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健一がつくった踵発電所は画期的なものではなかった。踵発電所はすでにイギリスのチャールズ・Cによって研究・開発されていた。
チャールズ・Cは二〇〇一年にデビューしたロンドンのロックグループ「O・Tワーク(オーバータイムワーク)」のギタリストだった。彼はエレキギターの電気代の節約を考えて、踵発電所を思い立った。
仕組みは健一が考案したものと同タイプで、歩けば歩くほど踵にエネルギーが溜まるものだった。コンサート中でもエネルギーを満タンにできたようで、チャールズ・Cはヒット作「ヒーラブズヒム」の演奏にかかる電気代を踵発電所でまかなうことができた。
チャールズ・Cはこの踵発電所を売り出そうと考え、やがてグループを脱退して、会社を興すが、一年余りでその会社は倒産している。
チャールズ・Cは「売れなかったのは仕方がない。おれの考えに時代がついてこれなかっただけさ」と音楽雑誌のインタビューで述べている。「バンドをやっていたときもそうだったから、気にしちゃいないよ。お先真っ暗っていうことにはならないさ。それに靴の踵だけがエネルギーの未来を担うわけじゃない、売れなかったからと言って、人類の未来を悲観したりはしないよ。洋服の絹づれだってエネルギーになるかもしれないし、コンピューターのキーも、テレビのチャンネルも、身近に使っているもの一つ一つがエネルギーを生み出す可能性を秘めているんだ。それを具体的な形にするのは難しいことなのかもしれないけれど、そんなことは問題じゃない。おれたちは今、夢や理想を語ることが大切なんだ。それをヒントに素晴らしい発明品が生れてくるかもしれないからね。ところでおれは今何を考えいるか分るかい。おれはついに人類最大のエネルギー源を発見したんだよ。何だと思う。車だよ、車。人類の未来はきっと車によって救われると思うよ。回転するものは、エネルギーをつくれるはずなんだ。タイヤが道に接し、回転しているというのに、走れば走るほどエネルギーを消費するなんて可笑しいよ。走ることによってどんどんエネルギーを蓄えていく車でないと。そうなったらエンジンから充電式のモーターに動力がかわるのかもしれないけども、座席を取っ払ってエネルギーを蓄えるためだけの充電専門車を走らせてもいい。無理なら、道でもいい。人の歩きや車の走りから効率よくエネルギーを吸収し、それを家庭に配分したり車にバックできるようなシステムを道の下につくるんだ。そうすればガソリンも発電所もいらないよ。人も車も空を飛ぶっていうのなら別だけど、そんな時代は来るわけがないしね」
それは二〇一八年の夏のことだった。
そのときは前年に出た三十キログラムタイプが出回っていた頃で、フライング社では二〇一九年五月に発売される三十五キログラムタイプの準備に追われていた。
トビーの形態としては三十キログラムタイプから多少のモデルチェンジをしたものの、相変らず筒状でターゲット層があがった分だけ更に厚みを増していた。また、実験の段階では五十五キログラムタイプまでは可能であったが、商品として売り出していくには安全面や形態などでクリアしなければいけない多くの問題があった。
この時期に技術部門の最高責任者である木村春彦がそれらの問題を解決しての商品発売のスケジュールを想定している。それによると、四十キログラムタイプの発売が四年後、四十五キログラムタイプの発売が八年後になっている。実際は四十五キログラムタイプの筒状のトビーは発売されなかったわけだが、もしも発売されていたら、その筒の直径は人の胴体が入る部分を含めて百六十センチほどになっていただろうと言われていた。まるで人間アドバルーンだ。
「それでも人は飛びたいものです」と松本幸介は語っているが、彼自身も次第に厚みを増していくトビーの形態に不安がないでもなかった。
健一が新しい発明品を見せにやって来たのは、松本幸介がそんな一抹の不安を抱えているときだった。
