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  夫婦


 スカイスーツ65が発売された年のある日、東京・代々木にあるフライング社の体験ドームのショールームに三十歳前後と思われる夫婦がやって来た。二人とも大きなサングラスをかけ、知性に満ちた品のいい鼻を持っていた。

 夫婦はスカイスーツをオーダーメイドでつくりたいとカウンターの男に言った。

 お客様係の小林寛人には、オーダーメイドの注文は初めてだった。

「前例がないもので、できるかできないか、ここでは分りません。本社に問い合わせてみますが、どのような感じのスカイスーツにしたいのでしょうか。お客様の腕や脚の長さにフィットしたものをつくりたいとか、そういったことでしょうか?」

「サイズはMでも、Lでも、フリーサイズでも何だっていいのです」

「それじゃあどのように?」

「ファスナーをもう一つつけて欲しいのです」

「ファスナーをですか。お二人ともですか?」

「ええ、そうです」男はうなずき、そばのショーウインドーに目をやった。そこには今年流行のサンダーラインの入ったパールホワイトのスカイスーツが飾ってあった。

「普通のやつは首からへ股上十五センチあたりまで特殊ファスナーがついていますよね」

「はい」小林は頷いた。

「それとは別に、下の方にもファスナーをつけて欲しいのです」

「下の方と言いますと?」

「股の間、正確に言うと、股下からお尻の割れ目の上のあたりまでです」

「ファスナーが一つだけですと、不便なのでしょうか。着用しづらいとか?」

「いいえ、別に不便というわけではないのですが、下の方にもファスナーがあったほうがいいかなと思うもので」男が答える。「僕のやつは股前からでもいいのですが、妻のものはぜひ股下からお願いします」

「つまり、いつなんどき生理的な現象をもよおすとも限らないでしょう」と夫人が横から口を挟んだ。「空は冷えますので」

「分りました。いま本社に問い合わせてみますので、暫くお待ちください」


 夫婦は椅子に座って待った。待っている間、夫人の品のいい鼻に汗が吹き出て、夫人は白いハンカチーフで鼻の頭を撫でた。夫の方は腕を組み、温室のような体験ドームの高い天井を見上げていた。ガラスに囲まれた二百メートルの大きな吹抜けの中で、人々が色とりどりのスカイスーツを着て飛び回っている。その合間を太陽光線がまっすぐに落ちて来て、地上に植えられた木々の葉を輝かせていた。


 小林が戻ってきた。

「お待たせしました。仕様を変えるオーダーメイドの前例はないのですが、お客様のためならばお受けしましょうということになりました。ただし、テスター審査との絡みもありまして、申請が必要なのです」

「個人が楽しむ分にはテスター審査は関係がないはずですよ」

「ええ、ごもっともです。ごもっともですが、何年か前の蝙蝠男の事件以来、商品の改造に対して厳しくなっているのです。オーダーメイドも改造扱いになりまして、それを実行するには申請しなければならないのです。当社としてももっと自由にご注文いただきたいと思っているのですが、何分お役所からのお達示なもので」

「役人というものは、書類を増やすことしか考えない」

「ごもっともです」

「まったく野暮な連中だ」男は語気を強めて言った。

「同感です」

「で、申請というのは、どうすればいいんです?」夫人が訊いた。

「改造もしくは改良目的をお聞かせ願えれば、いまここで私どもが手続きいたします」

 小林は経済産業省テスター課申請室にラインをつなぐと、入力キーに両手の指を置いた。「で、目的は、何でしょうか?」

「その質問はプライバシーに関わりますよ」夫が言った。

「それでは申請ができません。どうしますか?」

「空を飛ぶためではだめなのですか?」

「ファスナーをつける理由にはなりません」

「生理的現象のためというのは、どうかしら?」夫人が言った。

「結構です。しかし、空の上で用を足すというのは、どうでしょう。できれば控えて欲しいのですが」

「ええ、分ったわ」


 オーダーメードのスカイスーツを注文したのは上級公務員の三井ハジメと妻のミルだった。一週間で申請が通り、一か月後にPVから注文の品が届いた。

 ハジメは六十五キログラムタイプで、ミルは五十キログラムタイプ。

 その日の空は澄み渡り、風もなく、絶好の飛行日和だったが、夫婦がそれを着用したのは夜になってからだった。テレビのスイッチを消し、風呂に入り、ガウンをつけ、ワインで乾杯した後、夫婦は素っ裸になり、スカイスーツに体を詰めこんだ。

