靴擦れ

高村 芳

靴擦れ

 肉じゃがを皿に盛り付け、ラップをかける。副菜のほうれん草のおひたしはタッパーに入れ、肉じゃがと一緒に冷蔵庫にしまった。あれ、ごはんはまだあったっけ? 冷凍庫を見ると、やっぱりストックを切らしていた。私は急いで米びつから一合半の米を炊飯器の釜に入れ、冷たい水で洗う。

 旦那があくびをしながら、やっと寝室から出てきた。一志かずしがウインナーをフォークで刺して遊んでいるのをみて、「止めなさい」と注意してダイニングテーブルにつく。私が炊飯器の予約スイッチを押して「おはよう」と言うと、かすれた声で「おはよう」と返ってきた。目覚まし時計が鳴る時間に合わせて淹れておいたコーヒーからは、もう湯気はたっていなかった。旦那は何も言わずマグカップに口をつける。私はそれを横目で見ながら、一志の通園鞄を準備した。


「一志。遊んでないでもう食べて。もうバス来るよ」


 一志は不機嫌そうにほっぺを膨らませてから、いくつもの穴があいたウインナーを食べきった。「ごちそうさまは?」とたしなめながら、一志の口まわりについたケチャップをウェットシートで拭きとる。拭く力が強かったのか、一志は私の手をはねのけようとした。かまわず、手首を掴み、小さな手のひらも入念に拭く。以前、一志を抱えてバス停まで走ったとき、ブラウスにケチャップがついたまま通勤せざるを得なくなったことがあったからだ。


「今日は私、会社の送迎会だから。一志のお迎えよろしくね。あと肉じゃがとほうれん草、冷蔵庫にあるから。ごはんは、六時に炊けるようにセットしておいた」

「うん」


 食パンを噛みしめている旦那は、まるで粘土でも食べているかのように眉根を寄せていた。朝が苦手な彼のいつもの光景だ。私は粘着クリーナーでジャケットの埃をとってから羽織り、一志には通園帽をかぶせる。たれた鼻水を袖で拭こうとするの一志の腕を慌てて掴んで制止し、ティッシュで鼻を噛ませる。やっと準備が整った。一志に靴を履かせてから、仕事用のパンプスにかかとを滑り込ませる。


「いってきます。ごめん、よろしくね」


 旦那は目玉焼きをほおばりながら、静かにうなずいた。私はそれを見届けてから、一志の熱くベタついた手のひらを握りしめ、玄関の扉を閉める。

 一志の歩調に合わせて、マンションの外階段を蟻のような速度でおりていく。腕時計を見る。しゃがみ込んでなかなか歩を進めようとしない一志をこれ以上は待てなかった。重くなった一志を抱えて、階段をふたたびおりていく。かかとに少し違和感を感じたが、一志がバスに間に合わなければ会社に遅刻してしまう。私はバス停に急いだ。一志の手が、私のジャケットの袖を力いっぱい握りしめているのがわかった。




 「原野さん、どうしたんですか? 足が痛いんですか?」


 昼の休憩時間に社員食堂で話しかけてくれたのは、後輩の富本とみもとさんだった。緩くカーブのかかった柔らかそうな髪がゆれている。ヘアサロンに行ったのか、髪がきれいな栗色に変わっていた。


「ちょっと靴擦れになっちゃって。久しぶりにこのパンプス履いたからかな?」


 数年ぶりの飲み会だからと、あまり履いておらず汚れの少ない靴を選んだのが失敗だった。一志が生まれる前に買った、ベルベットのパンプス。以前履いたときも私の足に合わなかったからと靴箱の奥にしまいこんでいたのに、そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 私と彼女は向かいあって着席した。彼女のトレーにはデミグラスソースのかかったハンバーグとこんもりと盛られたサラダがのっていた。私のほうには、昨日の夕飯と朝食の残り物を詰めた地味な色の弁当が広がっている。


「そういえば、今日の飲み会、旦那様もお子様も大丈夫でした?」

「うん、大丈夫だったよ。夜ごはんも作ってきたし、こどものお迎えも旦那に頼めたし」


 幹事をしてくれている富本さんは、私が参加できるかどうかを気にかけてくれていた。私が長年お世話になった先輩の送迎会なので絶対参加するために、一ヶ月前から旦那に口うるさく頼み込み、なんとか説得して参加することができたの。富本さんにそう愚痴をこぼしそうになったが、私は冷めたウインナーと一緒にその言葉を飲み込んだ。


「ご家族の夜ごはんも作ってきたんですか?」

「昨日の夜のうちに具材の準備して、朝のうちに火を入れただけだよ」

「すごーい! 愛ですねぇ」


 そう言われて、煮物に入っていたにんじんの味が段々とわからなくなっていった。私は彼女の言葉に対してどう答えれば正解なのだろうか。砂の味がするにんじんを咀嚼し続けた。私のその様子に気づくことなく、彼女は無邪気に話を続ける。


「旦那様もお迎え行ってくれるの、優しいですね。たまには原野さんも羽根伸ばしたいですもんね」


 私は曖昧に返事した。彼女は二十代で、結婚をしていない。私も彼女の立場だったら、きっと同じように相手を褒め、相手の旦那を褒めるだろうと思う。それが、言われた人間の心臓に深く杭を打つ行為だと知るのは、まだ先でいいのだ。私は彼女の髪がきれいになったことに触れ、話題を変えた。