「おじさん、見て」
社長室に入ってきた木村健一は青いダイバースーツ姿で、目に水中メガネを掛け、両手に空カキをつけ、足鰭みたいに大きな靴を履いていた。踵はビールの350ml缶ほどの高さがあったが、靴の半分から爪先にかけて厚底構造になっていたので、歩きづらいことはなさそうだった。スーツは実際の体格よりも二回りも大きく、まるで筋肉のように肩や股のあたりが盛り上がっていた。松本幸介はそんな格好で社長室にやって来る健一の若さが羨ましかった。
「海へ潜りに行くのですか?」
「もっといいところ」
「海じゃないとすると、湖ですか?」
「もっと広いところ。海よりも、もっともっとね」
「海よりも広いといったら、空ですね」
「そう、僕は空へ潜りにいくんだ」
「ほう、空に。それは楽しそうですね」
自分のデスクの椅子に腰を降ろしたまま、松本幸介は言ったが、顔は笑っていなかった。もしも、健一のノックがあと二、三分あとだったら、松本は頭の洞窟に入っていて、健一の相手をしてあげられなかっただろう。
「空に潜る前に、おじさんに聞きたいことがあるんだけど」
健一は水中メガネをつけたままデスクに歩み寄ってきた。
「何ですか」
「おじさんはトビーを何キログラムタイプまで出すつもりなの?」
「それは君のお父さん次第です」
「おじさんが飛べるようになるまでとすると、百キログラムタイプまでかな?」
「私はもうそんなに太っていませんよ」
松本は首をすぼめて言った。巨体は年齢とともに縮小しつつあったが、皮膚の下に溜まった脂肪の塊はそのまま残っていた。
「じゃあ九十キロ」
「まあ、そんなところです。でも、その前に、これから三十五キログラムタイプ、四十キログラムタイプと出していかねばなりません」
「おじさんはそれが何を意味しているか分ってる?」
ちょっと生意気な口ぶりだったが、真面目な顔で健一は松本に問いかけた。
「どういうことですか?」
「子供だけじゃなく若いやつらが使えるようになるっていうこと」
「そうです。もともとは総べての人が飛べるようにするというのが飛び袋の開発思想ですから、飛び袋の利用者層が広がるのはいいことです」
「でも、今のままじゃ絶対に売れないよ」
「どうしてですか?」
「かっこう悪いから」
「かっこう悪い?」
「そう」
「僕は絶対買わないね。彼女も買わないと思う。だってあれをつけると、もの凄く太って見えるからね。好んでダンボになりたがるやつはいないよ」
確かに健一の言う通りだ。そして、それが洞窟に籠りたい理由の一つだった。松本幸介は目の前に健一がいるにもかかわらず、ダンボを連れて頭の洞窟に入りかけたが、脳裏のどこかに広がっていた空が松本幸介を現実に引き戻した。
「でも、飛び袋をつけると、空を飛べるのですよ。それでも飛び袋は若い人に受けませんか?」
「うん、おじさんの言う飛び袋は受けない。だから、僕はつくったんだ、スカイスーツを」
「何ですか、それは?」
「スカイスーツだよ。これで空に潜るんだ」
健一は松本の許しを得てデスクの上に上がると、社長室の空気の海に体を預けるようにすうっと飛び込んだ。空カキで空気を掻き、両足をばたばたさせて、空中を泳ぎ出した。優雅な泳ぎとは程遠かったが、松本幸介は十分に感動した。
「凄いよ、健一君、これは凄いですよ!」
松本幸介は興奮して椅子から立ち上がり、健一のそばへ行った。
「まさか本当に空に潜るとは思いませんでした。今度の発明品は今までの中で一番ですよ」
「全部が一番だと思うけど」
「いやこれが一番です」
松本幸介は健一のダイバースーツがやけに膨らんでいるからその下にトビーを隠しているのかと思った。が、そうではなくスーツそのものにFLY-Gが入っているようだった。松本幸介が頭の洞窟に入るまでもなく、素晴らしいイメージが勝手に洞窟の中から飛び出してきた。
「ちょっと泳ぎ方が不格好ですが、この発明品はたった今私にインスピレーションを与えました」
「どんな?」
「フライング社の、新しい商品計画に関するインスピレーションです」
