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二〇二四年はフライング社の四十年の歴史のなかでも思い出深い年になった。
大きなトピックスが二つあった。一つは四月の社長交代であり、もう一つは九月のスカイスーツ50の完成だった。松本幸介はこの年の七月十日で七十歳になっていた。
企業幹部の多くは木村春彦が後継者に指名されるだろうと思っていた。松本幸介よりは十歳は若返る。しかし、松本幸介は木村に社長としての力量を期待していなかった。木村はナンバー2の役員になってはいたが、根っからの技術屋で工場や研究室を棲み家とし、役員会議には殆ど出席していない。
松本幸介が後継者に指名したのは、当時三十三歳の菊地ひな子という女性だった。企業内でも全くノーマークの人物だった。
菊地ひな子が社長に就任すると、松本幸介は相談役になった。
菊地ひな子は十代でモデル、二十代前半でキャビンアテンダント、二十代半ばでテレビキャスター、二十七歳でフライング社に入り、三十三歳で社長の座に就いた。実に華やかな経歴の持ち主である。更につけ加えると、三十五歳で民主生活党の和泉康夫の妻になり、三十七歳で退職し、四十五歳でファーストレディになった。今でも彼女のような人生を送りたいと願う女性は後を絶たない。
彼女のフライング社における功績は企業の国際化だった。フライング社USA、フライング社ECのオフィスを短期間で開設し、トビーの海外セールスに貢献している。彼女はネオビジネスエイジであり、松本幸介が特別に思い入れた女性でもあった。
松本幸介は加代子と別れて以来、特定の女性とのつき合いはなかった。
「私は暑苦しい人間ですから、女性にはもてないのですよ」と松本幸介は語っているが、七十歳になって突然スキャンダルに巻き込まれたのだ。
二〇二四年の十二月三十日に、松本幸介と菊地ひな子はプライベートな用件で遷都計画で開発が進むナスカのクリスタルホテルに泊まっている。週刊誌の記事によると、二人は仲良くスイートルームにチェックインし、翌日別々にホテルを出たという。「老いらくの愛」という古めかしい見出しが踊り、フライング社に記者たちが詰めかけた。
沢田広報部長の久々の出番となった。
「この件に関して相談役は一切会見には応じません」
女性週刊誌の記者やテレビのゴシップ番組のレポーターがフライング社にやって来たのは初めてのことで、沢田広報部長はまるで自分が取材されているみたいにうきうきと答えていた。
松本幸介と菊地ひな子だけが渦中の人物であったなら、ゴシップの報道は二、三週で終っていただろう。それが夏までに続いたのは、三月に新たなスクープが登場したからだ。それは当日、民主生活党の和泉康夫もホテルにいたというものであった。
週刊誌の調べで、和泉と菊地ひな子は若い頃に恋人関係にあったことが分った。記事の内容は松本幸介の老いらくの愛から和泉を含めた三角関係の愛憎劇へと発展し、菊地ひな子の妊娠説まで飛び出した。しかし、今一つこの三人が同時期にホテルに宿泊していた理由をつかめぬまま、一聯のゴシップ報道は自然に幕を閉じた。
松本幸介は菊地ひな子との関係を一笑に付したが、松本幸介が彼女を愛していたのは確かだった。亡くなった年、松本幸介は様々な思い出を広報紙「SO-LA!」(二〇三八年・春の号)で語っているが、その中にこういうくだりがある。
「さて次は、私との仲を週刊誌にいろいろと書かれた菊地前社長のことですが、彼女はフライング社に入る前、ワールドチャンネル(WCH)のニュースキャスターを務めていました。日曜の夜の九時からやっていたニュースランドという番組です。初めて彼女を見たとき、私はドキリとし、青年のように心をときめかせました。私のもっとも忘れられない女性に似ていたからです。忘れられない女性というのは空の女神のことで、顔が似ているというよりも彼女が放つ雰囲気や私の胸の内側に伝わってくる精神的なものがそっくりであったのです。私は彼女に会いたくてニュースランドを毎週欠かさず見るようになりました。私はテレビの中の女性に恋をし、どこにいても彼女への思いで心を満たすようになりました。そのうち、彼女が欲しくなったのです。私はあらゆる友人関係の伝を利用し、彼女にフライング社に入るようにすすめました。木村を除いて自分からハンティングしたただ一人の人物です。その彼女が入社して以来、フライング社は総べてがうまくいき始めました。