藤乃の母も祖母も桃美女学園の卒業生で、藤乃は幼稚園の頃から通っている。

 祖母が在学していた頃は華族や士族の令嬢しか入学出来なかったそうだが、時代の流れと共に学園も様相を変えていた。

「ごきげんよう綾川さん!」

 朝、教室に入るなり美々子が駆け寄ってきた。美々子は全国にチェーン展開している『レストラン山村屋』の創業者一族の娘だ。

「ごきげんよう、山村様」

 消え入りそうな声で藤乃が答えた。

「山村様何て呼ばないでよ、初等部からずっと一緒なんだからミミって呼んで! 昨日、うちのパパが綾川さんのご自宅にお邪魔したらしいの。ウチのパパと遭遇しなかった?」

「いえ……」

 昨夜の来客は二十名程だったらしいが、藤乃は誰とも顔を合わせてはいない。

「とっても素敵なお庭だったってパパが言ってたの!」

「それは、ありがとうございます」

「一度、遊びにお伺いしても良いかしら?」

 ほら、来た。藤乃は唇を噛んだ。

「祖父に聞いて見ませんと……」

 浩三の存在をチラつかせると、大抵の場合引っ込むのだが、美々子は違った。

「じゃ、お祖父様に聞いておいてね!」

 流石お商売をされているお家の方ね、押しが強いわ。

 藤乃は思わず感心してしまった。

「ええ……」

「ありがとう!」

 美々子は足取り軽く、自分の席へと戻って行った。


 この日から美々子は授業が終わると、迎えの車まで毎日藤乃について歩いた。

 屋敷への訪問を急かす様子もなく、ただ何かと藤乃にまとわりついた。

 


「仲良くされたいだけではありませんか?」

 龍也が、藤乃の制服の手入れをしながら言った。

「どうして?」

「友達になるのに理由など要りませんよ」

 龍也は藤乃が中等部に上がった春、綾川家家政婦長が人選し雇われた執事で、藤乃の身の回りの事は全て龍也が行っていた。

 総理候補に名が挙がるようになった浩三は、屋敷に戻らない日が続いており、そのためか藤乃にとって常に側にいる龍也の方が家族の様な存在になってしまっていた。

「先ずは明日、藤乃様からご挨拶されてみてはいかがです?」

「そうね……」

 藤乃にとっては、それはなかなかに高いハードルだった。


「や、山む……ミミ、ごきげんよう……」

 龍也のアドバイスに従って、今朝は藤乃の方から声をかけた。

 一瞬驚いた顔をした美々子は、物凄い勢いで藤乃に駆け寄った。

「ごきげんよう、綾川さん!」

 藤乃が警戒をする間もなく、美々子が藤乃に抱き着いた。

 美々子のボーイッシュな見た目とは裏腹な豊満な胸と腕に包み込まれてしまった。

「私の事は、藤乃と呼んでください」

 美々子に抱きつかれたまま、藤乃はいつもよりも少し大きな声で言えた。

 こうして誰かに抱きしめられるなんて、いつ以来だろうか……。

 伝わってくる美々子の体温に、藤乃は泣きたくなった。


 結局、藤乃は浩三の許可を得る事なく美々子を屋敷に招待した。

 いつもは一人で乗り込む後部座席に、二人並んで座った。

「良いわねぇ。満員電車に乗らなくて良いなんて」

 美々子がため息をついた。

「電車通学は、そんなに大変なの?」

「そりゃもぅ! 最寄駅の沿線って学校が多いから毎朝阿鼻叫喚よ」

 賑やかに屈託無く話す美々子に、龍也は好感を持った。

 この子なら大人しすぎる藤乃様のお友達として、良い影響を与えてくれるだろう。

「ね、楠田さんも学生の頃は電車通学大変だったでしょ?」

 美々子が龍也に同意を求めた。

「そうですね。私は途中で音をあげて自転車通学にしました」

「世の男子どもが皆んな楠田さんみたいに自転車通学にしてくれれば、少しは電車通学も楽になるのに!」

 美々子の言い草に、藤乃も龍也も思わず声を出して笑った。

 龍也が、藤乃の執事となって六年目、藤乃がこんな風に笑う姿を初めて見た。



 家政婦の誰かが点数稼ぎでもしたつもりだろうか、美々子の訪問は直ぐに浩三の耳に入った。

「勝手に人を呼んではならんと、あれほど言っておいた筈だが」

 顔を合わせた途端に叱られてしまった。

「はい、でもミミ……山岡様のお父様はお祖父様のお知り合いなので大丈夫かと……」

 そんな騒ぐ程の事でもない。

 ただ庭を散策しただけなのだ。

「誰も信用しちゃならんとあれ程言っているのに! 私の職業は政治家だ。いつ何処で誰にどの様に陥れられるか分からない。いい加減理解しなさい。友達と遊んでいる暇があるなら、さっさと結婚して跡取りを産むか、地盤を継ぐ為の勉強でもしなさい。私に何かあったら、お前はどうするつもりなんだ!」

 浩三の怒鳴り声に、隣の部屋にいた山岡が部屋に飛び込んで来た。

「先生、藤乃ちゃんはまだ高校三年生なったばかりですよ」

 幼い頃から、藤乃が叱られるたびに、山岡はこうして庇ってくれていた。

「誕生日が来れば十九だ」

 藤乃が下を向いた。

「それはそうですが!」

 山岡は引かなかった。

「お前は黙ってろ!」

 怒りの矛先が山岡に向かいそうになったので、藤乃は折れるしかなかった。

 山岡に非はないのだ。

「お祖父様、勝手な事をして申し訳ありませんでした。私の今後については、暫く考えさせてください」

 小さな声だった。

「何だ、聞こえない!」

 藤乃は、黙って頭を下げた。

「先生、藤乃ちゃんもこうして謝っていますし……」

「ふん……。まぁ、良いだろう」

 浩三の怒りが落ち着いたので、藤乃は部屋を出た。



 泣いているかもしれない。

 慌てて山岡が後を追ったが、既に部屋に閉じこもってしまった後だった。



 藤乃は、泣いてはいなかった。

 そんなに陥れられるのを心配するのなら、私が陥れてあげるわ、お祖父様。私をいつまでも子供だと思わないで。

 窓の外では、庭の薔薇が風に揺れていた。

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