 夫婦はマンションの窓から星空に向かって飛び立った。夫婦は夜の空中で試してみたいことがあった。それを実行するには、どうしてもスカイスーツの股間にファスナーが必要だった。


 高度三百メートルの世界まで上ると、夫婦は人工的な東京の光と神秘的な星の明かりに挟まれてキスをした。夫婦はベッドの上よりも興奮し、ハジメのペニスもミルの乳首も一気にセックスモードになった。

 唇を吸いながらミルの大きな胸に手をかけたハジメが、

「あっ、しまった!」小さな叫び声をあげた。「胸のところにもファスナーをつけてもらえばよかった」

「また、今度オーダーメイドでつくりましょう。でも、その前に、まずトライよ。いろいろと試してみて、改良したいところが、他にもいっぱい出てくるかもしれないから」

 

 ハジメは胸も、腹も、背中も、脇の下も、脹らはぎも、そのあたりを全部ファスナー付きにしたかった。スカイスーツが穴だらけになり、裸に近い状態になってしまうが、裸で飛ぶことができるなら、それにこしたことはないのだ。

「そのうちラブタイプのスカイスーツが出回るかもしれないね。二人でその研究開発のパイオニアになろう」

 ハジメはミルの豊満な体をスカイスーツごと抱き締めた。 

「星がきれい」

「君もきれいだ」

 囁きながら、互いの股の間のファスナーを尻まで下ろした。

 


   盆と正月


 通勤にスカイスーツを利用するものが増えているという記事が新聞やテレビで伝えられると、それに習うものが短期間のうちに全国に増えた。

 朝夕になると空のラッシュアワーが始まり、地下鉄や電車の通勤時間帯の乗車率はスカイスーツ58・65の発売前に比べると全国平均で三十パーセント近くも落ちた。

 マイカー通勤者の数も減っており、各地の幹線道路で渋滞が解消され、出勤時間帯の車の流れがスムーズになった。


 この乗り物離れの現象は、通勤に限ったことではない。

 最初にそれがニュースになったのは、二〇四六年のゴールデンウイークのときだった。新東名高速道路の大渋滞にうんざりし、イライラのピークに達した人々が車を置き去りにしたままスカイスーツで飛び立ったのだ。それらの車が新たな渋滞を引き起こし、高速道路は大パニックになった。が、その年の夏休みや、更に年末の帰省ラッシュが始まったときには、スカイスーツで移動する人々の数はゴールデンウイークのときとは比べものにならないほど増えていた。

 それからわずか数年たった今、お盆や正月休みになると、空の道を通って南へ北への人間の大移動が始まる。

 テレビのキャスターは「まるで渡り鳥のようですね」と言った。



  逃避


 大手の商社に勤める山崎治彦は時折、スカイスーツ65を着て旅に出る。

 数日に渡る旅もあれば、一日の数時間で終える旅もある。

 山崎は気に入った場所を見つけると、高度三百メートルの上空で大の字になって寝転んだり、本を読んで過ごす。

 山崎のお気に入りの場所は、田んぼが広がる風景だ。人も、車も、ビルもない、日本という国の原形がそこにある。空からそんな地上の風景を見下ろすと、山崎は神様になったような気がするという。


「人間は二十世紀まで自分たちがこの地球上で一番偉いと思っていたはずです。しかし、この地球で一番進化していた偉い生き物は人間ではなく、羽を持った虫たちであり、鳥たちだったのです。飛べるということは素晴らしいことです。その素晴らしい才能を生れながらに持っている鳥や虫たちこそ最高の生き物であり、飛ぶという才能に恵まれていない人間は蝿やゴキブリよりも劣るということを認識しなければなりません。しかし、我々はフライング社のスカイスーツにより、その最高のポジションに近づけるようになりました。私は空から下界を見下ろすたびに、人間はみんな神になれるかもしれないと思えてくるのです」

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