 夕方、部署のみんなで仕事を早く終えて飲み屋街へと繰り出す。ネオンが灯る街を歩くなんて何年ぶりだろう。スーツを着た陽気な男性たちや、大学生とおぼしきグループの大きな声が、路地に響き渡る。呼び込みの店員の声、雑踏、店のBGMや車の音など、音の洪水が私の耳を刺激する。「こっちです」と富本さんの声が聞こえ、私は同僚の後に続いて暖簾をくぐった。

 久しぶりのお酒の席は、楽しさ反面、疲れもあった。人と大声で話すことはこんなにも体力がいることだったのかと思い知った。一志を産む前に飲み会に参加したときは、グラスが空いている人がいないか、取り皿が汚れている人はいないかと周りに目を配っていたものだが、それも忘れていた。富本さんと同世代の若手社員が先輩たちに声をかけてくれていて、私はその気遣いに甘えることにした。

 瞬く間に時間は過ぎていった。大声で話したり笑ったりしたからか、表情筋が痛くなるほどだった。


「あれ? もしかして菊池?」


 途中、お手洗いを済ませたところで低い声が降ってきた。見上げると、丸眼鏡に少し長めの髪を束ねた男性がこちらに向かって手をあげている。見覚えのあるえくぼが、私の記憶を脳の奥底から引っぱり出してきた。


「もしかして……中村くん?」

「やっぱり菊池だ。久しぶりだな、何年ぶり?」


 野球部で坊主だった中学のクラスメイトは、落ち着いたモスグリーンの厚手のジャケットを着て穏やかな表情を浮かべていた。あの頃よりもずいぶん大人びた雰囲気をまとっていた。


「元気? あ、もう結婚して菊池じゃないんだっけ?」

「そう、もう今は原野だよ」


 邪魔にならないスペースに二人で移動して、近況報告に花が咲く。彼は数年前にこの土地へ仕事の関係で越してきたらしい。最後に会ったのは一志が生まれる前に出席したお互いの友人の結婚式だったから、私が知らなかったのは当然のことだった。彼も私が一児の母になっていると知り、驚いていた。昔と変わらず気兼ねなく会話できることが心地よかった。


「今日は、仕事?」

「そうお世話になった先輩の送迎会なの。もうそろそろ戻らなくちゃ」


 一歩踏み出したとき、かかとに痛みが走った。バランスを崩し、よろめいた私の腕を彼の大きな手が掴む。想像以上の強い力に、私の心臓がはねた。


「どうした? 足、大丈夫?」

「大丈夫、ありがとう。靴擦れがちょっと痛くて」


 なんか久しぶりに履くと靴が合わなくなっちゃってて、と、自然に早口になってしまった。年甲斐もなく心臓が所在なげにざわめいていることを、気取られたくなかった。中村くんは、凜々しく整えられた眉をハの字にして笑う。


「足に合わないんだったら我慢なんかしてないで、靴、捨てちゃえばいいのに」


 ツキン、とかかとが痛んだ。いつまでも靴擦れする靴を持っておく意味などない。自分でもそれはわかっているのに、彼の笑顔に旦那の力ない表情が重なって見える。


 旦那はかつて、取引先の営業マンだった。大きなプロジェクトのメンバーだった私は、旦那と打ち合わせをする機会が多かった。打ち合わせの回数を重ねるにつれ、その人柄に触れることも増えていった。誠実に仕事に打ち込む姿を間近で見て、急速にひかれあった私たち。出会って一年、真っ赤な顔をした旦那からレストランで指輪を渡された。お手本のようなあのプロポーズを思い出す。あの頃は、目に映るものすべてがきらめいて見えた。まもなく旦那と結婚し一緒に暮らすようになり、一志が生まれた。いわゆる「幸せな家庭」のひとつになれたと思っていた。


 そんな中、違和感を感じ始めたのは何がきっかけだったのだろうか。言ってしまえば、小さなことが積み重なっていっただけだ。食べ終わったあとにお皿をさげないとか、風呂の換気扇を回さないとか、ゴミを捨てないとか、そんな当たり障りのないことだ。少しずつ擦れて、傷ができただけなのだ。がんばれば我慢ができる、しばらく放っておけば忘れられる、小さな小さな傷が。


「この靴、捨てられないの」


 「値段が高かったからね」と、笑顔をつくることしかできなかった。中村くんは「しっかりしてるなあ、菊池は」と私をおだてた。席に戻るために、中村くんとはそこで別れた。連絡先を聞くこともなければ、引き留められることもない。お互いに「また機会があれば」とだけ言い、次を約束することもなかった。




 「ただいま」


 もう眠りについているだろう一志を起こさないよう、ゆっくりと玄関を閉める。リビングから返事はなく、テレビの音がかすかに聞こえてくる。静かに鍵を閉め、むくんだ足をパンプスからゆっくりと引き抜く。


「痛……」


 脱いだパンプスのかかとの内側には、赤黒い血が滲んでいた。ストッキングには擦れてあいた穴があり、そこからは小さな傷がのぞいている。パンプスを掴み、私は玄関で立ち尽くす。

 大丈夫。絆創膏を貼れば、また履ける……。


 パンプスを靴箱の奥にしまい込み、私はリビングの扉へ向かった。




   了

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