22
二〇三八年の九月一日、松本幸介は新本社ビル五階の自分の部屋に木村春彦を呼んだ。
「別に用事はないんです。これから赤井川へ行こうと思うのですが、行く前に君の顔が見たくなって」
「こんな顔で良かったら、いつでも見せてあげますよ」
木村は笑い、窓際に立っている松本幸介のそばに歩み寄った。
フライング社の建物は石狩に本社を構えて以来、事業規模の拡大や社員数の増加に合わせて増築、改築を繰り返していたが、創立三十周年を迎えた二〇三七年九月に記念事業の一環として本社ビルを完成させた。広大な敷地を贅沢に活かした七階建ての低層建築で、敷地内には新しい研究棟や生産工場も建設中で、札幌市内と石狩港を結ぶモノレールの停車駅もある。風は磯の匂いを運んでくるが、三階の窓からは海は見えず、敷地の向こうは防風林が広がっている。
「君とは何年のつきあいになるんでしょうかね。三十年か三十五年くらいでしょうか?」
「まあそんなところですかね」
木村は技術チームの白いスタッフブルゾンをはおっていた。七十四歳になっていたが、フライング社社員の精神的な支柱である男の魂と声の張りはまだまだ若い。
松本幸介は窓の向こうの防風林に視線を移した。黙って眺め、穏やかな表情が皺の間にすっと沈んでいくと、
「僕はね、前から君に謝ろうと思っていたんです」松本幸介は木村に言った。
「何です?」
「天才の君の名を世界に売らなかったことですよ。君なら権威ある幾つかの賞をもらえたのに、君は今日まで無名のままです。それが残念でなりません」
「そんなことは、どうでもいいですよ」
「総べて私が悪いのです。私は恐れたのですよ。君を売り出すことによって、マジックガスのアイデアが外国の企業に盗まれたり、飛び袋やスカイスーツよりも素晴しい商品が発明されるのを。君あってのフライング社なのに、私は企業のことしか考えていなかった。これは恩ある君への裏切り行為であると思っています。私を許してくれませんか?」
「許してくれだなんて、松さん、よしてくださいよ」
「いや、どうしても謝りたいのです」松本幸介は木村の手を取った。「謝ることしか、もう私のなすべきことは残っていないのです」
「そんなことを言わずに、未来を見つめてくださいよ」木村は手を強く握り返して、松本を励ました。
「未来のことを思っても、もう、昔のように、わくわくしなくなりました」松本幸介は木村の手を離すと、柔らかな日溜まりの中で寂しそうに微笑んだ。「むしろ、未来のことを考えると辛くなるのですよ。明るい未来というものが浮ばず、暗い未来しか出てこないのです。今に始ったことではありません。十年以上も前に役人に呼ばれてナスカへ行ったときから、もやもやとした得体のしれない不安な未来が私の心に広がっているのです。それは今度の事件で決定的になりました。東京で二十三名もの女の子が犠牲になりました。私が君を誘って会社をつくらなければ、彼女たちは死なずにすんだはずです。私はどう言って彼女たちに謝ってよいものかずっと考えてきたのですが、言葉が浮ばないのです。君を誘わなければよかった。君が発明した飛び袋を見なければよかった。人が空を飛ぶという夢なんて追わなければよかった。そこまで後悔の念に囚われても、彼女たちに掛けてあげる言葉が浮ばないのです」
「謝ることばかりを考えていたら、前に進みませんって」
「前に進めば、田村のような悪いやつがまた出てくる。戦争の道具にも使われるかもしれません」
「悪いやつが世界の中心にいるわけじゃないんだから、そんなやつらは無視して先に進みましょうや」
「先に進んでもいいんでしょうかね」
「進まないと、未来がやって来ないじゃありませんか」
「未来ですか。私には人生の十パーセントの未来さえ遠く感じるようになりました」
松本幸介はデスクの端に腰を降ろした。「私はちょっと疲れたようです。健一君も立派にやっていることだし、私は相談役というのもそろそろ引退しようかと思っているのです」
「そう言わずに、まだまだがんばってくださいよ。フライング社は松さんの会社なんですよ」
「もう年寄りが口を出す時代ではありません。ところで、君はいつ引退するんですか?」松本幸介が聞くと、
「マジックガスに限界がないもんで、死ぬまでフライング社で研究するつもりでいるんですがね」と木村は答えた。
「そうですか、それはそれで君の人生に合っているのかもしれませんね」
松本幸介はそう言って、壁に掛けてある額縁の四つ切り写真を懐かしそうな目で見つめた。設立当時の社長室で撮ったもので、デスクの向こうの椅子に松本幸介が座り、その横にカーキ色の作業服姿の木村春彦が立っている。松本幸介は今より太っていて、木村は今よりも痩せていた。
「これは僕が五十六歳で、君が四十五、六歳のときの写真です。二人とも初めから人生の半ばを過ぎていました。お互いにあと二十年くらい若いときに出会って、写真を撮りたかったですね」
「でも、二十歳も若かったら、松さんと出会っていたかどうか」
「それもそうかもしれませんね。二人があの年に出会ったのは運命だったのでしょう。運命というのはいやな言葉ですが、空の女神が決めたことですから、私たちはそれに従うしかなかったのですね」
その日の午後、松本幸介は秘書の河島を連れて赤井川の別荘へ出発した。
二日後の二〇三八年九月三日、松本幸介は心筋梗塞で倒れ、八十四年の生涯を終えた。
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