第1-2章 やっと二人きりになれた
徐々に遠くへ去る足音が階下へと消えていったのを確認すると、僕は自分の右手にそっと左手を添えた。何も知らない人間が見れば、神に祈りをささげる敬謙な信者に見えることだろう。アーメン、ジーザス、南無阿弥陀仏。
そうすれば、これが女の子のぬくもりが名残惜しく、無為に失うことがもったいなく思えて振れている男子高校生には見えまい。
『さすがに、それは気持ち悪ぃなぁ』
「自分でもわかってるよ。ちょっとやったみたかっただけだ」
知っている人間からすればこんな反応だろう。僕は、声の主をにらみつけた。
その視線は、ついさっきまで美幸の座っていた座席に向けられている。
正確には、そこにすわる僕自身をにらみつけている。
僕ではない僕は、にやけ笑いを顔いっぱいに広げている。
こんな顔が僕にもできるのだという新鮮な驚きすらある。
『ではでは、今度は口出ししないから、存分にそのぬくもりを楽しむといい。俺は何も言わずにここでお前を見守り続けていよう』
「何度も言わせないでくれ。そういうことを僕の顔で話すな」
悪意たっぷりの言葉を、彼は肩をすくめるそれだけの動作で、あっさりと聞き流された。
『いい加減やさしくしてくれよ。これでも俺はお前なんだぜ』
彼の言葉に嘘はない。
言い返すのもめんどうになって、結局、彼女が握らせてくれたシャープペンシルを目の前の男の眉間に投げつける。
放り投げられたそれは、まるでそこに何もないかのように、男の、いや、もう一人の僕を突き抜けると音を立てて黒板にぶつかり、弱々しい音とともに机へ落下した。
一体彼は何者なのだろう、と思う。学生生活のストレスが生み出した幻か、それとも白昼夢か。
いや、そんなストレスが原因だとは思えない。
記憶をたどる限りでは、僕と同じ顔のそいつが、姿を現したのは、高校にはいって間もなくだったはずだから。
『で、申し訳ねぇタイミングだが、出番だぜ』
「本当に申し訳ないタイミングだよ。……美幸への言い訳を考えなくて済むのは楽だけどさ」
『課題をやってないことへの言い訳か?』
「突然席を外す方の言い訳だよ」
あたりの音が、遠くなるような感覚。喧噪の音が薄れ、反対に、金属がこすれるような音が徐々に響きだす。いつもと同じ、あれが近づいてくる合図だ。
最近気が付いたことだが、この音は学校のチャイムだ。もっとも、音程も音量も、なにひとつ調和を奏でない、あほうが鍵盤をたたいたようにめちゃくちゃに加工されている、ようだが。
ぐらりと、世界が揺れる。
何度経験しても、これだけは慣れない。どれだけ準備しているつもりでも、いつだって不意を突かれるような気持ちだ。
僕は椅子に座りなおしながら、自分の周囲に目をやる。ぶつけたらマズそうなものは、なさそうだ。
『用意はできたか?』
「問題ない。じゃあ、主導権をお前に」
「なぁに、任せとけ。そんじゃ、主導権を俺に」
同時に、視界がゆがむ。
水たまりにこぼれたオイルが移す世界のように、目の前がゆがみ、ねじれ、輝き、そのすべてを変容させた。
そして、僕は、僕から追い出された。
入れ違いに、僕ではない誰かがするりと、僕の中に入っていく。
僕の中で、知らない『俺』が僕の目を開けた。
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