「じゃあ、ついでにこのかっぱの手も考えて。これも恥ずかしいから」健一は手首を振って、空カキをぶらぶらさせた。
「でも、それがないと引っ張ってもらわない限り、前に進みにくいのではありませんか?」
「大丈夫」健一は空中で自信たっぷりに言った。「それも考えてあるから」
「どんなふうに?」
「今、見せてあげる。おじさん、窓を開けて」
「何を始めるんです?」
「飛ぶんだよ」
「今も飛んでいるじゃありませんか」
「こんなのは浮いているだけだよ。これから本当に人が飛ぶというのを見せてあげるよ」
松本幸介は健一の言葉に言いようのない興奮を感じながら、デスクの背後にある断熱窓を全開にした。
「はい、開けましたよ」
「いいかい、見てて」
健一は空カキを外し、床に落とした。すると、ダイバースーツの両方の袖口にハンドコントローラーが飛びだしていた。健一は窓の方を見つめて体勢を整えると、コントローラーの先についているスイッチボタンを押した。ビッグシューズの踵が唸りをあげた。同時に健一はゆっくりとしたスピードで空中を進みだし、松本幸介のデスクの上を通り、窓をくぐり抜けていった。
松本幸介は巨体を急いで窓のところへ運び、窓から身を乗り出した。
健一は炭酸水のような夏の日差しの中をしばらく飛んでいた。それはトビーをつけたどの人間の飛び方とも違っていた。トビーをつけたものが空中を漂うクラゲなら、健一はグライダーだった。
健一が再び窓から社長室に戻ってくると、松本幸介は怒ったように言った。
「何ですか、それは!」
松本幸介の心は興奮や感動でえぐられ、鋭く尖った部分しか残っていないといった感じだった。
「スカイスーツの動力だよ」
床に下りると、健一は水中メガネを取った。
「踵を見せなさい」
健一は足を上げて、松本幸介に見せた。踵の底に穴が開いていて、中にプロペラが入っていた。
「スイッチを押すと、回転するんだ」
健一はハンドコントローラーのボタンを押した。すると健一はまっすぐ浮きあがり、天井に頭をぶつけた。
「踵発電所の応用ですか」
「そう。まず、踵発電所にエネルギーを溜めてそれを靴本体に移す。それから踵発電所を外し、プロペラがついた踵と交換して、本体のエネルギーをプロペラに与えてやる。靴の本体はこのハンドコントローラーとコードで結ばれているんだ。うるさい音だし、スピードもいまいちだけど、改良すれば何とかなるよ。これならスポーティーだし、若いやつにも受け入れられると思うんだけど。どう、おじさん」
「君は本当にすごいものを発明しましたね」
「応用しただけだよ」
「応用することが、物事の始まりなのです。お父さんのマジックガスも、君の応用があって初めて生きるのです。もうそれをお父さんに見せましたか?」
「忙しいから、かまってられないって」
「ああ、いま三十五キログラムタイプの準備をしているところですからね。でも、私は今、新たに準備しなければいけないものを見てしまいました。そのスカイスーツです。私は昔君のお父さんに私に協力してくれとしつこく頼みました。しかし、君の発想は私と余りにもかけ離れています。私への協力は君の発想を潰すことになりかねません。ですから私は君にはこう言います。君の研究にぜひ協力させてくださいと。君は遊びながら自由にやり、何とかこのスカイスーツを世に送りだしてくれませんか」
このとき、松本幸介は六十四歳で、健一は十七歳だった。
松本幸介が初めて健一に会ったとき、健一はその小さな体のどこにこんな才能を隠していたのだろう。健一の祖父を含めて、木村家には天才の血が流れているにちがいないと松本幸介は思った。しかし、この健一もまた松本幸介との出会いがなかったら、自転車屋の跡取りとして平凡な店主の座に収まっていたのかもしれない。
人と人との出会いの運命は、人の無限の才能を掘り起こし、また埋もれたままにする。
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