第一章
一
桃美女学園に、この日の授業終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
高等部の教室から、まだ幼の残る少女達が一斉に出て来る。自宅へと帰る者、部活動へと向かう者、どこか街へ繰り出そうとしている者。
歴史ある桃美女学園の制服は紺色のワンピース。トレードマークでもある桃の花モチーフの校章が胸元に刺繍されており、白い襟は少女達の表情を明るく見せている。
そんな中、綾川藤乃は人目を避けるように黙々と校門に向かっていた。
腰まで伸びた長い髪が艶やかで、サラサラと風になびいている。
「綾川さん、今日もお迎えが来てるの?」
後ろから声をかけられた藤乃は驚いて足を止めた。
クラスメイトの山村美々子だった。
母親が元有名モデルだとかで、そのスタイルの良さは母親譲りなのだろう。頭ひとつ分、藤乃より背が高い。少し癖のある髪は子供の頃からショートヘア。理由は朝の準備が楽、と言うだけあって少々の寝癖は気にもしない。
「ええ……」
消え入るような声しか出なかった自分に落胆し、藤乃は再び歩き始めた。
「満員電車に乗らなくて良いなんて、羨ましい!」
「そ、そうね……」
藤乃は慌てて歩く速度を上げた。逃げてるみたいだと自分でも分かっている。
振り切るつもりで速度を上げたのに、美々子は一緒に来るつもりのようだ。
「校門までご一緒していい?」
「ええ、どうぞ」
そう返事はしたが、藤乃の歩く速度は変わらなかった。
「綾川さんて、歩くの早いのね」
藤乃と美々子は桃美女学園の初等部から同じクラスだったが、会話をするのはこれが初めてだった。これが会話と言って良いのなら。
二人が校門に到着すると一台の車が滑り込むように現れた。
運転席から綾川家の若い執事楠田龍也が降りると、近くに居た少女達が一斉に龍也を見た。
二十代後半、整った顔立ちに高い身長、長い手足。少女達の目を引くのも当然だった。
「おかえりなさいませ」
龍也が後部座席のドアを開けると、藤乃は急いで乗り込んだ。
「綾川さん、ごきげんよう。また明日ね」
ドアを閉める龍也に見惚れながら、美々子が藤乃に声を掛けると、藤乃の口元がごきげんよう、と動いた。
「お友達にご挨拶されなくて良かったのですか?」
運転をしながら龍也は藤乃に声をかけた。
「平気よ。あの子達は貴方が目的なんだもの」
「わたしですか?」
「そうよ」
ヤキモチを焼いている事に藤乃は自分でも気付いていないようだ。
少し拗ねた様に言う藤乃を、龍也は可愛いと思った。
しかし、叶わぬ恋だ。今は、まだ。
「そんな事、ございませんよ」
そう言って龍也はミラー越しに微笑んだ。
十五分も走れば綾川家の屋敷に到着する。
綾川家は代々政治家を輩出している名家で、藤乃の祖父綾川浩三は総理候補に必ず名前が上がる程の実力者だった。しかし、家族に恵まれず妻も一人娘も亡くし現在は孫の藤乃だけが唯一の家族。
それは藤乃も同じで、母冬子の事はわずかに記憶はあるが、父に関してはどこの誰とも知らされていなかった。
しかし、何も知らないと言うのは、多感な少女の想像力を刺激した。
想像の中の父はどこかの国の王族であったり、有名俳優や腕利きの外科医だったりした。そして、いつも藤乃を守り助けてくれた。
「おかえりなさいませ」
車が玄関に付けられると、祖父の秘書山岡が後部座席のドアを開けた。
「ただいま帰りました。山岡さんがいると言う事は、お祖父様がお帰りなの?」
「はい」
山岡は、藤乃の顔に嫌悪の感情が現れたのを見逃さなかった。
「ご挨拶なさいますか?」
「いいえ、どうせお客様で大変でしょ?」
藤乃の言う通りだった。
浩三が屋敷に戻ったと聞くと、次々と客がやって来ては長居をするので孫娘との僅かなた時間を取る事すら、ここ数年できていない。
それが浩三と藤乃の距離を作っている原因だと、山岡は胸を痛めていた。
「そうでございますね」
「ほら、またお客様よ」
何台かの高級車が玄関に近付こうとしていた。
祖父の客人に挨拶をするのが面倒な藤乃は、慌てて二階の自室へと向かった。
藤乃がぼんやりと窓から庭を見ていると、客人の大きな笑い声が屋敷に響き、藤乃の眉間に皺が寄った。
「藤乃様!」
庭にいた龍也が藤乃に声をかけると、藤乃の眉間から皺が消えた。
「何をしているの?」
藤乃も龍也に手を振った。
「お部屋に飾るお花を選んでおりました」
「あら、それなら、この下に咲いている赤い薔薇が良いわ」
「承知いたしました」
薔薇を摘む龍也を見ながら、ふと一瞬何かが脳裏を過ったが、それが何なのかは分からなかった。
藤乃がベッドに入る時間にも、客人の車が往来する音が窓から聞こえていた。
真夜中、使用人達も仕事を終え物音一つしない屋敷の中を藤乃はある事を確認する為に浩三の部屋へと向かった。
そっと歩いた。
浩三の部屋に近づくにつれ、音が聞こえ始めた。
それはだんだんとはっきりと……。
『いや、いや、やめてっ! 触らないで!』
藤乃の足が止まった。
やっぱり。
浩三が屋敷に戻るときまって、皆が寝静まった真夜中に浩三の部屋からこんな声が聞こえてきた。
きっと、いやらしい物を見てるのね。
初めてこの音に気付いたのは、まだ七歳だった。何の音か祖父に問いたかったが、それをしてはいけないのだと言う根拠のない思いが、藤乃を思いとどまらせた。
初潮を迎えた十二歳の頃、それがおそらくいやらしい物だろうと気付き、思春期も相まって、祖父に対して嫌悪感を持ち始めた。
翌朝、朝食の時間に珍しくまだ浩三が屋敷に居るのか、山岡の姿もあった。
「ねぇ、山岡さん。お祖父様が屋敷で毎晩見ている物、何か知ってる?」
山岡が何か顔色の一つでも変えれば、あれは間違いなくイカガワシイ物だろう。
しかし流石政治家の秘書、顔色一つ変える事なく、
「さぁ、何の事でございましょうか」
あっさりと、とぼけられてしまった。
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