。

「もう、なによ」

 楽しそうに笑う藤乃の声が、一瞬母の笑い声に聞こえた。

「じゃぁ、後は計画通りに……」

 藤乃はそう言い残して部屋を出て行った。



 真由が手配していた大阪のホテルは、パークに一番近いホテルだった。

「ずっとこんな時間が続けば良いのに」

 藤乃は何度も同じ事を言って、真由と美々子を笑わせた。

 言葉の本当の意味を、二人はまだ知らない。

 大阪から戻れば、計画は実行に移される。いや、すでに始まっているのだ。 

 それに、前回のディズニーランドとは違い、今回は浩三に嘘をついていない。

 罪悪感なく、時間を気にする事なく 堂々と楽しい時間を過ごせる。

 つい数か月前までは、学校の、屋敷の隅でただ時間だけが過ぎるのを息をひそめて待っていた。

 このまま時が止まってしまえば良いのに。

 本当にそう思えた。

 三泊四日の間だけは何も考えず楽しむように、龍也からも言われた。

 その間に、龍也がすべての準備をする事になっている。

 全てを忘れよう。

 ただ一つ。

 どうしても目にとまると思い出す事があった。

 ほとんどのアトラクションが妊婦の登場を禁止している。

 その表示を見る度、手が自然とお腹に行ってしまう。

 まだ、確定ではないし……。

 藤乃は、そう自分に言い訳をした。


 散々遊んで部屋に戻って来る頃にはクタクタなはずなのに、シャワーで汗を流すと疲れまで流れていくのか、興奮で眠れないのか、三人は毎晩飽きる事なく喋り続けた。

 中でも藤乃は何かに取り憑かれたようにはしゃいでいた。

「藤乃、すごく楽しそう」

 つい数ヶ月前までの藤乃を知る美々子は、藤乃の様子に驚いていた。

「ミミは楽しくないの?」

 実際、藤乃は本当に楽しかった。

「楽しいに決まってるじゃない」

「私も楽しい!」

 シャワーから出たばかりで、まだ髪すら乾かしていない真由が二人に飛びついた。

「やだ、真由髪くらい乾かなさいと風邪引くわよ!」

「藤乃が、お母さんみたいな事言う!」

 真由が何気なく言った言葉に、空気が凍りついた。

 藤乃には母親はいない。

「もう、変な空気になったじゃない」

 藤乃が笑うと、二人はほっとした表情を見せた。

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