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 その日から数年間、松本幸介が見た健一の服装はスカイスーツばかりだった。

 トビー35の発売記念パーティーにも、健一はスカイスーツ姿で現れている。

 会場は石狩川の畔に立つキング&クイーンホテルの大ホールだった。健一は人々の頭の上を踵のプロペラを唸らせて飛び回り、招待客やマスコミを驚かせた。健一は黒のスカイスーツを身にまとい、スキーゴーグルで目を隠し、黒いマントを背中になびかせていた。ゲリラ飛行は七秒ほどで終わり、健一は手を振って会場を去ったが、カメラのフラッシュと拍手を浴びる時間は十分にあった。

 松本幸介は心の狼狽を沈めるために目を瞑り、木村は怒りに満ちた困惑の顔を天井に向けた。秘密にしておきたかったスカイスーツが千人の目に晒されたのだ。

 記者とカメラマンは二手に分れた。一つのグループは松本幸介と木村春彦に群がり、もう一つのグループはマントの男を追った。

 松本も木村も、マント男の正体は知らないし、どうしてあんなふうに飛ぶことができるのか、そのトリックも分らないと言って、記者たちの質問をはぐらかした。


 健一は大ホールを出るとエレベーターに飛び込み、二十八階の最上階まで行き、そこから階段を駆け上がり、ヘリポートのある屋上へ出た。

 記者たちが屋上に現れたときには、健一は金網の安全フェンスを乗り越えていた。黒い突風が長い口笛を吹き鳴らしながら健一の体を叩き、マントを乱暴に揺さぶった。健一はフェンスを背にして、屋上の一番端に立つと、下を覗き込んだ。ところどころの窓から明かりが漏れているが、夜の黒さを塗り潰せるほどの明かりではなかった。ホテルの庭園も見えないし、石狩川も見えない。

 健一は今まで三十メートルの高さまでしか飛んだことがなかった。それがスカイスーツの高度記録だった。百メートル以上はある高所の空間に立って、さすがの健一も身震いした。しかし、健一は自分の発明品と父親のFLY-Gを信じた。


 健一はFLY-Gの特異な働きを、最近ようやく理解できてきた。FLY-Gは、地上の空気を、空気の海に変える。使用者は空気の海の底で暮らしている。底にいるから、普段は足をつけて歩くことも、走ることもできる。むろん、泳ごう(飛ぼう)と思えば、底にいても泳ぐ(飛ぶ)ことはできる。しかし、「泳ぎ(飛び)」は、「歩く」や「走る」の動作とは明らかに違う。泳ぐ(飛ぶ)ときは空気の海と一体にならなければならない。余計な力を全身から抜き、リラックスして、空気の海の見えない流れに体を預けるのだ。溺れ(落ち)そうになってもパニックを起こしてはいけない。流れに乗ると、FLY-Gの浮力が支えてくれる。溺れる(落ちる)心配はないのだ。

 健一は深呼吸をするように両手を広げ、底の見えない黒い空間にそーっと全身を倒していった。


 その夜遅く、木村が家に帰ると、健一は自室の照明を消して、飛び出すゲーム「スターファイター」で遊んでいた。

 木村は部屋に入るなり、「馬鹿やろう!」と言って、健一を叱りつけた。「あんな真似をして、おまえはいったい何を考えてるんだ!」

「パーティーの余興だよ、盛り上がったでしょう」

 健一はゲームをやりながら答えた。床に置かれた土俵のような丸いゲーム盤から煙っぽい光がのぼり、その光の中で筋肉隆々のゴリラ星人と地球の勇者がパンチとキックを応酬しあっている。

「盛り上がっただと? おまえの発明が、おまえごと盗まれたらどうするんだ。おまえが攫われたって会社はどうっていうことはないけれど、発明が盗まれるのは困るんだ。フライング社はスカイスーツで膨大な利益を得るつもりでいるからな」

 健一は白のTシャツと半ズボン姿だった。コードレスのコントローラーのボタンを指で小刻みに押しながら、

「おじさんは自由にやれって言ったよ」

 地球の勇者が二十連発の必殺パンチをゴリラ星人のボディに浴びせた。

「言ったかもしれないが、人に見せろとは言っていないはずだ」

 ゴリラ星人は末期の叫び声をあげ、光の空間から消滅した。

「どうして見せちゃいけないんだよ」健一はドアの前に立っている父親を振り返った。「宣伝になるじゃないか。それに盗まれたって、どうせ同じものは他のところではつくれないよ」

「どんなものでもそれが最高というわけではないんだ。真似をしたものが本物を超えるときだってあるんだ。現に、ジェット社から出たスーパースカイは八キログラムタイプにおいてはうちのやつよりシンプルだ。少なくともうちの製品みたいに亀にならなくてもいい」

「でもジェット社にしても、ソラ社にしても、十五キログラムタイプが限度じゃないか。やつらがスカイスーツを考える頃には、僕らは象だって空に飛ばしているよ」

「そうかもしれないが、スカイスーツが今盗まれたら、象を先に飛ばすのは向こうになるかもしれないんだぞ」

「絶対に、そんなの、ありえないよ」

 健一はゲームを止めるとリモコンで天井の明かりをつけた。「FLY-Gの性能だって、もう全然違うしね。そうだ、今日、あれから凄い体験をしたんだ。お父さんのFLY-Gに無限の可能性を感じたよ」

