藤乃は「おやすみなさいませ」と自室へと戻る龍也の背中を見送りながら、軽率な事をしてしまったかもしれないと不安に襲われた。

 でも、唇には龍也の唇の感触が、胸には龍也に触れられた感覚が残っていた。

 あのまま拒まずにいたらどうなっていたのか。

 そんな事を考えていたら、妙な胸の騒めきを感じ、眠れたのは窓の外が明るくなってからだった。

 


「おはようございます」

 翌朝、いつもと変わらない様子で手入れの行き届いた藤乃の制服を持って来た龍也の様子に、藤乃は益々不安になった。

 嫌われてしまったのかも知れない。怒っているのかも知れない。あんな事、しなければよかった。

 藤乃は肩を落とした。



「やっと二人っきりになれましたね」

 学校へ向かう車の中、ミラー越しに龍也が微笑んだ。

「何だか元気がありませんが、大丈夫ですか?」

 藤乃もミラー越しに龍也を見た。

 表情は明るくなり、頬を赤くした藤乃は、昨夜より可愛く見えた。

「ううん、何でもないわ」

 嫌いなったわけじゃなかったんだ。

 それだけで藤乃の心は華やいだ。

「昨日は、その……途中で…ごめんなさい」

「謝らないでください! 私も急ぎ過ぎました。私は、藤乃の御心が決まるまで待ちます。いつまでも、待ちます」

 藤乃は、嬉しそうに頷いた。

 龍也も昨夜は急ぎ過ぎた事を反省していた。

 何も急ぐことはない、時間はたっぷりあるのだから。




 やっぱり、藤乃の車に来て貰えば良かった。

 満員電車の中で美々子は後悔していた。後ろに立って居る男子高校生に、スマートフォンでいかがわしい動画を見せつけられていた。動画の中の女は全裸の女は悶絶とも恍惚とも取れる表情をしている。

 こんなを事して何が面白いのかしら。

 美々子は徹底的に無視をした。

「!」

 見ないようにしてやり過ごしていた美々子のお尻に、硬い何かが押し付けらた。それが何なのか、美々子にも分かった。電車の揺れに合わせているつもりだろうか、ごそごそと動き始めた。

 やめて!

 大声を出したかったが、突然の事に声が出なかった。

「おい、お前、なにやってんだよ!」

 近くに立っていた長身の若い男性がが怒鳴ると同時に、男子高校生からスマートフォンを取り上げた。




 美々子が教室に姿を現したのは、午後の授業が始まる直前だった。

 放課後、藤乃は美々子の元へ駆け寄った。

「藤乃、お願いがあるんだけど」

 美々子は何も語らなかったが、痴漢に襲われたらしいと言う噂は美々子が登校してくる前に既に皆が知っていた。

「車、乗って帰る?」 

「うん、お願いできる?」

「もちろんよ」



「お帰りなさいませ」

 龍也が藤乃と美々子に後部座席のドアを開けた。

 美々子が、藤乃と龍也の顔を不思議そうに見た。

 女の勘は鋭い。

「何かいつもと違う?」

「いえ、特別何も変わっておりませんよ」

 そう言って藤乃を見る龍也の視線に、美々子は察した。

 なるほど、そう言う事ね。



 二人を乗せた車が滑るように走り出した。

「今日はどうしたの? ミミが連絡もなく遅れて来るなんて、何かあったのかと思って、凄く心配したわ」

 藤乃にとっては初めての友達だ。

「ごめんね。実はその何かがあったのよ」

「え?」

 車が美々子の自宅の前に着くまで、痴漢にあった事、助けてくれた大学生の事、そして警察に行った事、を話した。

 今もお尻にあの感触が残っているようで気持ち悪かった。

「ミミ、大丈夫?」

 藤乃の心配そうな顔に美々子は吹き出した。

「大丈夫よ。確かに何か気持ち悪いけど、うん大丈夫」

 美々子は、大丈夫と言いながら助けてくれた大学生を思い浮かべていた。

 



 屋敷に戻った藤乃は、部屋で一人時間を持て余していた。

 龍也は週末に屋敷で行われる多くの支援者が集まる会食の準備に駆り出されている。

 昨夜の出来事が思い出された。

 次あんな風になったら、どうしよう。あの先に待ち受ける事に興味はある。

 もっと龍也に抱きしめられたい。

 でも……。

 あの後に待ち受ける、その時どうすれば良いのか、出来れば知っておきたかった。

 昨夜は準備不足だったから、不安だったし後悔してしまったのだ。

 そうだ!

 藤乃は、会食準備の様子を見に行った。

 まだまだね。

 龍也は、家政婦達にこき使われていた。


 部屋に戻った藤乃は「これも勉強よ」と動画を再生した。



「ちょっと楠田君、棚の上の箱を取ってくれない? 大事な食器だけど重いから気を付けてね」

 初老の家政婦長から言われるがまま、箱を取った。

 もし、あの動画を藤乃の最後まで見れば直ぐに気付くだろう。まだ藤乃が気付く必要はない。何も知らないままでも、もう構わない。昨夜の藤乃の思い出すと、そんな二十年も前の事、今更もうどうでも良いだろうと、この二十年間の思いが全て吹き飛ぶ。

 しかし……。

 龍也の心は揺れていた。

「次は、あの箱ね」

 今日の家政婦長は化粧が濃い。



 昨日、龍也と見ていた所で再生を一度止めた。

 すぅ、と息を吸って気持ちを落ち着け、再生を押した。


 この意識の無い感じ、演技には見えないんだけど……。


 膝を立て広げた女の中に、男が押入った。全てが映し出されてしまっている。

 女は相変わらず抵抗する事なく、ぐったりとしたまま、されるがままだった。

 これじゃ、あまり参考にならない。

 藤乃が知りたかったのは、こんな時、女がどうすれば良いのか、なのだ。

 画面が暗転した。

 終わりかと思い停止を押そうとした時、再び画面が明るくなった。ベッドには女が座っている。目隠しはされたままだが、洋服を着ており、手も縛られてはいない。

 女は目隠しに手を伸ばした。

 ゆっくりと目隠しを外した女は、部屋の明かりの眩しさに目を細めた。

 藤乃の手が震え、鼓動が大きくなり始めた。

 カメラを見つめる女と目がったように感じた。

 藤乃にはその顔に見覚えがあった。

 女の名は綾川冬子。

 藤乃の母親だった。

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