世界中に飛び袋が広がったのも彼女のおかげですし、木村健一社長が入社し、スカイスーツも誕生しました。こう言ったら力量も指導力もあった菊地前社長に怒られるかもしれませんが、彼女はまさに私やフライング社にとって女神だったのです。彼女を自分の後継に抜擢したのも、彼女の能力を高くかっていたことは言うまでもありませんが、空の女神の神秘的な力にあやかろうという考えが自分の中に多少はあったからでしょう。その彼女が和泉さんの妻になり、退社したことはフライング社にとって大きな損失になりました。しかし、菊地さんの和泉さんへの献身ぶりや二人の仲の睦じさを見ていると、彼女の人生には良かったことで、今でも彼女のファンである私としては彼女に生涯幸せであり続けて欲しいと願っています。さて、二人がホテルにチェックインしたという報道ですが、もう時効ですからお話ししてもいいでしょう。あの日、クリスタルホテルのスイートルームに泊まったのは和泉さんです。私は別の部屋で寝ています。和泉さんと菊地さんは若いころに交際していました。和泉さんが国政にチャレンジすることになった頃、自然な形で別れたと聞いています。しかし、菊地さんの心にまだ和泉さんがいること知り、私がキューピット役を演じたわけです。スイートルームは二人のために私が秘書の河島君に予約をさせたのです」
このコメントに関して伝記作家の桜井誠は不満を漏らしている。
「私は松本幸介という人物が好きなのですが、この発言だけはどうも気に入りません。なぜ嘘をついたのか、なぜ嘘をわざわざ言葉にしたのか、どうも分らないのです。こんなにも嘘が多いと、松本幸介と菊地ひな子がスイートルームには泊まらなかったというのも、怪しく思えてくるのです」
桜井は松本幸介、菊地ひな子、和泉康夫の三人の顔合わせが、スカイスーツ50が完成し、テスター審査にかかる前の年の暮れであったことに注目していた。
「松本幸介は、ビッグライフ社のときは、政治には無関心で経済界の集まりにも無縁であった人物です。それは異端児と言われた経営者の一つの生き方で、縦横の繋がりを重んじる古株の経営者とは同じ道を辿るもんかという若々しい意志の表れでもありました。が、年を取って二十世紀の昔を懐かしく思い出したのか、松本幸介はオールドビジネスの手法でことを乗り切ろうとしたようです。当時フライング社は飛び袋、つまりトビーの開発に息詰っていました。売れてはいたのですが、企業の未来が見えてこなかったのです。それは百キログラムタイプのトビーが完成したとしても、FLY-G入れる器はとてつもなく巨大な形態になるだろう予測されていたからです。それだけに、松本幸介は木村ジュニアが発明したスカイスーツに社の命運を賭けていました。トビーとその関連商品は売れに売れ、収益は毎年倍増していましたが、フライング社の将来は決して安泰とは言えなかったのです。しかも、トビーが生活者に浸透し始めたころから、トビーに対して良いイメージを持たない連中が出てきました。それは主に公安担当の役人や保守派の政治家たちです。彼らはトビーの性能や行動範囲を遥かに超える画期的な新商品スカイスーツが準備されていることを嗅ぎつけ、テスター審査の前に商品の販売にストップを掛けようと画策していました。テスター審査に合格したら政治家や行政といえどもタッチはできませんからね。実際は二〇二五年の九月にテスター審査があり、スカイスーツ50は製品販売の許可が下りたのですが、その前の年から松本幸介は再三に渡って公安関係の役人から勉強会の名目で呼び出されていました。国会にも喚問するという訳のわからぬ動きもあったようです。松本幸介はそれらの動きを察して当時の若手実力者である和泉康夫に助けを求めたのかもしれません。クリスタルホテルのスイートルームをとったのは、和泉との密会のカムフラージュであったと思います。広報紙で執拗に二人のキューピット役をかって出たなどとわざわざ述べたのは、松本幸介の心の中で、当時の密会が断じてばれないように念には念を入れておこうという気持ちがあったからなのでしょう。その密会でどういう話があったのかは分りませんが、昔の恋愛時代をいつまでも忘れられなかったのは和泉のほうで、役人や政治家の横やりを防ぐことと引き換えに、菊地ひな子に結婚を承諾させたというキナ臭い噂もあるのです」
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