「何をしでかしたんだ?」

 木村は息子のシングルベッドを見つめていた。黒のスカイスーツとマントが放り投げてあった。

「ホテルの屋上から飛んだんだ。FLY-Gは初めて百メートルの高度を超えたんだよ。落ちたらどうしようって、屋上でちょっとびびったけど、飛んでみたら最高だった」

「あんまり無茶をすんなよ」木村の厳しい顔がひょいと父親の表情になった。「おまえはじいさんにそっくりだ」


 松本幸介はこの件に関して健一を咎めなかったし、説教めいたことも言わなかったが、「罰として」赤井川の別荘を掃除させている。健一はスカイスーツ姿で板張りの床にモップを掛け、総べての窓ガラスを拭いた。それがすむと、健一は別荘から飛び立ち、新緑に覆われ始めたスキー場の上空でスカイスーツのテスト飛行を繰り返した。

 その様子を見ていた松本幸介は、のちにこんな感想を残している。

「赤井川の空で見た健一君は、スーツの部厚さを除けば昔映画で見たスーパーマンのようでした。私はそのスーパーマンを日が暮れるまで眺めていても飽きることはありませんでした。健一君が飛ぶ姿は赤井川に遊びに来ていた人々の目にもふれました。昔の私なら、スパイの目を気にして、オープンにするのを躊躇ったでしょう。しかし、見せることは宣伝になるし、見られたって誰も真似はできないという健一君の自信に満ちた言葉に、私は自分の狭い了見を改めました。健一君が言う通り、テスト飛行は動く広告塔になったようで、スカイスーツはいつ発売になるのかという問い合わせが、会社に入ってくるようになりました。中には早々とPVに予約をした人もいます。実際の発売はそれから七年もあとになるのですが、人々のフライング社への期待と注目が集まって、フライング社には新しい人材と活気がどんどん生れてきました」


 健一は別荘に帰ると、スキー場の麓のホテルから運ばせた料理をリビングの天然木のテーブルに並べた。

 祖父の謙造が風船を離さなかったように、健一は食事のときもスカイスーツを脱ごうとはしなかった。

「食べるときくらい脱いだらどうです、ずっと着ていると疲れるでしょう」

「逆だよ、ずっと着ることによって疲れないようにするんだよ」

「それは理に適っていますが、スカイスーツは食事をするためのものではありませんよ」

 松本幸介が言うと、

「あっ、そうだ」健一が喉から声を飛ばした。「いまのおじさんの言葉で思い出したんだけど、僕は最近いいことを考えたんだ」

「どういうことです?」

「このスカイスーツを、普段着にするんだよ。人類の歴史が終わるまでのね」

「それはまた凄いことを考えましたね」

「そうすれば飛びたいときにいつでも飛べるじゃない。会社へ通っている人も、買物へ行く人も、足腰が悪くて思うように歩けない人も、みんな毎日の生活の中で気軽に飛んで用事をすませられるんだよ。もちろん食べるときも、その服でいいんだ。どう、素晴らしい考えでしょう」

「健一君、君の発想は凄いですよ」

 松本幸介は感心し、健一の頭にある未来を想像しみた。それこそ松本幸介が目指していた世界だった。松本幸介は飛ぶという行為を日常的なものにしたくてフライング社を興したのだが、健一の考えのほうがより現実的だった。

「その研究や実験もしていい?」

「総べて健一君に任せますよ。君のお父さんは育児用品や遊び道具の他にも救命具や生活用品、それに遊戯施設にマジックガスを利用しようと考えているようですが、健一君は人をどう飛ばすかを自由に追求すればいいんです」

「おじさんも空を飛んでみたい?」健一が優しそうな顔で松本に聞いた。

「もちろんですよ。その夢を見て、会社をつくったのですから」

「社長の権限で、百キログラムタイプの飛び袋を急いでつくらせればいいのに」

「九十キログラムタイプですよ。でも、飛び袋の九十キログラムタイプは無理でしょう。マジックガスだけに関して言えば、九十キロの人間を飛ばすパワーは持つかもしれませんが、容量の問題もあって、今の形態では収まり切れないのです。仮にできたとしても直径四、五メートルの筒に収まるような状態になり、とても快適で優雅に飛ぶというわけにはいかないでしょう。私は君のそのスカイスーツを見て、飛ぶとういことは美しいものである、逆に言うならば美しくなければ飛ぶとは言えない、そのことを改めて思い起こしたのです。私はもう飛び袋で飛びたいとは思いません。でも、君のスカイスーツなら飛んでみたいと思います」

「九十キログラムタイプのスカイスーツか」

「ぜひ夢を叶えてくださいね、私は健一君に期待しているのですよ」

「頑張ってみるよ、おじさんのためにね」

「ありがとう」

「ところで、おじさんは、飛べたら何をしたいの?」

「そうですね。まず下界の風景をのんびりと眺め、それから雲の上にあるドアを探します」

「ドアって?」

「天国のドアですよ」

 松本は健一と喋っているうちに、久々に航のことを思い出した。

「おじさんの子供に会いにいくの?」

「ええ」

「そのときは僕も一緒にドアを探してあげるよ」

「ありがとう」

「そのドアは、昼間開いているかな。昼間は閉まっていて、夜になると開いたりして」

「夜だと星がドアになるのでしょうか。余りにも遠すぎて、私には行けないかもしれません」

「大丈夫。僕が星まで飛べるようなスカイスーツをつくってあげるから」

「約束ですよ」

「うん、人生の十パーセントの保証はできないけど」

「健一君は健一君の考えでやりなさい」

 松本幸介は二十一世紀生れのこの若者の総べてを羨ましく思った。


 食事の後、松本幸介はバルコニーに出て、健一に歌を聞かせた。


 空を越えて

 ラララ

 星の彼方

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