第二章
六
その夜、藤乃は早々にベッドに入った。
仕事を終えた龍也は藤乃の部屋へと向かった。
「藤乃様?」
返事がない。
寝たのか?
藤乃を起こさないよう、そっと部屋に入った。
「お母様だったの……」
藤乃は眠っていなかった。
最後まで見てしまったのか。
本当は、見て欲しくなかった。見てしまえばあの女が誰かを知ってまう。
「何がでございますか?」
起き上がった藤乃の顔は酷く泣き腫らしていた。
「あの女の人、お母様だったの……」
「まさか……」
上手く驚けただろうか。
龍也は、あの女が藤乃の母綾川冬子である事は最初から知っていた。
「間違いないわ……」
藤乃の目に再び涙が溢れだした。
龍也は、何も言わず藤乃を抱き締めた。
「お母様は、そう言うお仕事をしてたの? それとも本当に、襲われていたの? どうしてお祖父様はこれを見ていたの? 自分の娘よ?」
藤乃は混乱しているのか、泣きながら龍也にまくし立てた。
「申し訳ありません。私がこの屋敷に来たのは、藤乃様のお母様がお亡くなりになって随分と経ってからですので、何も存じ上げないのです」
「そうよね、ごめんなさい。でも、もう頭の中がぐちゃぐちゃなの」
大粒の涙が藤乃の目から零れ落ちた。
涙が出るだけまだマシと言う事もある。
龍也は母を亡くした時の自分を思い出した。
そっと、藤乃の肩を抱くと、そのまま藤乃は龍也の胸の中でひとしきり泣いて、そのまま眠ってしまった。
どうして一人で見てしまったんだ。
泣き腫らした顔で眠る藤乃を見て、厚化粧の家政婦長が恨めしくなった。家政婦長の手伝いさえしていなければ、自分が藤乃の側にさえい居れば、動画を最後まで見る様な事態には決してしなかった。
龍也は冷やしたタオルを用意し、気絶した様に眠る藤乃の目を冷やした。こうしておけば、明日朝酷い顔で学校に行かなくて済む。
藤乃の寝顔を見ながら、これから先藤乃に待ち受ける事を本当に藤乃が乗り切れるのか、心が苦しくなった。
それから週末まで藤乃は、何事もなかった様に過ごした。
ただ、心の中は大混乱のままだった。
当初の目的であった美々子一家との旅行など、藤乃にとっては取るに足りない事となっていた。
龍也の運転する車で美々子と登下校する間は、楽し気に話す美々子に微笑んで相槌を打った。どうやら、美々子はあの朝助けてくれた大学生と仲良くなったようだ。
金曜の夜、浩三と山岡が屋敷に戻って来た。土曜日曜と二日間浩三配下の議員や支援者を集めて行われる屋敷での会食の為だ。
「山岡さん、お話があるの。私の部屋に来ていただけるかしら」
少し屋敷を離れている間に、藤乃の雰囲気が変わったように山岡は感じた。
政治に興味を持ち、大学生の間は勉強と称してこの屋敷に出入りし、大学卒業後は秘書見習いとして浩三の元で働き始めた。
そして今、この屋敷の事は山岡に聞けば何でも分かると言われるほどになっていた。
「はい、では十分程すれば手が空きますので、お伺いしますね」
「お願いね」
自室へと向かう藤乃の後ろ姿は、亡き冬子にそっくりだった。
約束どおり、山岡は藤乃の部屋を訪ねた。
この部屋に入るのは数年ぶりだ。
「ごめんなさいね山岡さん。お忙しいのは重々承知してるんだけど、今しかないと思って」
藤乃は少し思い詰めた表情をしていた。
「はい、大丈夫でございますよ。で、何でしょうか?」
その問いには答えないまま、藤乃はノートパソコンを山岡に向け動画を再生させた。
「これが何かご存知よね」
山岡は、額に吹き出した汗をハンカチで拭った。
知らないとは言えない。おそらく、この全裸の女性が誰なのか藤乃は知っている。
山岡は藤乃を見据えた。
「はい、冬子様の事件の時のものです」
「事件?」
「はい、これは冬子様が誘拐された事件でした」
「誘拐? お母さま誘拐されたの?」
「はい、そうです。ただ、これ以上の事は私は申し上げる事は出来ません」
「そう……」
申し上げられません、山岡がそう言った時は何をどうしても話さない事を藤乃はよく知っていた。
「ありがとう、それだけよ」
「はい、では失礼しますね」
何事も無かったように、山岡は微笑んで部屋を後にした。ただ、額には玉のような汗がまだ吹き出していた。
山岡と入れ替わるように、龍也がやって来た。
「やっぱり山岡さんは知っていたわ」
「もう、山岡さんにお尋ねになったのですか?」
「母が生きていた頃のことを知るのは家政婦長の和子さんと山岡さんだけだもの。山岡さんに聞くのが一番早いと思って」
確かに和子に尋ねるのは自殺行為だ。浩三の居ない屋敷の中で、主の様に振舞っており、時には藤乃にすら尊大な態度をとる事がある。
「仰る通りかと」
「誘拐事件だったんですって」
そう、あの動画は母が誘拐され、強姦されている様子を撮ったものだったのだ。それを見て欲情してしまった自分が汚らわしく思った。
「私、調べてみようと思うの」
「事件をですか?」
「そうよ」
藤乃の決意は固かった。
私は、お母様の事を殆ど覚えて居ない。部屋に飾ってある写真の中だけの人だった。
でも、今は違う。
「何故お母様があんな目に遭ったのか。そして、お祖父様が何故あれを見続けているのか。私は……」
藤乃が言葉に詰まった。
龍也は静かに藤乃の言葉を待った。
「私は、あんな動画、二度と見たくない」
今にも目から涙が溢れそうだった。
だめよ、泣いちゃダメ。そんな暇はないわ。
固く握りしめられた藤乃の拳を、龍也は悲しい目で見ていた。
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